第15回
やせ我慢の美学
2022.07.26更新
「勝利至上主義」とは、競争主義から派生した亜種である。ひとりひとりの成長を促しつつ全体の質を高めることを目的とする競争主義は、ある境界を超えれば「勝利至上主義」へと変質する。方便に過ぎなかった競争がいつのまにか目的化し、その競争の果てに得られる勝利に至上の価値を置く考え方が、「勝利至上主義」だ。
今年の4月に全日本柔道連盟が小学生の全国大会を廃止した。それ以降、「勝利至上主義」を批判する映像や記事がテレビやネットで目につくようになったが、そこでは「行き過ぎた勝利至上主義」という表現がよく用いられている。賢明な読者ならすでにお気づきだろうが、ここまで述べてきた内容を踏まえればこの表現は正鵠を射ていない。
「勝利至上主義」は行き過ぎない。行き過ぎるのは競争主義である。
したがって「行き過ぎた競争主義」というのが正しい表記となる。
この不正確なことば遣いが、読者や視聴者の誤解を招く一因になっていると私には思われる。ここを読み替えれば、競争をめぐるスポーツ批判の本質が浮かび上がるはずだ。「勝利至上主義」に関する映像を見たり、記事を読む際には、ここを踏まえて読み替えてみてほしい。おそらく幾分かはスムーズに理解が進むだろう。
さて、「勝利至上主義」と競争主義を腑分けし、両者の関係性を明らかにすることで、スポーツのこれからを再考するための道筋が整った。
繰り返すが、勝利を追い求める競争そのものは忌むべきものではない。競争原理は、取り扱い方を間違わなければ全体の質を高めるうえで有用である。問題は競争そのものにあるのではなく、「競争を通じて得られる勝利を至上の価値とする考え方」にある。ここを深掘りしたうえで適切な対策を講じれば、スポーツを健全化へと向かわせることができる。
いつ、どのようにして、競争主義が「勝利至上主義」へと変質するのか、そのデッドラインを明示する。「超えてはいけない一線」を明らかにする。そうすれば対策を練ることができるはずだ。
ただこれはことばでいうほどかんたんではない。かんたんではないからこそ、知らず知らずのうちにその一線を踏み越えてしまい、いつのまにか「勝利至上主義」が広がってしまうわけだ。グラウンドに白線を引くように、目に見えてわかりやすいデジタル的な線引きはできないとしても、具体的な現象の提示によってその境界を浮かび上がらせることはできるかもしれない。たとえ朧げであっても「勝利至上主義」へと変質する契機、つまり「崖っぷち」をイメージできれば奈落の底に落ちずに踏みとどまることができるだろう。
では、早速始めよう。
まずは「選手の立ち場」から考えてみる。
スポーツを始めるときは誰もが初心者である。それぞれの種目で求められるスキルはなにひとつ身についてない。どんな基礎的なスキルであっても未習得だ。「できないこと」だらけの初心者は失敗しても咎められることはない。どんな失敗であっても初心者だからという理由で自らに言い訳できる。だから自分を責めずにすむ。「できない」がベースの初心者は「できたこと」をひとつひとつ積み重ねる、いわば足し算をするように安心してスポーツに興じられる。
そこからしばらくすると習熟に差が生じ始める。飲み込みの早い人はすぐにできるようになるが、そうでない人はそれなりに時間がかかる。他者と比較して「できる/できない」の程度が浮き彫りになり、その差が気になり始める。
ここが「競争モード」へのとば口である。
他者との比較において優劣が顕になり、その差を埋めようと努める際には否が応にも競争心が芽生える。いうなればチームメイト同士で争うフェイズに入るわけである。この競争モードにおいては親しき者との関係性が揺さぶられ、図らずも心には波風が立つ。
先輩との競い合いがもたらす心の葛藤はさほど問題にはならないだろう。年齢の差を理由にいなすことができるからだ。部活動なら1年ないし2年後には追いついてやると、臥薪嘗胆の境地でいればいい。彼我の優劣はそのまま競技経験の差なのだから、やがて時間が解決する。そう思っておけばいい。
では、自分よりも秀でた同級生ならどうか。
もし、その同級生が自分よりも早く競技を始めたのだとすれば、先輩のときと同様に競技経験の差を持ち出せばいい。5歳から始めた人と10歳から始めた人ではパフォーマンスに差が出るのは自明だからだ。センスがない、その競技に向いていない、努力が足りないなどと自省せず、その同級生から学ぶつもりで接すればいい。
とはいえ人一倍負けず嫌いな性格の持ち主なら、そう単純には思えないだろう。現状の差をいち早く解消しようとして、いささか力むはずだからだ。悔しさ混じりのこの張り合いは、意欲の源泉として留まっていれば問題ない。「ライバル視」するその同級生は、自らを高めるうえで貴重な刺激を与えてくれる好敵手になるからである。
