第10回
「下手でもいい」と思えるために
2022.01.21更新
前回は、運動が嫌いになる原因について書いた。
かつては赤ちゃんだったすべてのおとなに懐古的なよろこびをもたらす運動が、いつしか「他者からの目」が気になるようになって嫌いになる。この「他者からの目」こそ運動が嫌いになる原因だから、これを振り解きさえすれば私たちは再び運動を楽しめるようになるはずだ。だから幼い子供を見習い、ちょっとだけ勇気を出してその一歩を踏み出してみてはどうか。
そう投げかけたわけだが、勇気を出すという心がけひとつでいままで嫌いだった運動が好きになれるのなら世話はない。いわゆる精神論で解決できるのなら話は早い。その勇気をなかなか発揮できないのが運動を毛嫌いする人のジレンマであり、頭でわかっていてもなかなか実践にまで至れないそのもどかしさは、一朝一夕には拭い去れない。
このジレンマから抜け出るためにはどうすればよいかについて、もう少し考えてみよう。運動嫌いな人たちはどうすれば勇気を出せるのか、それを念頭に置きながら、私たちを運動から遠ざける「他者からの目」について、さらなる考察を進める。
「他者からの目」を気にし始めるのはおそらく小学校に入ったころである。学校体育や運動会での経験を経て、「他者からの目を気にする心性」がゆっくりと、でも確実につくられてゆく。
逆上がりや跳び箱、徒競走やマラソン、種々の球技など、学校体育ではさまざまな種目ごとに達成目標が設定され、それをもとに個々人の成績がつけられる。逆上がりはできるかどうかの二択だが、跳び箱は跳べる段数によって、また徒競走やマラソンもその走破タイムによって数値化される。自らの運動能力が数値という乾いた指標に置き換わり、同学齢集団での序列が可視化されて自分と他者の優劣が浮き彫りになる。
これは体育だけでなく、国語や算数、理科、社会など他の教科でも同じだろう。
自らの能力の写し鏡としてテストの点数がある。79点と80点ならほとんど違いはないはずなのに、この「1点の差」がその優劣を目に見えるかたちで浮かび上がらせる。自我が芽生え始め、他者を意識するようになった子供たちにとっては、わずか「1点の差」であっても、あの子に比べて自らは劣っている(あるいは優っている)と印象づけられる。しかもそれが第三者から一目瞭然の「数値」として表されるのだから、言い訳する余地もなく逃げ場が塞がれる。
成績をつけなければならない以上、各科目の熟達の程度を点数化するのは仕方がない。能力の点数化を避けるためには学校教育というシステム自体を改変しなければならず、ここを批判するのは現実的ではない。学校教育のあり方を見直すという大掛かりな作業は、長期スパンで考えれば必要だとは思うが、いままさに学校に通う児童や生徒や学生が現行システムのなかでいかに充実した学びを受けられるかを、まずは考えなければならない。ここを置き去りにした学校教育改革は不毛でしかない。
長期的視野にもとづく大胆なフルモデルチェンジと、短期的視野にもとづく細々としたマイナーチェンジを同時並行で行う。つまり自動車を運転しながら車体の修理を行うといったアクロバティックな作業が不可欠である。
それを踏まえ、ここで確認しておきたいのは、能力の点数化は子供たちが勉学に向かう際のモチベーションを高め、その成長や発達を促すための手段にすぎないということである。
可視化され、序列化された優劣を発奮材料とし、さらなる努力を積み重ねることで成熟を果たすという教育本来の目的を、教師や親が念頭に置く。前回に述べたアドラーの指摘を思い出せば、能力の数値化は自らを高めるための「劣等感」を醸成する限りにおいて有用で、その「劣等感」を言い訳にした「劣等コンプレックス」を子供が抱かないようにする配慮がそこにはついてまわる。それを担うのはいうまでもなく先生や親など子供の傍に立つ大人である。
能力の数値化がもたらす弊害をただしく理解した大人をひとりでも増やすこと。これが私の考えるマイナーチェンジである。
話を体育に戻そう。
能力の数値化は、とくに体育においては大いなる課題として立ちはだかる。「劣等コンプレックス」を抱く子供を量産している現状から、それは明らかである。体育の成績が振るわないことを理由に運動が苦手であると自らにレッテルを貼る子供たちの、なんと多いことか。運動がもたらす懐古的な爽快さを忘れさせるために、いまの体育は存在しているのではないかと疑いたくもなる。
