野生のしっそう

第2回

3月下旬 午前2時半に走り出す

2021.07.10更新

2021年3月の世界

 2021年、東京の桜は3月14日に開花した。わたしの住むさいたま市では27日頃に満開を迎えた。

 3月21日に、東京、埼玉、千葉、神奈川の4都県に発出されていた緊急事態宣言は解除された。新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づき、2021年1月8日に発出された緊急事態宣言は、2020年4月に同法に基づいて発出された緊急事態宣言ほどの緊張を、人々には強いることはなかった。飲食店の時短営業が実施された点のみが、人々の印象には残った。6万円の休業補償がなされたこともあり、わたしの家の周りにあった飲食店(居酒屋やスナックが多い)は休業に応じているようにわたしには見えた――後で、家から少し離れたところにある飲食店経営者に聞いたら、そういう問題でないと言われた。書き入れ時に客が来ないことが続くことで、商売の情熱は奪われていくと――。4都県の緊急事態宣言は、何が「緊急事態」なのかよくわからないまま、当初の2月7日では解除されず、3月7日に延長、3月21日に再延長された。

 解除を正式に発表した3月18日の記者会見で、菅義偉総理大臣は次のように語った。

感染拡大を二度と起こしてはいけない、その決意を今回の宣言解除に当たり、改めてわたし自身、自らにも言い聞かせております。お一人お一人が意識を持って行動していただく中で検査を拡大し、意識を持って行動していただく中で早期にリバウンドの端緒をつかみ、ワクチンの接種により発症と重症化を抑えながら医療体制を強化していく、命と健康を守っていく、そうした対策を徹底してまいります。皆様に制約をお願いする以上、国も自治体と一丸となって、できることは全てやり抜きます。

 感染拡大を二度と起こさないという決意も空しく、感染拡大は広がった。解除後、緊急事態宣言の対象でなかった宮城や、2月28日に先行して解除された大阪では新規感染者が急増した。3月27日、日本の一日当たりの新規感染者は2000人を再び超えた。2020年12月にイギリスで生まれた変異株が、大阪の感染者の多くを占めるようになっていた。メディアでは、桜の開花や見ごろの情報とともに、花見の自粛を促す情報が流された。

 総理大臣が3月18日に感染拡大を二度と起こしてはいけないと決意したことなど、すぐに忘れてしまうか、あるいはそもそも意識にもとめられなかった。

 IOC、IPC、東京都、東京2020組織委員会は、3月20日に東京五輪への海外からの観客の受け入れを断念した。

 一方、一年間延期されていた東京オリンピックの聖火リレーは、3月25日に福島県楢葉町・広野町のJヴィレッジを出発した。3日間をかけて福島県をまわり、28日から栃木県に入り、長野、岐阜へと県をまたいでいった。リレー走者と、スポンサー企業といったその取り巻きが、聖火を運んでいった。

 これに先立つ、3月23日のNHKニュースは、神奈川県相模原市が東京パラリンピックの聖火の採火を、同市内になる津久井やまゆり園で行う方針であるのを報じた。3月31日に相模原市はこの方針を正式決定した。

 この月、中国の全人代では香港の選挙制度が変更され、1999年から進む一国二制度は事実上終わった。ミャンマーでは2月に起きたクーデータに抗議する民衆に対する、国軍の弾圧が続き3月段階で死者は500人を超えた(4月に入って、さらに激しさを増した)。

兄の来訪

 3月中旬にわたしは線路を挟んで西から東に引っ越した。

 3月27日、兄が初めてこの家に泊まりに来た。数日前に「こうへいちゃんの家にいく?」と母がきくと、兄は「いく」と答えたそうだ。10年以上前から兄は、実家の外に部屋を借りて、平日はそちらで介助者と共に過ごし、土日は家族のもとに帰る生活を続けている。

 兄は自閉症で、知的障害があると言われる。

 夕方、兄を迎えにいって新しい家に迎えた。

 兄は少し戸惑ったようだ。わたしの前の家に行くとおもっていたのだろう。家についてしばらくしてから、兄を入浴に誘った。わたしが服を脱ぐよりも先に、兄はいつものようにすごい勢いで服を脱ぎ、その勢いのままにドアを開けて風呂場に入った。風呂場では、先に入った息子が遊んでいた。突然風呂場に入ってきた兄の姿に驚いた彼は、大きな声をあげて泣いた。そのことに兄も驚き、混乱し、大きな声をあげた。その声が、さらに息子を不安にさせ、彼の泣き声は大きくなった。大きな声を上げている二人の姿に僕も困りながら、しかし大きさの違う二人の顔が、やはりどこか似ていることを想った。

