スポーツのこれから

第8回

懐古的なよろこび 

2021.11.25更新

 前回、スポーツの本質は「自らすること」だと書いた。試合を「観る」、あるいはその話題について「話す」のもスポーツの楽しみではあるのだが、その根っこには自分のからだを動かす、つまり「する」がある。ジョギングや縄跳び、あるいは仲間同志でフットサルをしたときなどにもたらされる「爽快さ」がスポーツの大前提にあり、その語源からも、衝動にしたがって「このからだ」を使うことがスポーツの実相である。


 これを踏まえて今回もまた「するスポーツ」を考察する。

 「するスポーツ」がもたらす「爽快さ」を知らない人はいない。だから「するスポーツ」を嫌いな人は、原理的にはこの世に存在しない。

 と、のっけから大風呂敷を広げたが、やや暴言に過ぎるこの言明に異論がある人は多いはずだ。からだを動かすなんて億劫で、ましてやスポーツなんてやりたくない。観たり話したりするならまだしも自ら「する」なんてとんでもない。そう思う人が少なからずいる現実を、私だって知らないわけではない。

 それでもなお断言する。「するスポーツ」を嫌いな人はいないのだと。

 なぜこんなことがいえるのか。それを説明する。


 「するスポーツ」の本質は運動であり、運動すればなぜ「爽快さ」が得られるのか。それは「できなかったことができるようになる」からだ。縄跳びにたとえれば100回連続で跳べるようになる。あるいは100回跳んでも息が乱れなくなる。二重跳びや三重跳びがさらりとできるようになるなど、できなかったことができるようになったときのよろこびは、なにものにも代え難い。

 できることが増える。私たちは運動を通じてそれをありありと実感する。

 とはいえ、思うように縄跳びが跳べるようになったところで、「爽快さ」以外に特段なにが得られるわけでもない。プロでもない限り金銭的な報酬もないし、周囲から注目を集めることもほとんどない。にもかかわらずつい「するスポーツ」をしたくなるのは、できなかったことができるようになったときの、なんともいえない充実感が得られるからだ。できることが増えるというのは「からだの拡張」である。からだの能力が高まったときには曰く表現し難いポジティブな感情が湧く。私のように運動習慣が身についた人はこの快感情を求めて、ついからだが疼くのである。


 さて、親馬鹿の私はここでまた娘の姿がちらつく。

 もうすぐ3歳半になる娘は、最近になってようやく、手をつながずにひとりで階段を降りられるようになった。差し伸べる手を払いのけ、その一歩を恐る恐る踏み出す。踊り場にたどり着くたびにうれしそうな表情を浮かべ、ちらりと私の顔を覗き込んで「見て、見て!」と訴えかけてくる。その仕草からは「爽快さ」を感じているのが手に取るようにわかる。

 なにもかもが未熟な子供の日常は「できないこと」で溢れている。階段の上り下りという大人なら無意識的に行える日常動作も彼女にとっては未習得の動作で、塗り絵も、ハサミで紙を切ることも、鉛筆で文字を書くことも、ほとんどすべての営みがそうである。

 子供が生きる世界は「できないこと」で埋め尽くされている。これは裏を返せば「からだの拡張」を実感できる契機がそこらじゅうに横溢しているということだ。

 つまり、子供にとっては日常生活そのものがからだを拡張させる「するスポーツ」になりうる。

 私はそれをうらやましく思う。

 大人になると、からだを動かす時間をわざわざ作らなければ「からだの拡張」がもたらす「爽快さ」を感じられない。仕事や家事の合間を縫って、家でストレッチや体操をしたり、ウォーキングやジョギングをする時間を捻出しなければならない。忙しくてなかなか運動できない日も多く、だから日々の一コマ一コマがそのまま「するスポーツ」になる生活ってどんなに楽しいことだろう。ただ階段を上り下りするだけで「爽快さ」が得られるなんて、ぜいたくにもほどがある。

 よくよく考えれば、その昔は誰もがこうした生活を送っていた。どんな大人もかつては赤ん坊だったのだから、たったひとりの例外もなくすべての人は生活がそのまま「するスポーツ」だった時期を過ごしていた。階段の上り下りや色を塗ることに楽しみを感じていただろうし、ハイハイからヨチヨチ歩きを経て自分ひとりで歩けるようになったときにはおそらく誇らしげな気分を味わっていたはずだ。

