スポーツのこれから

第7回

「観る/話すスポーツ」と「するスポーツ」 

2021.10.27更新

 パンデミックのさなかに強行開催された東京2020オリンピック・パラリンピック(以下、東京オリパラ)に関してここまで書き進めてきたが、いよいよ今回からスポーツそのものについての考察を始めたい。自らプレイしたり、観たり話したり支えたり、あるいは毛嫌いすることまでも含めてスポーツへの接し方はさまざまながら、スポーツは今日の社会に隈なく広がっている。避けたくとも避けられないほどスポーツが巷に広がるいま、私たちにとって「スポーツとはいったいなんなのか」という根源的な問いをあらためて考えてみたい。

 あれだけ世間を賑わせながらもいまや忘却の彼方に追いやられた感のある東京オリパラを始め、W杯や世界選手権などの国際大会が昨今では頻繁に開催されている。これらの大会に出場するのは、いわばトップレベルの選手である。競技力に優れた一部の人たちが熱戦を繰り広げる大会に、私たちは視線を注いでいる。

 トップレベルの競技力を誇る選手の過半はプロフェッショナルである。ここでいうプロフェッショナルとは、その競技を通じて生計を立てていることを意味する。つまりお金を稼ぐ「仕事」としてその競技に打ち込んでいるわけである。つまり彼らにとってはスポーツをすることと生きていくことはほぼ同義で、成績が振るわなければ所属チームやスポンサーとの契約が打ち切られて競技が継続できなくなり、職を失う。

 試合後のコメントなどでトップレベルの選手が口にする「死ぬ気でやっている」とか「人生をかけて」というコメントが、それを物語っている。いささか大袈裟に過ぎるという印象は拭えず、また健康が脅かされ命を落とす人もいるこのコロナ禍では不適切な表現だとは思うのだが、その心情は理解できる。なぜなら彼らにとってスポーツは「仕事」だからである。

 もちろん、彼らがその道を極めるという実直さを持ち合わせていることは認める。生活資金を稼ぐことだけがその目的でないのはよくわかっている。だが、トップ選手もまたひとりの人間である以上、この社会を生き抜くためという目的が付随することはやはり無視できない。生計を立てることと、道を極めようとするその姿を通して観る者を楽しませること。この狭間で揺れ動くのが、トップレベルの選手が抱える葛藤である。これはなにもスポーツに限ったことでなく、映画や音楽、演劇など他の諸種の文化でも同じだろう。

 そんな彼らの闘いを、ほとんどの人たちは「観て」楽しむ。観戦する者や応援してくれる人たちの期待を背負って懸命に取り組む選手の姿勢に惹き込まれ、勝利を目指す闘いにおいて生成する色鮮やかな喜怒哀楽に私たちは思わず感情移入してしまう。想像を超えるパフォーマンスを目の当たりにして、ついからだが疼く。

 つまりトップレベルのスポーツは、私たちにとっては「観るスポーツ」なのである。

 そして、ここから派生したのが「話すスポーツ」だ。

 思い起こせば日常会話でスポーツの話題を口にする機会は少なくない。関西圏なら阪神タイガースの話題は日常に溢れており、まるで挨拶のように口にされる。期待の新人、佐藤輝明選手のシーズン前半における目覚ましい活躍と後半に陥った極度の不振。それと比例するかのようにチームも前半は独走状態に入りながらも、後半は失速した。今シーズンは、これにまつわる話がそこかしこで交わされたのは想像に難くない。

 それから投手と野手の「二刀流」を実践する大谷翔平選手の活躍もそうだ。ホームラン王争い、あるいは野球の神様といわれるベーブ・ルース以来の「二桁勝利・二桁ホームラン」の達成をめぐって、日々の活躍が話題に上ったはずだ。

 日常会話ではとかくスポーツの話題をする機会が多い。商談相手と好きなスポーツが同じで、しかも贔屓チームまでもそうだったことがわかって空気が和み、話が進むことだってないともかぎらない。音楽や映画などの話題も人と人をつなぐが、これらに比べるとスポーツはよりカジュアルで扱いやすい。この違いはおそらくスポーツには勝ち負けが明確になる特徴があるからで、昔からのファンでなくとも勝敗さえ知っていれば話を合わせることくらいはできる。また選手やチームの知名度が高いという現実からも、スポーツの話題は口にしやすい。コミュニケーションをはじめるきっかけとして、また会話のプラットフォームを形成するのにスポーツは適しているといえるだろう。

 こうしてスポーツは、知らず知らずのうちに私たちの生活に深く根を下ろしている。

「観るスポーツ」やそこから派生した「話すスポーツ」は、私たちの生活を彩っている。試合を観ること、そしてそれについてあれこれ話をするのは実に楽しい。私は現役を退いてからずっとこうしてスポーツを楽しんできたし、いまもそうである。この楽しみは捨て難いし、捨てる必要もない。

 ただやはりスポーツの本質はプレイ、つまり「自らすること」にある。

 この連載の担当編集者に聞いたのだが、中学時代にバドミントン部に所属していた彼女は、あるとき無性にバドミントンがしたくなり、ニューラケットを購入しようとスポーツショップに足を運んだのだという。でも購入する決断までには至らず、そこから何度かスポーツショップに通ううちになぜかアシックス製の縄跳びを買ってしまい、最近は仕事帰りに近所の川沿いで縄跳びをしている。100回を跳ぶのが精一杯の体力ながら、ほどよく疲れるのが楽しいから続けている。そう話してくれた。