「数値」による優劣の差は、たとえば国語や算数などの座学だとテストを誰にも見せないようにすれば隠すことができる。たとえ点数がバレたとしても、間違った箇所やその間違え方までが露わになることはなく、他者の目に触れさせないようにすることができる。
でも体育はそうではない。実技テストは隠せない。
マット運動など各種目で試験課題とされた動きを、クラスメイトの視線が注がれるなかで行わなければならない。できたかできなかったかが周りに一目で分かる。成功すれば拍手喝采を受ける反面、失敗すればその仕方も含めた一部始終が白日の下に晒される。隠そうにも隠すことはできない。
さらにいえば運動能力は、思考力や記憶力などを駆使して筆記する学力とは異なり、動きそのものに優劣の差が如実に現れる。鋭さやしなやかさ、あるいは鈍さやぎこちなさといった美醜が見る者の目に映り、それがテスト結果と合わさってクラスメイトの記憶に忘れ難く刻まれる。成績評価となったその点数に至るプロセスまでもが周囲に伝わってしまうのである。
運動が苦手で不得意な人にとって、これはつらい。とくに多感な時期にある子供には過酷すぎる。体育での実技テストを、耐えがたい屈辱が刻まれた記憶として引きずるのも無理はない。
この点でいまの学校体育は、「できる/できない」で運動を解釈する見方や考え方を社会に広く根づかせる元凶となっている。健やかなからだを育てるはずの体育が、その本来の目的を見失って迷走している。
また、表向きは教育を目的とした運動部活動もそうである。
部内でのレギュラー争いや、全国大会への出場およびそこでの戦績アップを目指した活動は、過度に競争的な環境をもたらす。優劣を自覚させられ、そこから半ば強制的に発奮させられる。常に「右肩上がり」を求められるなかで、子供たちは「できる/できない」で運動を解釈する見方や考え方に徐々に染まってゆく。
やがて指導者やチームメイトからの査定の目が張り巡らされている環境に疲れてしまい、途中で辞める部員や、たとえ卒業まで続けたとしても、それ以降はするだけでなく観るのも嫌になる部員もいる。突然やる気を失う、いわゆる「燃え尽き症候群」になることもさほど珍しいことではない。その予備軍を含めれば、多くの生徒や学生たちがいまも頭を悩ましていることだろう。
学校体育で運動そのものが嫌いになる人たちに加えて、運動部活動でその種目が嫌いになる人たちもいる。両者に共通するのは、やはり「他者からの目」である。これを気にする心性を構造的に作り出しているのが、いまの日本の体育・スポーツなのだ。
この現状を変えるにはどうすればよいのだろうか。
ドイツやポーランドなど外国でプレーした経験が豊富な元プロサッカー選手の中野遼太郎氏は、日本にサッカー文化が根づかないのは「めっちゃ楽しそうにサッカーをする、死ぬほどサッカーが下手なおっさん」がいないからではないかという。
「トレーニングウェアなのかすら分からないTシャツを汗だくにして、脂で武装した横腹を短パンの上に乗せ、得体の知れないメーカーの靴を履いて、ゴール七個分外れた軌道のシュートに対して、1秒遅れで大味なスライディングタックルを飛ば」すおっさんが、欧州にはざらにいる。仕事終わりの週末に、勝利と試合後に飲むビールを楽しみにガチャガチャとサッカーをしている。
こうしたおっさんが、欧州のサッカー文化を根っこのところでかたち作っている。
「1秒遅れのスライディングは、子どもたちに『この先もサッカーを紡いでいく選択肢』を与えているし、その脇腹は『サッカーは生涯、愛するに足るスポーツだ』と教えているのです」。
つまり育成年代の子供たちは、プロ選手になれなくてもサッカーを楽しめる道が他にあること、そうして生涯にわたって続けられる安心感を、このおっさんたちから学んでいるのではないかという中野氏の指摘は、的を射ている。
私はここに、いまの日本における体育・スポーツ観を変えるヒントがあると思う。
「できる/できない」で運動を捉える凝り固まった体育・スポーツ観を変えるには、下手でもいいから思いっきり楽しめばいい。そう考える人が社会に増えれば、運動嫌いの人たちもちょっと運動でもしてみるかと思い腰を上げやすくなるし、部活動を辞めてからもそのスポーツを続けていきやすくなるだろう。下手くそだからと苦笑するのではなく、ガハハと笑い飛ばせる人たちがたくさんいる社会になれば、「他者からの目」が温かくなる分だけ運動することへのハードルは下がる。意を決して勇気を出さずとも自然とからだが疼くような、そんな空気が渦まく社会をみんなで目指せればと思う。