 私たちはこうしてからだを拡張させてきた。だとすれば、人間ならば誰しもが「からだの拡張」がもたらす「爽快さ」をすでに知っていることになる。できなかったことができるようになる経験とそれがもたらす「爽快さ」は、いわば成長の証であり、これは何歳になってもつい追い求めてしまう生物的本能だといえるだろう。

 これが、冒頭に述べた「するスポーツ」を嫌いな人はいないと断言した理由である。


 「からだの拡張」を望まない人はこの世に存在しない。ここは言い切ってもいいはずだ。今日より明日、今月より来月、また今年より来年と、たとえその伸び幅がわずかだったとしても着実に成長することを私たちは本能的に希求している。短期的には後退したとしても長期的には前進したい。いまいる場所よりも遠くに行きたい。そうすることで幸せになりたい。それが生きるということであって、自らの生と真摯に向き合う人はおそらくそう願ってやまないはずだ。

 「成長」には右肩上がりのイメージがつきまとい、どこか窮屈に思えるのならば「変化」と言い換えてもいい。変化をともなわない人生ほどオモシロくないものはない。

 たしかに私たち大人は、幼い子供のようにわかりやすい変化は望めない。歩けるようになった、階段をひとりで下りられるようになったなど、目に見えてわかりやすい変化は望むべくもない。だが、ただただ「このからだ」を使いながら日々を生きるその姿勢は模倣できる。成長とか変化はあくまでも結果としてもたらされるだけだ。それに至るまでのプロセスでは目の前の運動にただ夢中になるだけでいい。そうしてからだを拡張させることを通じて、私たちはいまこの瞬間を生き抜くためのよすがである価値観をもじわじわ変化させてゆく。


 「日本近代スポーツの父」とされるF.W.ストレンジの講演を聴いた武田千代三郎は、運動について次のように述懐している。

運動は人の獣力のみを練るを目的とせず、吾人の知徳を磨かんが為なり。運動は手段にして、目的に非ず、吾人の体躯を練るは病を防ぎ寿を保たんが為のみには非ず、期するところはこれ以上に在り。運動場に於ける訓育の遥かに教室内に於ける教化に勝るものあればなり。

 ここから考えると、「するスポーツ」とは、からだの拡張を通じて心身が成長あるいは変化してゆくプロセスを象る型だといえるのではないか。幼いころからずっとそうして自分をかたち作ってきたやり方を思い出す、またとない営みなのだ。なにが得られるのか、どこにたどり着くのかは不明瞭ながらも、このやり方を敷衍すればその先に必ず新たな境地が開かれるはずだと思えてくる。いまはできなくてもいずれはできるようになるとの期待が膨らみ、未来への不安が払拭されることで幾ばくかの安堵がもたらされる。

 これが「爽快さ」の正体だと私は思う。できなかったことができるようになることで智徳すらも磨かれる、そのよろこびを「するスポーツ」は懐古的にもたらすのである。


 さて、そうはいったところで現実をみれば「するスポーツ」を嫌う人がいるのは確かである。なかにはからだを動かすことが嫌いだと公言して憚らない人さえいる。「からだの拡張」がこの上なく爽快であることを信じてやまない私からすれば不思議でならないのだが、しかし、彼らが運動嫌いになる原因が思い当たらないわけではない。

 それはなにか。

 次回はそれについて書くことにしよう。


[参考文献]
高橋孝蔵『倫敦から来た近代スポーツの伝道師 お雇い外国人F.W.ストレンジの活躍』 小学館新書、2012年

平尾 剛

平尾 剛
(ひらお つよし)

1975年大阪府出身。神戸親和女子大学発達教育学部ジュニアスポーツ教育学科教授。同志社大学、三菱自動車工業京都、神戸製鋼コベルコスティーラーズに所属し、1999年第4回ラグビーW杯日本代表に選出。2007年に現役を引退。度重なる怪我がきっかけとなって研究を始める。専門はスポーツ教育学、身体論。著書に『近くて遠いこの身体』『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)、『ぼくらの身体修行論』(内田樹氏との共著、朝日文庫)、監修に『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)がある。

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