第19回
観る者とする者の隔たり
2022.11.24更新
生粋の阪神ファンである友人から聞いたのだが、最近は野次がひどいらしい。プロ野球を、結果を追うくらいでそれほど熱心には観ない僕は、阪神ファンの野次は周囲をクスッと笑わせるアイロニカルな声援だと思っていた。試合をオモシロく観るためのエッセンスだとずっと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。耳にするのもSNS等で見るのも嫌気が差すほどで、思わずファンをやめたくなるというのである。
野次が愛着の裏返しであることは容易に想像できる。好きだからこそついことばが過ぎるのは、さまざまな場面でよくあることだ。だが、周囲を不快にするほどの激烈な野次はやはり控えるべきだろう。オブラートに包まないネガティブな感情は人を遠ざけることになるからだ。
ここにもまた「程度」の問題がみてとれる。
ふと思う。もしかするとスポーツの応援が過熱しつつあるんじゃないかと。
そういえばこの前、インドネシアのプロサッカーリーグで大惨事が起きたことを思い出した。23年間負けなしの相手に敗戦したことに腹を立てたホームチームのサポーター約3000人が暴徒化し、治安部隊と衝突して子供を含む130人以上が死亡した。多数の死傷者を出した原因として、スタジアム内の避難経路が施錠されていたという不備が指摘されているが、きっかけは「応援の過熱」である。サポーターが高ぶる感情を抑え切れずにグラウンドになだれ込んでさえいなければ、この大惨事は起きなかった。
サッカーには「フーリガン」がいるといわれる。フーリガンとは、試合の進行を妨害するほどの熱狂的なファンのことだ。彼らによるこの手の惨事は、過去を振り返ればたびたび起きている。
1985年にベルギーで行われたUEFAチャンピオンズカップの決勝で多数の死傷者を出した「ヘイゼルの悲劇」。もっと遡って1964年にペルーで行われた東京オリンピック南米予選では、主審の判定を不服とする地元ファンの抗議が暴動となり、318人が死亡、500人以上が重傷を負った。サッカー界では、フーリガンの狼藉によって死者が出るほどの暴動が間欠的に起きている。
ノーサイド精神を重んじるラグビー経験者からすれば俄には信じられない話である。
と、言いたいところではあるが、どうやらラグビー界にも過熱する応援は波及しつつあるらしい。近年のヨーロッパでは、フィールドに花火などを投げ込んで乱入する、相手チームのファンと乱闘を演じるなどが問題視されつつあり、その背景には社会に不満を持つ若者の存在があると、国際政治学者の六辻彰二氏は指摘している[1]。
ラグビーにはフーリガンがいない。ずっとそういわれてきた。だが、ラグビーリーグの一部では情勢が変わりつつある[2]。「応援の過熱」がラグビーにさえ及んでいる現実を思えば、スポーツ界全般に広がりつつあるといっていいかもしれない。
「応援の過熱」がもっとも深刻なのが若年層のスポーツである。我が子かわいさに声を張り上げる親のそれだ。
対戦相手のプレーにいちゃもんをつけて重圧をかける。審判の判定にはあからさまに不服を漏らす。メンバーの人選に不満があると指導者にそれをぶつける。不甲斐ない試合をしたからといって我が子を罵倒する者までいるというのだから、常軌を逸している。
以前に書いたように、この問題を重くみた全日本柔道連盟は小学生の全国大会を廃止したわけだが、親からの明らかに度が過ぎた介入は目も当てられない。
ちなみに親による過剰な応援は、日本だけではなく世界的にも問題視されている。
イングランドにあるラグビークラブ、ロンドン・アイリッシュのグラウンド傍には、次のように書かれた看板が立っている。
PLEASE REMEMBER
THESE ARE KIDS
THIS IS A GAME
THE COACHES ARE VOLUNTEERS
THE REFEREES ARE HUMAN
