数学の贈り物数学の贈り物

2019.01.01更新

 僕はいま自宅の駐車場に停めた車の中でこの原稿を書いている。妻が体調を崩して寝込んでいるため、ここ一週間ほどフルタイムで子守と家事にかかりきりなのである。息子が寝ているあいだだけが、自由に使える時間だ。今日は、鴨川に出かけたいという息子を車に乗せたところ、すぐに寝てしまったので、「いまだ!」とばかりに駐車場に戻ってパソコンを開いた。

 五年間続けてきたこの連載が、三月に本になる。今回の原稿は、本に収められる最後のエッセイになる予定だ。時間をかけてじっくり取り組みたかったが、現実には一人になる時間を確保することもままならない状況である。だが、物事の運びがはかばかしくないこと、はかどらないことは、必ずしも悪いことばかりではない。

 「はかばかし」や「はかどる」の「はか」は、もともと田んぼを区画に分かつときに使われた言葉だそうだ。数区に分かたれた田を、かつては「一はか、二はか」などと数えたのだという。『大言海』によれば、それが「農業の進むより一般の事」を指す言葉に転じ、やがて、仕事の進みやはかどりを意味する言葉になった。

 頼りなく移ろい続ける世界に、単位という基準を打ち立て、それと比較して物事をはかる。こうして把握される「比(ratio)」を通して世界を認識できるという考えは、数学という営みの源流にある。はかられた量は、対応する表象を操作することで「計算」できるようになる。何千年もかけて数学は、この「計算」という営みに秘められた可能性を掘り起こしてきた。あらゆる計算を遂行できる機械(=コンピュータ)が社会の隅々にまで浸透していくと、すべてを「はか(測、計、量)」ることで、さらなる便利と効率を追求しようという動きも出てくる。そんな時代に、はかばかしくあること、はかがゆくことは、そうでないことに比べて正義であると、まるで当然のことのように信じられている。

 子どもの住む世界に、はかどりをはかるための基準はない。物事に単位の物差しを押し当て、固定された尺度と比べてはかるという発想がない。はかのない世界を、はかのないままに、彼らはすべての瞬間を渾身で生き抜く。

 クリスマスにサンタにもらった大きなダンプカーのおもちゃで、河原の石を集めて運ぶのが、息子はいまは楽しくて仕方ない。寒くて、他に遊んでいる子などいない河原で、彼は夢中になって石を運ぶ。「大きな石を見つけようよ!」と、こちらを振り返っては、弾んだ声で呼びかけてくる。

 雨が降り始める。僕は、彼がこのままでは風邪を引くのではないかと心配になる。息子はさっきまでと変わらず、淡々と石を運び続ける。僕の頭はいつも「いま」を、過去や未来との対比のなかで「はかる」ことで忙しいが、それに比べて息子は、はかない「いま」に、全身で没入している。無数に転がる石たちの中から「これ」という石を選び出す彼の仕草を見ていると、「思いやる」とか「思い入る」というのは、こういうことを言うのかもしれないと思われてくる。

 ちょうど一年前の正月は、東京の病院にいたのだった。息子が大晦日から入院することになり、何気ない平穏な毎日がいかにはかないものかを実感することになった。そのはかなさのなかにも、目を開きさえすれば、明るい光が差し込んでいるということもまた、このときに学んだのだった

 「物の見えたるひかり、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」と芭蕉は言った。いかなる「おもんぱかり」もなく、ただ現在を渾身で生きる子どもの世界は、はかない瞬間の「ひかり」に包まれている。

 唐木順三は著書『無常』のなかで、王朝期の宮廷という停滞社会に生まれた「はかなし」という情緒が、「兵」たちの実存体験に根ざした「無常」の実感へと転じ、それがやがて、道元において、冷厳な事実としての無常観へと変容していく過程をつぶさに描き出している。「はかなし」と題されたこの本の最初の章に、次の一節がある。

無常の無、ニヒリズムのニヒルにおいて不安と無根拠を感ずるとき、ひとは有常、恒常なるものを求める。絶対的なもの、権威を探す。そしてその絶対的権威に頼って自己の安定化を計る。さまざまなる意匠がここに出現するわけだが、ひとはそれをさまざまなるものの一つとは考えたくないという傾きをもつ。即ち特殊なるものが絶対化される。

