スポーツのこれから

第16回

長い目でみる 

2022.08.31更新

 チームメイトを「ライバル視」しているか、それとも「敵視」しているか。それを自己点検するのが勝利至上主義に陥らないためのひとつの方法である。このとき選手は、胸の内に激しく沸き立つ悔しさを我慢して表向きだけでも平静を保つ「やせ我慢」が強いられる。この「やせ我慢」を通じて選手は競技力を高め、人としての成長も遂げるわけである。

 とはいえ人一倍負けず嫌いな人はこれがなかなか難しい。胃の辺りに居座り続ける悔しさが他者に見劣りする自分を許すまいと暴れ続けるからである。この感情の昂りをどうにかこうにかやり過ごすためにはお気楽で呑気に構えること。「いつかは追い抜ける、かもしれない」と時間の経過に委ねて、いまを楽しめばそれでいい。なぜならほとんどのスポーツにおいて高校生くらいまでの競技力の差は、長い目でみれば「あってないようなもの」だからである。「現在」の差からあえて目を背け、未知なる「未来」の可能性に思いを馳せる、すなわち時間というファクターに身を委ねる態度が「お気楽」や「呑気さ」である。

 というようなことをここまで書いてきた。

 この考えは概ね私の経験則によるもので、だからこそ確信を持っているのだが、それだけでは心もとないと感じる読者もなかにはいるだろう。それはあなただけにいえることであって、普遍的ではないし汎用性に乏しいと。また、やせ我慢とかお気楽とか呑気とかのことばづかいから、つまりのところは精神論であってどこか説得力に欠ける。そう感じる向きもあるかもしれない。

 こうした方々にも納得していただくために、引き続き「やせ我慢の美学」について書いてみたい。

 元陸上選手の為末大氏は自らの競技経験を振り返って、「勝ち負けじゃないところにモチベーションがあったことが最後の支えになりました。どうやったら速く走れるか、という好奇心がモチベーションの半分でした」と語っている[1]

 いまよりもっと速く走ることへの好奇心がモチベーションになっていたという為末氏のこの経験則に、私は満腔の同意を表する。勝ち負けではないところにもモチベーションがあったからこそ長らくその競技に親しむことができたのは、私も同じである。

 いってみれば勝ち負けとは「他者との競い合い」である。「他者」を基準として、いまの自分の実力を確認するのがその本質だ。たとえば対戦する相手が100mを10秒5で走り、自分は10秒4で走ったとすれば、それでいい。相手との比較において自らの優位性が確認できるので、とてもわかりやすい。

 だがこの他者との競い合いは、ときとして自分の目を狂わせる。

 というのも、もし相手の調子が悪く、「10秒5」がベストを尽くすことができずに出たタイムだとしよう。ベストではないタイムとの比較でたまたま手にした勝利なら、それに満足できるはずがないし、してはならないだろう。なぜなら次に対戦する機会で大幅に記録を縮めてくる可能性があるのだから、おちおちよろこんでなんかいられない。

 反対に、相手の体調がすこぶるよく自己ベストを大幅に更新したのであれば、その勝利には価値があるといえる。相手のベストに勝ったのだから自ずと自信も芽生えるし、現時点では自分の方が優れていると断じられるからだ。

 つまり、どんな競争であっても、相手のコンディションがどうだったかによって、その試合結果から得られるフィードバックは変わってくる。自らの実力を推し量る基準が他者である以上これは必然であり、勝ち負けがそのまま実力の優劣とは必ずしもいえないのである。

 ここで大きな問題が立ちはだかる。現実的には他者のコンディションのすべてを把握することはできないからだ。シューズを変えたとか体脂肪率が減り筋肉量が増えたとか、古傷が傷んでいたとかフォームを変えたばかりだとかのコンディションは、当人でないとわからない。

 いや当人でさえそのすべてはわからないだろう。感覚をたどることでしかわかりえない自らの「このからだ」は、まるでうなぎを掴むときのようにつるつる滑ってその全貌を捉えられないものだからだ。全能感すら覚えるほどの好調だと自覚していても、実はそれがスランプ直前に訪れる束の間の状態かもしれないし、たとえ違和感や痛みを抱えていても、それを庇うことで無駄な力が抜けてベストに近いパフォーマンスが発揮できたりする。

 とかく「このからだ」はつかみどころがなく、身体感覚の総体として朧げながら描けるイメージでしかない。いま現在の自分のコンディションを実態と過不足なく把握するのは、ほとんど奇跡に近い。少なくない誤差を含み込んだイメージ像が、「このからだ」なのである。

