第12回
アスリートの<無邪気さ>
2022.03.24更新
前回、「他者からの目」と格闘しながら無邪気さを守る契機が「するスポーツ」だと書いた。おとなになるにつれて失われてしまう無邪気さは、「するスポーツ」を通じて守ることができる。運動への衝動そのままに楽しくからだを動かす時間は、かつての無邪気さを思い出させてくれる。しかも子供時代の剥き出しなそれではなく、アップデートするかたちで無邪気さは再構成される。
いま一度、確認しておくと、<無邪気さ>とは「なにかを成し遂げるための原動力」であり、「あらゆる能力の開花を下支えするエンジンのようなもの」である。平たくいえば「裸の王様」に面と向かって「裸だよ」といえる力だ。この<無邪気さ>は、「他者からの目」を振り払った先にかろうじて立ち上がるものであり、「するスポーツ」はそれを体認し、養う契機になりうるのではないか。
そう提言したわけである。
ところで、よくよく考えるとアスリートもまた「するスポーツ」の担い手である。
<無邪気さ>が「なにかを成し遂げるための原動力」、あるいは「あらゆる能力の開花を下支えするエンジンのようなもの」だとすれば、ハイパフォーマンスを追求するアスリートにとってもこれは欠かせない。観客による声援や野次、ポジションを争うライバルからの視線、指導者によるゆきすぎた指導や親などの支援者から向けられる期待など、「他者からの目」に惑わされないタフさが求められる点では同じだ。
むろん愛好者のそれとはいささか内実が異なるのは言うまでもない。競技の優劣をほとんど気にせずともよい愛好者と、ハイパフォーマンスを目的とするアスリートのそれとは、やはり違う。
どこが違うのか。今回はそれを書きたい。
すでに述べた通り、愛好者の<無邪気さ>とは、「他者からの目」を振り解いた先にたどり着くものとしてある。いわば「気にしない」ように努めるうちに「気にならなくなった」状態だ。ひたすら打ち消し続けるなかでいつのまにかそれをやりすごせるようになるわけだ。不断の努力によって、また滑稽さや失敗をガハハと笑い飛ばす周囲の人たちが醸す和やかな雰囲気が後押しすることによって。
この意味ではアスリートもまたそうである。声援や野次など直接的なものから期待や落胆など間接的なものまで、パフォーマンスを阻害する「他者からの目」にめげることなく、それらをまるで無きもののようにできる。だからたくさんの観客や支援者からの期待、および対戦相手を応援するサイドからの敵視が渦巻く舞台でも、ものの見事にパフォーマンスを発揮できる。
「他者からの目」を振り解くことができる。この点では同じである。
だが、アスリートは単に振り解くだけにはとどまらない。プレッシャーがかかる舞台であってもその実力をいかんなく発揮するアスリートは、パフォーマンスを高めるために「他者からの目」を積極的に利用する。からだにまとわりつき、その自由を奪うはずの重圧を、逆に推進力へと変換する。
まるで大海を泳ぐマグロのように、である。
マグロは、時にものすごい速度で泳ぐ。クロマグロに至っては最大で時速80kmにもおよぶという。この驚くべき泳法の秘密を解明して、潜水艦や船の設計に活かそうというプロジェクトが1995年にマサチューセッツ工科大学で立ち上がった。
そのプロセスで興味深い仮説が浮かび上がった。それは、自らの尾ひれで周囲に大小の渦や水圧の勾配を作り出し、その水の流れの変化を活かして推進力を得ているのではないかというものだ。素早く泳ぐうえで障壁となるはずの海水に働きかけ、それを運動のためのリソースとして利用している。つまり、自らが泳ぎやすくなる「流れるプール」を作り出しているのではないかというのである。
この仮説によれば、マグロにとって海水とはもはや障害物ではなく、むしろそれがなければ素早く泳げない、なくてはならないものである。
このマグロにとっての海水が、アスリートにとっての「他者からの目」である。
昨年の東京五輪は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて無観客開催となった。声援や野次がなく、応援や敵視がないなかでの試合に、少なくないアスリートが違和感を吐露していたが、これはハイパフォーマンスのためのリソースが一部失われたことへの戸惑いだったのだと思う。いつもあるはずのものがないことでその存在のかけがえのなさに気がついたのではないか。観客の声援に応え、敵視を見返すことは、モチベーションの問題であることに異論はないにしても、それ以上に「他者からの目」がパフォーマンスに直接的に影響を及ぼす重要な要因だったことに多くのアスリートが勘づいたのだと思われる。
つまり観客の視線に晒されながらパフォーマンスを発揮してきたアスリートたちは、知らず知らずのうちに「他者からの目」を利用する術を身につけていたのである。
どんな舞台でも物怖じしないアスリートのその様は、メディアなどではしばしば「逆境をはねのける強靭さ」などと形容したりする。力強さやたくましさでつい語りがちなのだが、アスリート自身の胸の内は実のところもっと柔和であると私は思っている。勇ましく真っ向から対峙してはねのけるというよりは、身を委ねつつもそれに流されはしないという揺らぎを含む、やわらかな心持ちだろうと。
というのも、アスリートにとっての「他者からの目」のほとんどを占める「周囲の期待」に、しかるべく応えるというのは、そう容易ではないからである。
期待をかけられることはうれしい。意気に感じてやりがいも生まれる。だが期待は、それに応えられなかったときにはいともかんたんに落胆へと裏返る。ともすれば批難されることだってある。持ち上げられればそこからいつか落とされるのではないか。こうした不安が潜在的に芽生えるものだ。
ただ、だからといって期待に応えることばかりにとらわれてもいけない。期待という他者の欲望に準えすぎると、自らを見失ってアイデンティティが揺さぶられ、場合によっては崩壊しかねないからだ。試合前後のコメントなどでアスリートが口にする「いつも通りの」「自分らしい」といったことばは、「他者からの目」に飲み込まれないための抵抗を指し示しているものと思われる。
つまり期待には、その扱い方次第では心身を蝕む暴力性が潜んでいる。
だから期待は、まともに受け取らずただ揺るがせにしておく方がいい。がっぷり四つに組むような強靭さでは、とてもじゃないが受け止めきれない。ありがたく頂戴しつつ、その裏では「知らんがな」と悪態をつくくらいが、おそらくちょうどいい。ともすれば障壁ともなりうる期待は、しなりのある身構えによってようやく自らを後押しする推進力へと変換できるようになる。
そして、このしなりのある身構えをとるために大切なのが<無邪気さ>である。期待にさらりと乗せられる、まるでお調子者のようでいながらも、いやなものはいや、ダメなものはダメだとはねのけてみせる。一見すれば、不快から逃れようとする子供のわがままのようなこの<無邪気さ>が、しなりのある身構えをつくる。マグロが海に働きかけて大小の渦や水圧の勾配を作りだすように、アスリートは<無邪気さ>を発揮することによって自らを後押しする時空を作るのである。
「他者からの目」に取り囲まれながら、それに押し流されず逆に利用するために、アスリートは<無邪気さ>を手放してはならない。この<無邪気さ>こそが、アスリートのハイパフォーマンスを根っこのところで支えていると私は思う。
参考文献
森田真生 『数学する身体』 新潮社