 はかばかしくあること、はかどること、そしてすべてが思い通りに進捗していくことが、現代においては、絶対の価値であるかのように信奉されている。そこでは、世界に「はか」という尺度を押し当て、物事を単位と比べて相対的にはかるという姿勢自体の特殊性があらためて顧みられることはない。

 はかのない世界に、人が拵えた「はか」を押し当てていく。そうすることではじめて浮かび上がって来る世界がある。だが、はかり、はかどることばかりに躍起になって、はかない瞬間の光をつかむことができなくなっては本末転倒である。

 雨が強くなるのではないか。風邪を引くのではないか。仕事が思うように進まないのではないか。そんな心配ばかりして、お父さんはいったい何を探しているの? いま目の前には、こんなに大きな石があるのに。

 はかばかしく、はかどることだけではつかむことのできない、はかない瞬間の贈り物がある。
 そのたちまちに消えゆく光を、「きえざる中にいひとむ」ためには、慎重にはかられた言葉の世界を丁寧に育んでいく必要がある。

 この世のはかなさに開き直るのでもなく、はかばかしさとはかどりばかりにとらわれるのでもなく、はかないこの世界を、思いやり、思い入り、そこにはからずも到来してくる現在という贈り物を、僕は自分自身の言葉でつかみたい。

 はかばかしくなく、はかどらない時間の底に、現在という瞬間のかがやきがある。
 そのことを教えてくれた存在の寝息が、いま僕の背後から聞こえる。
 一年が、もうすぐ終わろうとしている。

2018年大晦日 鹿ヶ谷の車庫から
2019年元日の読者の皆様に宛てて

森田 真生

森田 真生
(もりた・まさお)

1985年東京生まれ。東京大学理学部数学科卒業。現在は京都に拠点をかまえ、独立研究者として活動。国内外で「数学の演奏会」をはじめとするライブ活動を行っている。2015年10月、デビュー作『数学する身体』(新潮社)を刊行、第15回小林秀雄賞を受賞。2016年2月、編纂を担当した岡潔の選集『数学する人生』(新潮社)が刊行された。ミシマ社では、数学にまつわる本を紹介しながら、数学を通して「生きること」を掘り下げるトークライブ「数学ブックトーク」を共催。ライブで手売りすることを元に作られた『みんなのミシマガジン×森田真生 0号』(ミシマ社)なども発刊している。最新刊に『アリになった数学者』(福音館書店)がある。

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編集部からのお知らせ

森田真生×朴東燮 独立研究者 越境対談 〜知の「枠」を越えて学び続ける〜

■日時:2019年1月14日(月・祝)14:00~16:00(開場13:30~)    
■場所:恵文社一乗寺店 コテージ(叡山電鉄 一乗寺駅より徒歩3分)
■参加費:3500円(学生・サポーターは3000円)
■定員:50名様

詳しくはこちら

数学ブックトーク in 京都 2019 如月

■日時:2019年2月3日(日)14:00〜(開場13:30)
■場所:恵文社 一乗寺店 コテージ(叡山電鉄 一乗寺駅より徒歩3分)
■参加費:4,000円(税込)※ミシマガサポーター、学生は3,000円(税込)でご参加頂けます。
■定員:50名様

詳しくはこちら

数学ブックトーク in 東京 2019 啓蟄

■日時:2019年3月10日(日)13:30~(開場13:00)
■場所:青山ブックセンター本店 大教室(http://www.aoyamabc.jp/store/honten/
■参加費:4,000円(税込)※ミシマガサポーター、学生は3,000円(税込)でご参加頂けます。
■定員:110名様

詳しくはこちら

数学ブックトーク in 熊本 2019 春

■日時:2019年3月30日(土)14:00~(開場13:30)
■場所:長崎書店3 階 リトルスターホール(https://www.nagasakishoten.jp/hall/
■参加費:3,500円(税込)※ミシマガサポーター、学生は3,000円(税込)でご参加頂けます。
■定員:80名様

詳しくはこちら

2019年3月に本連載をまとめて一冊になります

大人気連載「数学の贈り物」が一冊の本になります。刊行は2019年3月を予定しております。どうぞご期待くださいませ。

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01月01日
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