第9回
「他者からの目」を振り解く
2021.12.30更新
「するスポーツ」が嫌いな人はいない。なぜなら誰もがかつては赤ん坊だったからである。歩くことも話すこともままならず、食事や排泄すら誰かの世話に頼らなければならなかった私たちは、それらひとつひとつを徐々に身につけてきた。歩行に会話、咀嚼や嚥下など、できなかったことができるようになる経験を積み重ねてきた。
こうしてからだを拡張させてきた私たちだから、運動にともなう「爽快さ」を実は知っている。運動つまり「するスポーツ」は、記憶の彼方に眠る「爽快さ」を思い出すように懐古的なよろこびを私たちにもたらしてくれる。
だから、からだを動かすことが嫌いな人は原理的には存在しない。
にもかかわらず現実に目を向ければ「運動ギライ」の人は数多くいる。休みの日に時間を作ってジョギングをするなんてとんでもない。わざわざしんどいことをするなんて信じられないし、そもそも汗をかきたくない。そう公言して憚らない人はあちこちにいる。
それはなぜなのか。
ここまでが前回の内容である。
今回はそれを受けて書く。
本来なら運動を好むはずの私たちがなぜそれを嫌いになるのか。
そう、私たちはいつしか運動が嫌いになる。
この世に生まれ落ちてしばらくのあいだは、誰しもがあらゆる運動を好んでいた。「好んでいた」というより、運動を求めることがすなわち「生きる」ってことだった。
母乳やミルクから離乳食を経て固形物を咀嚼し、嚥下できるようになる。仰向けに寝ているだけだったのが寝返りを打ち、やがて地面を這って自らの意思で行きたいところに到達できるようになる。それも束の間につかまり立ちからよちよち歩き、そして念願の二足歩行ができるようになる。
ほとんどなにもできなかったからだはひとつひとつの動きを着実に身につけてゆく。
準備運動もしない。練習だってしない。なのになぜだかできるようになる。お腹が空き、眠たくなれば泣く。そうしてただ生きているだけなのにこのからだは日々ゆっくりと、でも確実に成長するのだ。できないことができるようになったよろこびをゆっくり味わう暇もないくらい、次々とからだは拡張してゆく。
このとき子供は、私たち大人が想像を絶するような「爽快さ」を感じている、はずだ。
「生の実感」とでもいうべきこの爽快さを、運動はもたらしてくれる。
それがいつしか忘れ去られる。
よくよく考えてみれば当然だ。成熟すればするほどに「できないこと」は減ってゆくからである。
食事も排泄も他のことを考えながらできるようになるし、ことばを憶えれば会話だって当たり前にできる。バランスをとろうと努力しなくたって歩くこともできるし、フォークもスプーンも、お箸も鉛筆も器用に使えるようになる。まったくできなかったことができるようになる、すなわち「ゼロが1になる」動きは、それを獲得したときに曰く表現し難い「爽快さ」をもたらすはずで、これを感じる機会は大人になるにつれてだんだん少なくなる。だから赤ん坊が感じているはずの絶大なる「爽快さ」は、もう味わうことができない。
それでも強烈な「爽快さ」を味わった経験は記憶の奥底に堆積している。
だからこそ「するスポーツ」に挑戦して様々な動きを身につけたときによみがえってくる。懐古的な身体実感をともなって再びあのときの「爽快さ」が、懐かしさをともなってからだ中を駆けめぐるのだ。
「運動ギライ」はこの回路が寸断されている。
もともと好きだったはずの運動がなにかのきっかけで嫌いになった。
そのきっかけとはなにか。それは「他者からの目」だ。
3歳半の娘は2ヶ月ほど前からバレエ教室に通い始めた。娘を含めた園児8人のクラスは実に賑やかで、子供たちは口々に「見て見てー」と、自分の動きを先生に認めてもらおうとアピールする。そんな子供たちを頭ごなしに咎めたりせず、耳を傾けながらもやんわりといなす先生の手際のよさには、いつも感心する。
年長にもなると先生の指示通りに動いたり、自分の出番がくるまでおとなしく待つこともできるが、まだ年中以下の子供たちは集中力が続かず、互いにちょっかいを出し合ったりして遊び始める。年少より一つ下のうちの娘も私と目が合えばすかさず手を振るし、うれしくなったのかそのまま駆け寄ってきたりする。親としてはハラハラするのだけれど、そのときどきの感情への正直さがとても眩しい。衝動そのままに行動できる伸びやかさが娘にはあって、もちろん年少や年中にも、またいくらか落ち着いているとはいえ年長にだってある。
どうやら園児はまだ「他者からの目」をそこまで気にしていないようだ。
