第11回
無邪気さをアップデートする
2022.02.24更新
もうすぐ4歳になる娘は最近よく踊る。子供番組のおねえさんおにいさんやアニメのキャラクターが、歌に合わせて踊るその振り付けを真似て手や腰を振り、ときにくるっと回転して片脚立ちでポーズを決める。その様子がたまらない。得意げに目を輝かせた表情がなんともいえず、その腰つきや手足を目一杯に広げる表現豊かな挙動に、もしかすると将来はプロダンサーになるんじゃないかと親バカな私は夢想している。
うっとり眺めるのも束の間に、贔屓目を注ぐ父親から冷静な分析を試みる研究者へとたちまち立場を移せば、このしなやかさは「他者からの目」を気にかけていないだけなんだよなと我に返る。親をよろこばせたいとは思っているだろうが、踊りそのものの優劣やそれへの評価は歯牙にもかけていない。下手だから恥ずかしいなんて気持ちを抱いている様子は皆無で、とにかく無邪気だ。
出来栄えを気にすることのない伸びやかでしなやかな動きは、観ていてとても心地よい。心から楽しんでいるその情緒がいかんなく伝わってくるからだ。
無邪気にふるまうことで周囲に愉悦を振りまく娘は、あらためて「天才」だなと思う。私たち家族の気分を否応なく高めてくれるのだから。
おっと、また親心が出てしまった。失礼。
でも、こんなふうに子供を思うのはなにも私だけではないだろう。世界中にいる幼い子供を持つほとんどの家族は、おそらくこうして我が子や孫に目を細めているに違いない。この無邪気さをずっと愛でていたい。守りたい。そう望んでいるはずだ。叶わぬ願いと知りながらも、査定や評価という「他者からの目」とは無縁な場所ですくすくと育って欲しい。親ならばそう願わずにはいられないだろうし、少なくとも私はそう願ってやまない。
前回、「めっちゃ楽しそうにサッカーをする、死ぬほどサッカーが下手なおっさん」が日本には少なく、それがサッカー文化が根づかない理由だとする中野遼太郎氏のコラムを紹介した。優劣やそれに基づく序列を気にしない人たちの存在が、サッカー文化を根っこのところで形づくっているというのはまさに慧眼で、この視点はおそらく日本におけるスポーツ全般にもいえる。上手いとか下手とか、できるとかできないとかの外形的な判断基準を棚に上げてはじめて、スポーツおよび運動そのものを楽しむことができるようになるというのは、私の経験則にもぴたりとあてはまる。
なりふり構わず踊る娘に目を細めながら、ふと思った。これって中野氏がいうところの「死ぬほど下手だけど楽しそうにサッカーをするおっさん」だよなって。
でっぷり太ったおっさんとわが娘を同一視するなんて気でも狂ったかと思われるかもしれない。だが、重なってしまったものは仕方がない。無我夢中に没頭するその姿勢はどうみても同じで、「他者からの目」を意に介さないその無邪気さにおいてあきらかに両者は同質にみえる。
父親としては誠に不本意ではあるのだが、どうやら中野氏がみかけたおっさんとうちの娘は、ともにスポーツ本来のありようを体現する同志としてカテゴライズできそうである。
とはいえ、まったく同じであるとは言い難いし、そうであって欲しくはないし、そんなわけがない。誰の目にもそれとわかる、純粋さをともなった子供の無邪気さと、脇腹にたっぷりと贅肉をつけたおっさんが醸す、見かけとは裏腹な無邪気さが同じであるわけがない。根源的には同じ、つまり質が同じというだけで、そこにはやはり違いがある。
なにが違うのか。
それは「他者からの目」を経過しているかどうか、である。
娘はまだ、査定や評価という「他者からの目」を知らない。熟達者によってパフォーマンスを点数化されたことも、もっと上手なお友達と比べてここが足りないと叱責されたこともない。他者と比較されることがいかに窮屈であるかを、わかっていない。