 さらにラグビーのようなチームスポーツだと、選手同士の連携の良し悪しがこれに加わる。個々の体調とチームとしてのつながりが入り混じるから、その試合結果がどの程度まで実力を発揮できたがゆえのパフォーマンスなのかはわからない。複数人にわたるサインプレーの緊密具合とか、失敗を重ねて心が挫けた選手のネガティブさがどれチーム全体にどれだけ蔓延していたのかとか、考えうるファクターが無数に存在するわけで、対戦したチームがベストの状態だったのか、あるいは絶不調だったのかがつかめない以上、その試合結果から類推される自らの実力は砂上の楼閣のように脆い。目盛の幅がそのつど変わる定規で測った数値には、どれほどの客観性もないのである。

 つまりこういうことだ。

 こちらがベストパフォーマンスをしても相手がそれを上回るデキならば負けるし、こちらが絶不調でも相手がそれ以上に調子が悪ければ勝つこともある。すなわち勝負とは水物であって、必ずしも試合でのパフォーマンスが実力そのものを反映しない。だからこそ勝敗に拘泥すれば、その実力を見誤る恐れがある。ここで生じる「このからだ」への迷いや混乱は、ときにスランプやイップスが入り込む隙になるから厄介だ。

 おそらく為末氏はこれをどこかの段階で思い知った。だから勝ち負けよりも「どうやったら速く走れるか」という好奇心をモチベーションにした。他者との比較ではなく過去における自分との比較に意識を向けたのだ。試合結果はひとつの目安にとどめ、それに一喜一憂することなく競技に打ち込んだ。だからこそ「最後の支え」になりえたのだと私は思う。

 勝敗に一喜一憂しない態度は、傍目にはお気楽で呑気に映る。勝てばよろこび、負けて悔しがるのがスタンダードであると思う人の目には、いささか物足りなく感じられるはずだからだ。勝ってもさほどよろこばず、負けてもあまりに気にしない。そんな姿に意欲の欠如をみてとる人もいるだろう。

 試合に勝った瞬間は確かにうれしい。込み上げるものもある。でももし、その試合でほとんど活躍できず、自身のプレーに納得できていなければうれしさは半減する。もっとこうしとけばよかったという反省から、よろこびよりも悔しさが胸に渦巻く。

 負けた瞬間は確かに悔しい。胃の辺りが重くなる。でももし自身のプレーに納得できていたならば、よろこびをともなった手応えが感じられる。表向きは悔しがりつつも、意図したプレーを成功させた場面がフラッシュバックして思わず表情が綻ぶ。

 プレーを通じた身体実感と、それにともなう感情の揺れ動きを内面から感じ、いわく言い難い心境におかれているのが選手なのだ。

 勝ち負けとは異なる次元の、「このからだ」からの声は複雑怪奇である。勝ち負けがどこか他人事に思えるほどの心境になってはじめて、この複雑さを味わうことができる。「このからだ」の内側から感じられる実に多様な感懐を存分に味わうことこそが、スポーツの真のオモシロさだと私は思う。こころを含む「このからだ」からのにぎやかな声に耳を傾けるには、勝ち負けを主題にして楽しむ周囲からの期待に忖度してよろこんだり悔しがったりしている暇などないのである。

 「やせ我慢」は、お気楽に、呑気でいることによってなんとか継続できる。お気楽で呑気に構えるうちに、いつしかそれが身体化し、やがて勝ち負けとはかけ離れた世界へと没入してゆく。ここに勝利至上主義が介入する余地などない。取り立てて勝敗に盛り上がるのは限られた指導者や保護者やメディアだけで、当の本人はそれとは違うところでただひたすら「このからだ」と対話している。この乖離に無頓着で、極めて定型的な物語に流し込んでスポーツを象るのは、あまりにもったいない。

 ここまで私が書いてきたことは従来の精神論には回収されない、こころを含み込むからだに焦点を当てた「身体論」である。もしくは「現象学的精神論」と言い換えてもいい。スポーツにまつわるこころの問題を、すべて「根性論」や「精神論」で一蹴するような不毛なことだけは避けなければならない。

 やせ我慢をするために、もっとお気楽に、呑気にやろう。

 スポーツをする子供たちに私はこう呼びかけたい。

 うれしがらなくても悔しがらなくても、ただ見守ろう。

 観客や保護者や指導者にはこうお願いする。

 長い目でみればいずれ平仄が合う。こう考えるおとなが増えればスポーツの未来は明るい。


[1] 「朝日新聞デジタル」2022年3月24日

平尾 剛

平尾 剛
(ひらお つよし)

1975年大阪府出身。神戸親和女子大学発達教育学部ジュニアスポーツ教育学科教授。同志社大学、三菱自動車工業京都、神戸製鋼コベルコスティーラーズに所属し、1999年第4回ラグビーW杯日本代表に選出。2007年に現役を引退。度重なる怪我がきっかけとなって研究を始める。専門はスポーツ教育学、身体論。著書に『近くて遠いこの身体』『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)、『ぼくらの身体修行論』(内田樹氏との共著、朝日文庫)、監修に『たのしいうんどう』(朝日新聞出版)がある。

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