「褒められたくて」先生の目を気にすることはあっても、「怒られないように」という意識はなさそうだ。子供同士でも、誰かの動きをじっと見つめることはあっても、自分がその動きをできるかどうかだけを気にかけているように見受けられる。「もっとこうした方がいいよ」なんてアドバイスもしないし、誰かと自分の動きを比較もしない。
いや、もしかすると比較はしているのかもしれない。
お友だちをじっと見つめているとき、「あんなふうにできればいいな」と感じているのならそれは比較だからだ。自分にはまだあんなふうにできないという自覚があるからついその動きに目が奪われるわけで、自分と他者の動きの違いにはたぶん気づいている。その動きが美しいのかそうでないのかはおそらく肌感覚としてわかっていると思う。
つまり優劣はわかっている。あのお友だちにはできて、自分にはまだできないという現実は、たぶん認識している。
ただ、それで悩んだりはしていない。できない自分を責めてはいない。その証拠に、レッスンが終わると娘はすぐに楽しかったと口にするし、次のレッスンが待ち遠しくて仕方がない様子だからだ。
いつかはあのお友だちのように上手になりたいとは思っているのだろう。だができないことにコンプレックスを抱いてはいない。できない自分を恥じることなく、「他者からの目」などお構いなしにただただバレエを楽しんでいる。
フロイト、ユングと並び、「心理学者の三大巨頭」と称されるアルフレッド・アドラーは、すべての人間は「優越性の追求」という普遍的な欲求を持っているという。
よちよち歩きの子供が安定した歩行を望み、またことばを憶えて周囲の人たちとの自由な意思疎通を欲するように、無力な状態から脱したい、もっと向上したいという欲求が私たちにはある。人類史全体における科学の進歩もみてもそれは明らかで、いまより少しでもよくなるようにとひとりひとりが希求するからこそ文明は今日まで発展を続けている。
これと対をなすのが「劣等感」である。
理想や目標を掲げてそれに向かって邁進していると、ふと落ち込むときがくる。掲げた理想に到達できないいまの自分が、まるで劣っているような感覚に陥る。スポーツ選手なら、いつまでたってもスキルが身につかない、レギュラーになれない、優れたチームメイトに追いつかないなど、「劣等感」に苛まれる。
つまり、「優越性の追求」には「劣等感」がつきまとう。
他者と比較するのは仕方がない。むしろ必要だ。自分の足りなさや至らなさに気がついてさらなる努力をしようという意欲につながるし、それが結果的に成長を促進させるからである。あの人よりも私は劣っている(または優れている)という自覚は、「優越性の追求」を抱く私たちにはごく自然なもので避けることはできないし、それ自体は決して悪いことではない。
問題なのはここからである。
私たちは、この「劣等感」をつい言い訳にする。
「学歴が低いから就職できない」、「スポーツばかりしてきたから勉強ができない」、「母子家庭で育ったので人を心底から思いやれない」、そして「体育の成績が悪かったから運動がキライ」というように、他者と比べて自己評価を下し、それを根拠にして現状を認識してしまう。
だが現実をみれば、学歴が低くても就職している人はいるし、スポーツばかりしてても勉強ができる人もいる。母子家庭で育ちながらも深く人を思いやれたり、体育の成績が悪くても運動は好きという人もいる。それなのに「劣等感」を言い訳にして、自らコンプレックスを作り出す。自身にネガティブなレッテルを貼るのである。
アドラーはこれを「劣等コンプレックス」といい、本来なら意欲を高め、成長を促進するはずの「劣等感」と区別している。
人である以上は「劣等感」から逃れられない。だけど、他者との優劣を口実に否定的な考えを導き出す「劣等コンプレックス」は、心がけ次第で変えられる。少しだけ勇気を出しさえすればいい。
娘たち園児を見ていると、私はなぜだかからだを動かしたくなる。「他者からの目」を気にせず、ただただ無邪気に動き回る彼女たちに、デスクワークで肩や腰が凝り固まったこのからだが恨めしくなってきてからだが疼く。「劣等感」を言い訳にせず、どうにかして上手な動きに近づけようと真剣に取り組む彼女たちの姿に、私は知らず知らずのうちに勇気づけられている。
「他者からの目」に臆さず、「劣等感」を冷静に受け止めた上で「勇気」を出して動いてみよう。そうすれば懐古的な「爽快さ」が味わえる。跳び箱が跳べず、逆上がりやマット運動や球技ができなくたって、「他者からの目」を振り解きさえすれば私たちは運動を楽しむことができるのだ。
やがて娘にも「他者からの目」を気にする時期が訪れるだろう。そのときがきたら私は全力で勇気づけようと思っている。