第6回
ズレと折り合い
2021.10.03更新
布団の中
前回、重度の知的障害のある人に心がないという世界観に対して、心の有無など問わなくても良い世界のありようを描いた。それは、小人がいないのがあたり前の世界で、小人があたり前にいる世界の成り立ちを描くことに重なる。違うものになった二つの世界の間で、言葉を紡ぐのが文化人類学である。そしてその記述の成否は、言葉を紡ぐことの正気さが読み手に伝わるのかであり、二つの世界の境界を揺さぶることができるかである。「正気のsane」の空気をめぐる石井美保の切実な言葉は、私に力を与えてくれた。
小学3年生の私と中学3年生の兄との出来事を、母は次のように記録している。
「コーヘーチャン」
布団の中から弟を呼びます。
「なあに」
「にいくんが呼んでるでしょ」
しぶしぶ、いや半分喜んで布団に向かう弟。良太、嬉々として布団にもぐって待つ。それからは良太が逃げ出すまで、くすぐりっこです!![1]
兄と私は同じ団地の家に暮らし、長いテーブルでご飯を食べ、畳の部屋に布団を並べて眠っていた。兄は地元の中学校に通い、私は兄の通った小学校に通った。その頃に兄たちは高校受験を決意した。もともと、中学を卒業したら兄を就職させようと準備していた母は、京都・奈良に修学旅行にいった兄の様子を、担任が撮影したビデオで見て、心を変える。初日、大きな声を出していた兄は、クラスメート共に寺社をしずかに見学していた。中学2年の林間学校の時とは違い、同級生に交じり笑顔ばかりを見せていた。やがて、知的障害がありながら高校進学を目指すほかの家族や、大人の障害のある人やその支援者と共に、高校や県の教育局との交渉が始まっていく。私はそこに連れられて行って、とても長い時間を過ごした[2]。兄に障害があるということは、知的障害のある人、点数が取れない人に高校の門を開こうとしてない制度とぶつかるなかで、私にとって意味――それも否定的な意味――を強めていった。逆に言えば、それ以前の私にとって「障害がある」ということは、それほど強い意味をもっていなかった。
母が書いた私たち兄弟の記憶は、私と兄の関係がどういうものであったのか、どういうものでありうるのかを、今の私に伝えてくれる。
宴の笑い
兄がシェアハウスのような共同住宅で暮らすようになって、もう数年になる。その家は広大なリビングや大きなキッチンなどスペースを共用しながら、ひとり一人が個室を持つ。障害のある人のグループホームではない。様々な人びとが暮らす。兄には毎日介助者が入り、身のまわりのことのサポートを受けながら暮らしている。
ある年のある週末、この共同住宅で宴会が開かれて、私は畑仕事の帰りに子ども連れて参加した。この日は共同住宅のオーナーが鍋をつくり、住人だけでなく、オーナーや住人の友人たちも参加した。僕らが到着した時には、兄は母と二人で浦和レッズの試合を見に行っていていなかった。子どもたちは広い共有スペースで遊び、キッチン、トイレ、風呂など水回りを一周する廊下を走り回った。
そうやって宴が盛り上がっていくと、浦和レッズのユニフォームを来た兄が帰って来た。
玄関から入って来るなり、ソファーにどかっと座った兄は、しばらくすると、思いもよらず多くの人が集まっている状態に混乱したのだろうか、大きな声を出した。宴の和やかな雰囲気に緊張が走った。初めて兄に会った人たちは、その姿を怪訝そうに見つめた。私は、さてどうやってこの状況に関わろうかと考えた。兄に静かにしてほしいと伝えながら、それとなく兄に障害があること、私が彼の弟であることを示そうか。
そのとき、もうずいぶん酒を飲んで酔っ払っていた、その家のオーナーが語り始めた。
「彼は、知らない人がいて不安になると大きな声をだすんだよね。自分の声を聞いて心を落ち着かせる。俺も小さい頃、そうやっていたことがあるからよくわかるんだよね」。
