スポーツのこれから

第5回

スポーツ「と」オリンピック 

2021.08.22更新

 東京オリンピック2020(以下東京五輪)が終わった。

 終わってしまえばあっという間の17日間だったが、開催中は時が経つのが遅く感じられ、あたりに漂うお祭りムードに僕の心はずっとざわついていた。

 開幕するや否や、テレビやパソコン、スマホの画面はオリンピック関連のニュースで塗り潰された。このムードの切り替わりはいまに始まったことではないが、「パンデミック下」という特殊な情況において開催されたこのたびの東京五輪では、どうしても違和感を覚えずにはいられなかった。こんなことをやってる場合ではないだろうという憂いがつきまとい、こことは違う別世界で行われているようにしか思えなかった。

 開幕してまもなくの7月30日、国際オリンピック委員会(IOC)のマーク・アダムス広報部長は、新型コロナウイルスの感染拡大と東京五輪の開催が無関係であることを主張するために、「パラレルワールド(並行世界)」で行われていると表現した[1]。東京五輪の開催が感染の拡大を引き起こしていないと強調したわけだが、そもそも両者の因果関係は、詳細な調査を積み重ねることによってこれから明らかにすべきことである。この段階では(この原稿を書いているいまもそうだが)、「関係している」とも「関係していない」とも断じることはできない。

 とはいえ東京五輪の開催が感染拡大をもたらした「一因」なのは確かで、だとすれば「関係しているかもしれない」と、その蓋然性から目を背けず科学的な調査をするのが、「おとな」がとるべき態度である。

 マーク・アダムス氏だけでなく菅義偉首相や小池百合子都知事もまた、東京五輪の開催が感染の拡大に無関係であるとの発言を繰り返した[2]。ここには主催者側の欲望、つまり希望的観測が透けてみえる。コロナ禍に見舞われた社会からオリンピックを切り離すという意味で、これは意図的な分断だといっていい。

 コロナ禍を生きるひとりの人間として、「自粛の強要」という矛盾を強いられる生活世界と、画面越しの東京五輪がどうしても地続きとは思えなかった僕は、これとは違った文脈で「パラレルワールド」を経験していたように思う。上から押しつけられる分断ではなく、地べたに生きるひとりの人間の意識から立ち上る「分断」を感じていたのである。

 実をいうと開幕前、僕はある試みを目論んでいた。

 元アスリートの立場から反対の意を明らかにし続けてきた身としては、端からこの東京五輪は楽しめないだろうと思っていた。観戦する気もさらさらなかった。だが一方で、スポーツ好きな僕はもしかするといざ開幕すれば楽しんでしまうかもしれない。声高に反対を叫びながらも、心の奥では各競技を観て楽しむ自分がいるかもしれないと思ってもいた。感情のすべてを理性で制御することは難しいからだ。

 その感情、つまり心の動きを観察してみよう。自分がどのように感じるのかを、自分とは少し離れたところからじっくり観察する。そうすれば、オリンピックが多くの人心をつかんでやまない理由がわかるかもしれない。いわば研究者としての自分が、元アスリートである自分を研究対象にするという試みを、開幕前に目論んでいたのである。

 結果は先に示したとおりで、楽しみたくても楽しめず、「興醒め」が心を覆い尽くしていた。ラグビーというスポーツに夢中になり、それを通じてさまざまなことを身につけた自らの過去すらも否定したくなるような、引き裂かれた思いが胸中に渦巻いていた。楽しめずにいる自分を認めるまでにはそれなりの時間を要した。いや、いまでもまだ十全には認められていないかもしれない。

 楽しめない自分と向き合うなかでふと気づいたことがある。オリンピックを否定してはいても、スポーツそのものに興醒めしているわけではないということである。

 リアルタイムでの観戦はほぼ皆無にせよ、オリンピック関連のニュースを振り返ってはいた。半ば仕事として、メディアが報じる記事を読み漁っていたのだが、そのなかでわずながら心がポジティブに動く瞬間はあった。

 それをいくつか紹介したい。

 まずは、対戦する日本と英国の選手が試合前に片膝をついて人種差別への抗議を示した、女子サッカーの試合だ[3]。審判も含めて片膝をついた選手たちの、毅然とした表情が頼もしくみえた。

 次に、表彰式で頭の上に両手を交差させて「X」のかたちになるポーズをつくり、「抑圧された人々」への連帯を示す抗議行動を行った、女子砲丸投げのレーベン・ソーンダーズ選手(米国)[4]。この「X」は、抑圧されたすべての人々が出会う交差点を意味し、黒人や性的マイノリティーの人たちといっしょに闘う意図があるという[5]

 いずれもオリンピック憲章第50条[6]に違反する恐れがある行為だが、それを厭わず意思を表明した選手たちの勇気に、熱くなった。

 陸上男子走り高跳びでは、ムタズエサ・ダルシム選手(カタール)とジャンマルコ・タンベリ選手(イタリア)のふたりが金メダルに輝いた[7]。決着が着くまで競技を続ける、いわば延長戦の「ジャンプオフ」を断り、大会側と協議してメダルを分け合うことにしたのだ。陸上競技の選手が金メダルを分け合ったのは、1912年のストックホルム五輪以来109年ぶりだという。

 新種目のスケートボードでは、着地に失敗して涙を見せる岡本碧優(みすぐ)選手に、ライバル選手たちが素早く駆け寄り、抱擁したパーク女子決勝でのシーン[8]。SNSを中心に話題になったから、岡本選手が仲間に抱え上げられる写真を目にした人も多いはずだ。

 また男子マラソンでは、ゴール直前にナゲーエ選手(イタリア)が後ろを走るアブディ選手(ベルギー)を何度も振り返り、「ついて来い」と励ましのジェスチャーを繰り返した[9]。ともにソマリア難民のふたりは互いに鼓舞しながらそのままゴールし、それぞれ銀メダルと銅メダルを獲得した。