 兄に風呂場を出て、脱衣所にもどってもらい、落ち着かせようとしたけれど、混乱は収まらなかった。兄は、風呂場に戻るのをかたくなに拒否した。仕方なく兄の頭と体を洗うことをあきらめ、兄にはわたしが用意したパジャマをきてもらった。

 晩御飯の時間になると、兄の顔にも笑顔が混じった。

 昼間にでかけた蕨のトルコ料理屋で買ったゲバブ、農園で収穫したホウレンソウの常夜鍋が食卓に並んだ。兄は缶チューハイのお替りもして和やかな時間が流れた。みんなが食べ終わると、リビングに兄の布団を敷き、2階の寝室に自分たちの布団を敷いた。みなすぐに眠りについた。

 ドアを開ける音にきづいて私が目覚めたのは、まだ夜が明ける前のことだ。風呂場の一件があったためか、わたしはどこかで緊張しており、眠りは浅かった。自分の寝ている部屋のドアを閉めていたのに、ガチャリガチャリという音が聞こえた。二階の寝室から玄関に降りた。玄関に靴がなかった。リビングの兄が寝ていた布団にも誰もいないことを確かめて、ドアを開けた。兄の叫ぶ声が、遠くに聞こえている気がした。

 何事も告げず、兄は私の家から出て行ってしまった。

桜の満開の夜に一人

 桜が満開の夜であった。

 新型コロナウイルス感染の第四波がささやかれはじめていた。海外からの観客の受け入れを断念し、聖火リレーは沿道に聴衆を集めないための様々な呼びかけがなされていた。そんななかで、聖火リレーは沿道に人を集めながら続いていた。

 その春の夜に、兄はわたしの家から走り去っていった。ただ一人、沿道の声援もなく走った。どこに向かうのか、行き先も知らせずに走った。兄の大きな声が響いたためだろうか、彼が去ってしばらく後にパトカーのサイレンがなっていたようだと、翌朝、妻がわたしに語った。

 新型コロナウイルスとオリンピックによって、この国のガバナンスが殆ど機能していないことの象徴として、聖火リレーの暴走は続いている。いかなる意味において聖なる火なのか理解できないなかで、無残に人が殺され、傷つけられた場所で、遺族や被害者家族の想いすらも、ましてや殺された、傷つけられた人びとの想いが想像されることもないままに、パラリンピックのための採火が計画された。

 朝が明ける前の夜道を、兄は走った。多くの人がすれば、それもまた暴走であろう。でも、この国の暴走と、それをとめられないわたしたちの非力さと比べたときに、それを暴走と断じられるのだろうか。静かな夜に響いた彼の声が、この街の誰かを不安にしたのかもしれない。わたし自身も兄がいなくなったことに、不安を覚えた。それでもわたしには彼の孤独な走りが、わたしにはどこか愉快にも想えた。

 兄の疾走はこの時代の空気の内側にあり、影響されながら、今のところ、大勢の流れには加担していない。マスクを着けず、ひたすらに走る。走った先に彼がどこに至ったのかは、いずれ書こう。

猪瀬 浩平

猪瀬 浩平
(いのせ・こうへい)

1978年埼玉県生まれ。明治学院大学教養教育センター教員。1999年の開園以来、見沼田んぼ福祉農園の活動に巻き込まれ、様々な役割を背負いながら今に至る。著書に、『むらと原発ーー窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』(農山漁村文化協会)、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)、『ボランティアってなんだっけ?』(岩波書店)など。

写真:森田友希

編集部からのお知らせ

猪瀬浩平さんが関わるプロジェクト「埼玉朝鮮学校60周年連帯プロジェクト」が作成した動画『埼愛キムチ日記ー共に生きる埼玉をめざしてー』が、2021年6月1日に公開されました。

おいしいと評判の「埼愛キムチ」の頒布会は、埼玉県からの補助金停止により財政の厳しい埼玉朝鮮初中級学校の、運営資金に寄与するために、ボランティアで行われています。活動に従事する保護者たちの思い、買いに来る人の思いを、動画でお伝えしています。(「誰もが共に生きる埼玉県を目指し、埼玉朝鮮学校への補助金支給を求める有志の会」HPより)

詳しくはこちら

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