THIS IS NOT THE 6 NATIONS
彼らは子供です。
あくまでもゲームです。
コーチはボランティアだし、レフリーは人間です。
最後の行にある「THE 6 NATIONS」とは、イングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、フランス、イタリアの6カ国が優勝を争う大会のこと。だからこの一文は「代表選手が集うプロの大会ではありません」という意味になる。
内容からわかる通り、これはエキサイトする親たちを窘めるためのものだ。
アメリカ在住のスポーツジャーナリスト谷口輝世子氏は、これと同様の立て看板がアメリカ国内にもあると報告している[3]。
それにしてもなぜ応援は過熱するのだろうか。
いくつかある理由のひとつに、ミラーニューロンの働きが挙げられる。
ニューロンとは脳を構成する神経細胞のことで、そのなかに視覚で捉えた動きをまるで鏡写しのように読み取るミラーニューロンがある。他の人の動きを見ているだけなのにまるで自分がやっているかのように感じられ、たとえ「このからだ」ではできない動きであっても、その動きをしたときと同じような反応が脳内で起こっているというのだ。たとえば大谷翔平選手がホームランを打つ姿を見たとき、脳内だけは大谷選手のそれと同期しているわけである。
しかもミラーニューロンは、動きの視覚特性だけでなくその意図すらも汲み取って再現するという。パフォーマンスのみならず心の動きさえもトレースしているのだとすれば、まさにその人に「なりきっている」といっていいだろう。まるで自分がそこにいてプレーしているかのように感じるこの錯覚が応援の醍醐味であり、それを期待して私たちはスポーツ観戦に没頭する。
つまりスポーツの応援は、身体的な興奮とともに自分ならざる者への仮想的な同期を促す。ここに応援を過熱させる一因がある。
身を乗り出した応援はあなたと私を一体化させる。贔屓にするアスリートや我が子の一挙手一投足が、まるで我が身に起きたことのように感じられ、しくじりや達成、それにともなう恥ずかしさや高揚感がリアリティをともなってこのからだを貫く。自他の境界が溶解するこの情況で、つい欠落するのが敬意である。
家族でも恋人でも友人でも、お互いの距離が近づくほどにことば遣いはカジュアルになってゆく。だが、親密さに甘えて配慮を欠けば信頼関係は破綻する。人と人とが適切な距離を保つ限りにおいて払えるのが敬意だ。そのすべてが理解できないあなたを、私とは異なる存在だと認めて初めて人は敬意を抱くことができる。
自他の区別が曖昧になればクリスプの効いた野次が罵詈雑言となり、成長へと導くはずの指導が暴言にまみれ、ともすれば虐待へとつながる。対象が我が子となれば親心が加わるから、さらに遠慮のない介入を呼び込むことになる。
アスリートもひとりの人間である。夢の世界の住人ではない。
子供もまたひとりの人間である。まだ未熟ではあるものの人格が備わったプレイヤーだ。
他人の視線が集まる場に出る覚悟を決めて競争に身を投じた彼らを、他者として観る。応援を過熱させないためにはこの構えを手放してはならない。観る者とする者、私とあなたの隔たりなくして敬意は生まれないのだから。
[1]六辻彰二 「ラグビーにはびこるフーリガン--なぜ「紳士のスポーツ」が暴力を招くか」Yahoo!ニュース 2019年10月6日
[2]世界的にみるとラグビーには統括団体が異なる2種がある。リーグ(13人制)とユニオン(15人制)だ。2019年日本で開催されたワールドカップは「ユニオン」である。六辻氏が記事のなかで取り上げているのは「リーグ」であり、「ユニオン」にまで応援の過熱が広がっているかどうかは定かではない。
[3]ミシガン州の野球場、サッカー場、イリノイ州のアイスリンクにも同様の看板が立てられているという。(谷口輝世子『なぜ、子どものスポーツを見ていると力が入るのか』 生活書院 2020年)