娘にとっての他者とは、自分の言動を心からよろこんでくれる極めてポジティブな存在であり、つまり娘に備わる無邪気さは無知ゆえに成り立っている。
これに対しておっさんは、痛烈に突き刺さる「他者からの目」を知っている。これまでにありとあらゆる機会で他者と比較され、査定や評価の目にさらされ続けた経験がある。運動能力のみならずコミュニケーション能力や美意識、趣味嗜好、場合によっては容姿や出自までもが比較され、それにともなう嫉妬が渦巻くシビアな人間関係のただなかをおっさんは生き抜いてきた。だからおっさんにとっての他者は、必ずしもポジティブな存在ではなく、むしろかいくぐらなければならない邪念を放つ厄介者である。
いやがおうにもまとわりつく「他者からの目」を、身をよじって振り解いたあとにかろうじて確保できる無邪気さがおっさん、つまり「おとな」のそれである。
無知ゆえに自ずと発せられる子供の無邪気さと、不断の努力の果てにたどりついた「おとな」のそれは、表向き同じにみえてもその内実は異なる。ここから、「死ぬほど下手だけど楽しそうにサッカーをするおっさん」は、かつては持っていたがいまは失ってしまった無邪気さを追い求め、再びそれを手にした者だといえるだろう。大袈裟にいえばこのおっさんは、世間のしがらみから解き放たれた自由な時空をサッカーというスポーツを通じて創り上げたのである。
私は先に娘のことを「天才」と称した。単なる親バカだと思われたかもしれないが、実はここには明確な意図がある。
天才の語義は、「生まれつき備わったすぐれた才能」あるいは「それを持っている人」である。ふだん私たちはこの言葉を努力では埋まらない隔たりとして、また自分とは遠くかけ離れた境地に至った者を形容するために、過剰な期待を込めるか、もしくはやや謙って口にすることが多い。本来は「先天的な才能」もしくは「それを持ち合わせた人」という意味でしかないのに、他者より秀でていることの強調やできなさの言い訳という解釈が為されて、口にしづらくなっている。
内側から湧き起こる踊りたいという欲求に素直に従うあの無邪気さは、生まれついてのものである。こちらが教えたわけでもなく自然発生的に娘はからだを動かしている。私は、無邪気さという才能を持ち合わせている点で娘は天才だと言ったのである。
で、これはなにも娘だけに限らない。
無邪気さは、子供たちすべてに備わっている。近所の公園で遊ぶ子供たちを眺めていると、その一挙手一投足から無邪気さが溢れ出ている。「他者からの目」など知らぬ存ぜぬの子供は、ただ与えられたものとしての才能をいかんなく発揮している。だから、すべての子供は字義通りに「天才」だといえる。
だが悲しいかな、人はいつしかそれを忘れ去る。自我が芽生え、競争に身を投じるなかで、または心ない大人からの打算に晒されて、持ち合わせているはずの才能を錆びつかせてしまう。大人になれば社会性を身につけなければならないからある程度の喪失は仕方がない。だが、根こそぎなくすのだけはなんとしても避けたい。
というのも、この無邪気さはなにかを成し遂げるための原動力になるからだ。あらゆる能力の開花を下支えし、さらにそれを押し広げるためのエンジンである。「いい歳して恥ずかしい」「いまさら始めたって遅い」「非現実的だ」といったノイズを取り除き、たえずチューンアップし続けなければならない。
歳とともに目減りしてゆく無邪気さをどうにかこうにか守り抜くこと。そうしてようやくたどり着く、いわばアップデートされた<無邪気さ>を、「死ぬほど下手だけど楽しそうにサッカーをするおっさん」は身をもって示している。邪気を意図的に払い退けた先にある<無邪気さ>はこういうものなんだと、プレーを通じて体現しているのだ。
「他者からの目」と格闘しながら無邪気さを守る。すなわち子供心を抱き続けるための契機として「するスポーツ」はある。