酒にゆるんだその語り口には、緊張感はない。しかし、その言葉にみんなが聞き入った。怪訝そうに兄を見ていた人たちも、納得した顔になっていた。
わずかな間をおいて、オーナーが語り続けた。
「まあ、本当のところはどうなのかわかんないけど」
そういって笑うと、兄もウフフと笑った。
自分の行動に対するオーナーの解釈に、兄が同意したかどうかはわからない。解釈に同意しているようにも、「本当はどうかわからなけど」というところに共感しているようにも思える。そして、いずれにしろ、その時のオーナー――二人は同い年である――との関係に兄は好感を持っていることを感じた。
障害のある人がいると思っていない場所に、障害のある人がいる。そこで起きた出来事を、障害を理由に説明しない。自分たちと性質の異なるものとして説明するのではなく、自分と共通するものとして語る。もちろんそれが正しいのかはわからない。
その後、兄はオーナーのつくった料理や、ゲストが持ってきた料理を食べた。もうすでに晩飯を食べてきたはずなのだが、焼いた豚肉をバクバクと食べた。
夜がふけたので、私は兄に声をかけ、子どもと共に自宅に戻った。この日、兄は私の家に泊まった。
他者を気づかう叫び
東京の多摩地区で活動する、たこの木クラブの岩橋誠治の言葉に耳を傾けよう。たこの木クラブは1980年代後半に「障がいのあるなしにかかわらず、地域で共に生きることを目指し」て、活動を始めた。子ども会を中心にする活動は、子どもたちが大きくなるにつれて、彼ら、彼女らの働く場づくりや、暮らしを支える仕組みに広がっていった[3]。
岩橋は、長年かかわり続けている障害のある人と自分との間にある「ズレ」と「折り合い」について語る。たとえば、「行動障害」があるとされるKさんについて[4]。
混雑した場所に行くと、Kさんは自分の前を歩く人や自分の方に向かってくる人に対して大声で叫ぶ。初めて彼を見る人はその声に驚き、彼から遠ざかっていく。ヘルパーとして彼の傍らにいる人たちは、Kさんが起こしたこれまでのトラブルを想って、また何か起きないかと心配する。岩橋自身が同行する際も、彼に注意するとますますパニックになって声がおおきくなるので、口には出さず、「落ち着いて」、「静かにして」と願いながら、ひたすら見守る。彼が叫ぶと、すれ違う人たちが怖がらないように「彼の叫びや行動になんら問題はありません」と、内心の緊張を隠しながら笑顔で追いかけていく。
そうやってKさんに行動障害があることを前提にして、周りとの接触を最小限にするための配慮をしてきた。
しかし、ある出来事をきっかけに、岩橋のKさんへの見方はがらりと変わった。
その日、Kさんはいつもと違い明らかにうれしそうな笑顔で人ごみに入っていった。いつもどおりに大声を出し、足を踏み鳴らすのだが様子が違った。混乱して大声を出しているのではなく、明らかに何らかの意図をもって叫んでいる。Kさんは人ごみに向かい、カバンを高々と上げて「わぁ~!!」と笑顔で叫んでいる。その声に道行く人は振り返るが、彼が笑顔なのをみて「びっくりしたー」と笑顔で応えて、道を開けていた。
その瞬間、岩橋は、ふだん彼が叫んでいるのは、人を驚かそうとしているのでも、パニックになっているのでも、自分を抑え切れないのでもなく、ただ単に、「自分の存在に気づいて欲しいだけかもしれない」ということを思った。
そう思うと、Kさんに関わる様々なことがつながっていった。Kさんには人に触れられることを極端に嫌う、接触過敏の状態にある。だから、人ごみを歩くときは、人に触れないように、器用にからだをくねらせ鞄を頭の上に載せて移動する。周囲が彼の存在に気づけば、自分を避けてくれるので人に触れることがなくなる。だとしたら、叫ぶのは彼が人ごみを歩くための術なのかもしれない。