 私には「この感じ」がとてもよくわかる。

 引退後まもなくの2011年、無性にからだを動かしたくなって地元のマラソン大会に出場した。からだの内奥から発せられる運動への衝動がどうしても抑えられず、一人でもできるマラソンに挑戦してみようと思い立ったわけである。

 完走はした。でもその結果は散々だった。後半の約15kmは疲労の蓄積で走ることができずに歩き、意地でゴールまでたどり着いたのはスタートしてから5時間44分後だった。思い起こせば現役時代から長距離走は苦手で、むしろ嫌いな部類に入る運動だったのだが、なぜかそれをゴールしたあとになって思い出した。当時、私が感じたからだを動かしたくなる衝動は、得手不得手を忘れるほどに大きく、抗うことができなかった。

 望む結果が得られなかったとはいえ、マラソンへの挑戦はやはり楽しかった。大会に向け、週に2日は走ると決めてそれを実践する日々は生活にメリハリをもたらしてくれたし、大会当日の祝祭的な雰囲気には思わず気持ちが昂った。

 ふとからだを動かしたくなる。運動がしたくなる。この衝動に駆られて矢も盾もたまらず向かう先にあるのが、「するスポーツ」である。

 つい動きたくなる。この衝動を満たす運動量や質には個人差がある。先の編集者が「川沿いの縄跳び」で十分に心地よさを感じるのに対し、人生の前半で激しい運動を繰り返してきた私には「マラソン大会への出場」ほどの刺激が必要だった。いわば運動への「満足度」は、これまでの運動経験に左右される。

 ここには明確な差異がある。でも、ただそれだけだ。優劣の差はない。トップレベルの選手や周囲の人たちと運動量や質の差を比較し、どちらが優れているかをつい気にしがちだが、それはナンセンスである。それぞれが満足するだけの運動量や質を求めればいい。

 大切なのは自らの衝動に従うこと。身体感覚を駆使するときにもたらされる「爽快さ」に身を委ねること。この「爽快さ」をもたらすのが「するスポーツ」であり、その本質は「運動」である。

 3歳の娘は、とにかく動きたがる。階段が好きなので、わざわざ遠回りしてまでその上り下りを求めるし、商業施設などでは床に描かれた模様や色あいに合わせて歩いたり跳ねたりする。たとえば赤色の箇所だけを踏もうとしたり、引かれた線の上をどこまでも辿ろうしたり。私は娘が通行人の邪魔にならないよう見守りながら、その無邪気さについ目を細めてしまう。衝動のままにからだを動かしている娘の躍動感は見ていて飽きない。

 また娘は塗り絵がお気に入りで、家では色鉛筆を使って象やリスなどの絵柄をひたすら塗りつぶしている。枠をはみ出してもお構いなしに、手を律動的に動かす。最近ははみだす分量も減り、筆圧も強くなってきた。目と手を連動させて使うと考えれば塗り絵もまた「運動」といえるだろう。さらには声帯を震わせながら音の強弱や抑揚をつけるのが「話す」と考えれば、こちらもまた「運動」だ。ハサミを使う、お箸を使う、洋服を着るなどもそうだとすれば、娘にとっては日常生活のすべてが「運動」で埋め尽くされている。

 スポーツの意味は「気晴らし」や「気分転換」あるいは「遊び」だと広く解釈されているが、もともとの語源は『あるところから別の場所に運ぶ・移す・転換する・追放する』という意味のラテン語「deportare(デポルターレ)」である。

 私はここから「運動性」を読み取る。「からだ」を運び、移す。また「衝動」を転換し、追放する。「追放」というよりは「解放」の方が個人的にはしっくりくるが、いずれにしてもそこには状態を変化させる「運動性」がみて取れる。

 現代的な意味の「気晴らし」や「気分転換」は、時代の流れとともに「こころ」の変化がクローズアップされた帰結だろう。運動をしたあとの「爽快さ」があまりに格別だったため、それをもたらすものがスポーツだといつしか解釈されたのだと思う。だが、このこころの変化はあくまでも結果でしかなく、その本質はからだを運び、移すこと、つまり「運動」そのものにある。夢中になって走り、跳び跳ね、塗り絵をする娘の真剣な表情がそれを物語っている。

 観たり、話して楽しむスポーツとは別に、気楽に、気軽に、自らスポーツをする。運動に親しむ。幼い子供のように「このからだ」をとにかく動かしてみる。そうすればスポーツを私たちのもとに取り戻すことができるはずだ。ビジネスでもなく競争でもない、ただ健やかでいるためのスポーツが、ここにある。

平尾 剛

平尾 剛
(ひらお つよし)

1975年大阪府出身。神戸親和女子大学発達教育学部ジュニアスポーツ教育学科教授。同志社大学、三菱自動車工業京都、神戸製鋼コベルコスティーラーズに所属し、1999年第4回ラグビーW杯日本代表に選出。2007年に現役を引退。度重なる怪我がきっかけとなって研究を始める。専門はスポーツ教育学、身体論。著書に『近くて遠いこの身体』『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)、『ぼくらの身体修行論』(内田樹氏との共著、朝日文庫)、監修に『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)がある。

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