だがこのライバル視は、度が過ぎれば途端にネガティブに作用し始める。
自分が劣っていることに我慢がならず、そのあまりの不快さに居ても立ってもいられない。悔しくて悔しくて、気がつけば四六時中そのことばかり考えてしまう。この感情に引き摺られ、心の揺らぎがやがて制御できなくなると、その同級生の存在が疎ましく感じられるようになる。自らの至らなさを浮き彫りにする試金石として目の前に立ちはだかり、好敵手であるはずの相手が自らの存在を脅かす「敵」へと変貌するのである。
こうなると厄介である。相手の失敗は自分の利得になるからとその失敗を内心でよろこぶようになり、自らの手の内を明かさず相手を利する言動を無意識的に慎むようになる。場合によっては互いの信頼関係にも亀裂が生じ、かつて感じていた親しさがよそよそしさに取って代わる。
相手を「ライバル視」するのか、それとも「敵視」するのか。
ここが、競争主義が行き過ぎるデッドラインである。
チームメイトが好敵手に見えるか、それとも敵に見えるか、この自己点検が、自ら励むスポーツ活動が有意義なものかどうかを判ずるリトマス紙になる。
そうはいっても、なかなか難しいよな。そんな声が聞こえてきそうである。
確かに、この自己点検はいささか理想に過ぎる。なぜなら競争モードに入った選手が、いつのときもチームメイトをライバル視するのは至難の業だからだ。
私の選手時代を思い返すと、現実的には両者のあいだを漂うのが選手の心理であり、そのときどきの情況で好敵手に思えたり敵に思えたりするものだ。レギュラーになる、試合で活躍する、思い通りにからだが動くなど、自分が好調なときはライバル視できたとしても、レギュラーから外れる、試合で致命的なミスをする、できていたことができなくなるなど、怪我をしたときやスランプのときはいとも容易に敵視へと変わる。取り巻く環境やからだの状態は千変万化する。それに応じて心もまた波打つのが人間だからだ。
つまりスポーツ選手は、「勝利至上主義」と競争主義を隔てるラインを常に跨いでいるといえる。いつのときも「勝利至上主義」の領域に片足を突っ込んでおり、彼岸に渡ってしまわぬよう絶妙な身のこなしでバランスを保っている。ときにチームメイトを敵視しながらも最後の最後では好敵手として見ようと、身を捩りながら踏ん張っているのが、紛れもない現実だ。
敵視しそうになる気持ちに歯止めをかけて平静を装う。この「やせ我慢」ができるかどうか。ここが現実的なデッドラインになろう。この「やせ我慢」ができて初めて健全な競争モードを保ち、スポーツ活動が競争主義の枠内に踏みとどまることができる。そして内心の葛藤を表に出さないこの態度こそ、一人前のスポーツ選手の証だといえる。
とはいえ、この「やせ我慢」はしんどい。とくに未成熟な子供には大人が想像する以上にシビアだ。なぜなら社会性の獲得と相反するからである。他者との親和的なつながりを求める年代にとって、友人を好敵手とみなす「やせ我慢」がもたらす葛藤は、まるで台風のような強風をその心に吹かせる。
激しい横風に晒されながら平然と立ち続けるためにはどうすればいいか。
それは「気楽さ」である。
いつかは追いつくかもしれないし、追いつかないかもしれない。そのくらい呑気でいて、いい。頭を抱えて考え込んだところで競技力の差は埋まらないし、怪我が治ったりスランプから抜けられるわけでもないのだ。むしろお気楽でいた方がのびのびとプレーできるし、怪我の治りも早くなって、そもそもスランプに陥らずにすむ。勝負に負けたところで命を奪われるわけでも、無一文になるわけでもないのだよ、当たり前だけど。
怪我やスランプの原因を理由づけようとする思考は、往々にしてネガティブな「レッテル貼り」になる。練習量が不足していたとか、メンタルが弱いからだとか、センスがないとかの自虐を導く。心身の限界に挑み続ける選手はいつのときも怪我やスランプの危険が伴う以上、ときにそうなるのは必然で、悩む必要なんてまったくない。もっといえば、指導者のせいにするくらいの横柄さがあってもいいくらいだ。
このお気楽で呑気な身構えは、神秘性を秘めるからだと向き合うスポーツ選手には不可欠だと私は考えている。この身構えをせめて高校生くらいまで手放さずにおけば、競争が方便に過ぎないことをそのプロセスから肌で理解し、のちの活動が豊かで実りあるものになるだろう。
こうして競争の取り扱い方を学べば、長らくそのスポーツと向き合えるようになるはずだ。燃え尽きることなく引退してからもそのスポーツを楽しめるマインドがつくられる。「やせ我慢の美学」こそがスポーツから得られるもの、すなわち「スポーツのチカラ」のひとつだと私は思う。