 走り高跳び、スケートボード、マラソンでのこれらの場面は、すべて「競争の本質」を僕たちに突きつけてくる。勝利を至上とする考え方に亀裂を起こし、そもそも競争とはなにかという根源的な問いに向かわせる。競争は勝利だけが目的ではない。この揺さぶりこそがスポーツの醍醐味だろう。こうした場面をかき集めるなかで徐々に競争がもたらす害悪に気づき、その取り扱い方を、僕たちは身につけていく。勝者の首にかけられるメダルが引退後の世界を生きるための「通行手形」などではなく、その獲得を目指すプロセスにこそ本来の価値があるのだと、彼、彼女たちは無言のうちに語っていた。

 過度な競争がもたらすその害悪を、身をもって示してくれたのは体操女子のシモーネ・バイルズ選手である[10]。バイルズ選手は、メンタルヘルスの問題で団体決勝と個人総合を棄権した。「自分が壊れることを知りながらも、メダルのために演技を続けなくてもいいという前例」は、「競争の本質」を踏まえたスポーツのこれからを模索する上で、その土台となるはずだ。

 ここまで読めば、「なんだ、結局のところオリンピックを礼賛しているじゃないか」と思われるかもしれない。あれだけ威勢よく反対の意を示しながらも楽しんだんじゃないかと。

 でもよく読んで欲しい。あくまでも僕は「スポーツの場面」を紹介しただけだ。

 こうした場面はオリンピックじゃなくても観られる。世界選手権でもW杯でも同じようなシーンは散見されるし、もっといえば部活動における各種大会、そして運動会や体育祭だってそうだろう。よくよく考えれば、競争に励みながらもそれを乗り越えようとする子供や選手の姿に、僕たちは目頭を熱くしてきたのではなかったか。メディアを介しての影響力は小さいながらも、「競争の本質」を目の当たりにした僕たちはこうした場面に揺さぶられてきたはずだ。悔しくて泣きながら走る園児、仲が良い友達とのレギュラー争いやスランプを乗り越えるべく練習に励むその後ろ姿、緊張と対峙したときの真剣な眼差し、勝者を見つめる敗者の複雑な心中とそれが露出した表情・・・。

 スポーツの醍醐味は、決して競技レベルの違いで規定されるものではない。社会に「災害規模の負担」をかけるオリンピックという仕組みがなくとも、いやむしろオリンピックでない方が、「余計なこと」を考えずにスポーツに打ち込めるのではないだろうか。

 スポーツはさまざまなドラマをみせてくれる。身体の限界に挑戦する「子供やアスリート」のパフォーマンスは、観る者を魅了せずにはおかない。なぜそんな動きができるのだろうという驚きは、ほとんどからだを使わずに生活している僕たちには眩しく映る。なぜか眩しくみえるのは、全身をフルに使わなければ生きていけなかった狩猟採集時代の追憶にひたれるからなのかもしれない。

 なりふりかまわず競技に没頭しているときの、あのまなざしや、緊張や不安を押し殺しながら限界を越えようとするときの真剣な表情は、普段の生活ではほとんど目にしない。限られた条件下で全力を出そうと努めるその姿を目にすれば、つい応援したくもなる。目の前のパフォーマンスに自分の人生を準える人もいるだろう。

 冷笑や揶揄を吹き飛ばし、真摯に努力することの尊さを、スポーツは魅せてくれる。

 スポーツが「絵」だとすれば、オリンピックは「額縁」だ。あまりにきらびやかで人為的な装飾を施された額縁は、せっかくの絵を台無しにする。金ピカに塗りつぶされた派手な額縁はその禍々しい反射光で鑑賞する者の目を眩ませ、絵が醸すほんらいの美しさを覆い隠す。

 額縁のみならず絵を飾る「美術館」もまた金ピカに塗りつぶされている。あり得ないほど高価な入館料を設定し、また鑑賞する際の立ち位置までをも強制する。「額縁」も「美術館」も、もちろん必要だが、もっと質素でいい。質素な方が、いい。

 スポーツという絵の素晴らしさは色褪せない。だからこそ、それを「縁取る」オリンピックは過剰だ。あまりに、過剰だ。

 オリンピックは、スポーツを利用しているに過ぎない。

 それをあらためて実感した17日間だった。


*1『女性自身』 2021年7月30日
*2『東京新聞』 2021年7月31日
*3『JIJI.COM』 2021年7月26日
*4『日刊スポーツ』 2021年8月3日
*5『NHK地球まるわかり▽五輪から世界へ アスリートたちの訴え』2021年8月15日
*6オリンピック開催場所、会場、他のオリンピック・エリアにおいては、いかなる種類の示威行動または、政治的、宗教的、人種的な宣伝活動も認められない。(オリンピック憲章第50条第3項)
*7『J-CASTニュース15years』 2021年8月3日
*8『日刊スポーツ』2021年8月4日
*9『東京新聞』 2021年8月8日
*10『NEWSWEEK日本版』 2021年7月28日

平尾 剛

平尾 剛
(ひらお つよし)

1975年大阪府出身。神戸親和女子大学発達教育学部ジュニアスポーツ教育学科教授。同志社大学、三菱自動車工業京都、神戸製鋼コベルコスティーラーズに所属し、1999年第4回ラグビーW杯日本代表に選出。2007年に現役を引退。度重なる怪我がきっかけとなって研究を始める。専門はスポーツ教育学、身体論。著書に『近くて遠いこの身体』『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)、『ぼくらの身体修行論』(内田樹氏との共著、朝日文庫)、監修に『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)がある。

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