さらに岩橋は、夕方にKさんが一人暮らしをしている家を訪れると、きまって電灯がすべて消されていたのを思い出す。ある日、少し早めに彼の家について家の中の様子を覗いてみると、Kさんの部屋も玄関も灯りがついていた。岩橋が呼び鈴を鳴らした瞬間、灯りはすべて消されていった。岩橋はその彼の不可解な行動を、Kさんが「私のために電灯を消してくれている」という仮説を立てた。自分の家に入るとき、彼は暗い玄関に灯りをつけ、自室に灯りをつけていく。もし灯りがついていたら、岩橋も自分と同じようにパニックになるのではないか。だから、灯りを消しておこう。そのように彼がすべての灯りを消す意図を読み取った岩橋が、いつも灯りを消してくれていることのお礼を言い、暗くなるから自分のためにわざわざ消さなくて良いよと伝えると、しばらくしてから電灯をつけたまま玄関を開けてくれるようになった。
灯りをめぐる記憶は、岩橋の見方をさらに転回させる。Kさんが人ごみで大きな声をあげているのは、彼自身が誰かに触られずに済むためではなく、周囲の人も自分と同じように接触過敏だと考えて、その人たちのために常に大きな声で叫んでいるのかもしれない。そんな彼の周りの人への配慮は誰にも気づかれることがなく、行動障害ととらえられ、周りの人が彼に配慮すべきであると考えられるようになっている。
大事なのは、岩橋の解釈が正しいのかではない。岩橋がKさんとの間にあるずれを自覚しながら、折り合う場を探ることであり、そしてある時にした解釈を転回させる、その勇気である。
しんみり話すま
岩橋の文章をよみながら、ある年の静岡旅行のことを思い出す。
12月の下旬、年の瀬が押し迫る頃に、静岡に暮らすヤマナシさんの山にみかんを採りに出かけた。ヤマナシさんは自分のみかん山をオーナー制で管理しており、私もオーナーになっている(オーナーだけでなく、出張所長になっている。この点については、いずれ詳しく書く)。ヤマナシさんのところには兄も何度か一緒にいっており、この時も兄を誘った。
ついてからみかん山の中に建てられた小屋で囲炉裏を囲んで昼ご飯を食べた後、子どもたちとみかんを採った。そして、ヤマナシさんも誘い、伊豆の温泉宿に一泊することになった。宿に荷物を置くと、居酒屋で晩飯を食べ、酒を飲んだ後で、宿に戻り、温泉に入り、そしてヤマナシさんと兄の部屋で飲みなおそうということになった。私は子どもを寝かせるつもりが、子どもと一緒にアフリカの村の畑を荒らす猿を捕獲するテレビ番組に見入ってしまい、なかなか合流できなかった。
結局、ヤマナシさんと兄は30分以上、二人で酒を飲んでいた。
私が部屋にはいると、浴衣に褞袍を羽織ったヤマナシさんは厚手のパジャマを着た兄にしみじみと語りかけ、兄はそれをうなづきながら聞いていた。兄は普段は飲まないビールをグビリグビリと呑んでいた。二人とちゃぶ台を囲もうとすると、「そこは言葉をつかってもつたわらないことがあるよ」とヤマナシさんが語っているのが聞こえた。兄はうなづき、右腕をまげて顔の前にもっていって、フーフーと息を吹きかけ始めた。そして、しずかに鼻をほじった。やがて、ヤマナシさんは「良太と二人で語るのは、ずいぶん前に会ったのに初めてだったなあ」と兄にはなしかけた。
二人がビールを飲みしんみりと話す姿は、そういうことがほとんど実現することがないままに日々が過ぎていく私にとって、人と人とが語り合うことの凄みをあらわしているように感じた。
「障害の有無にかかわらずだれもがあたりまえで地域で過ごす」という時の「あたりまえ」や「みんな違ってみんないい」という時の「違い」を否定する人は少ないと思います。
しかし、「あたりまえ」が「社会の常識」を当事者にあてはめる。「違ってもいい」けれど「周囲の許容範囲を超えない」という条件を基にした支援の側の勝手な「解釈」による「対応」になっている。その辺りを意識する必要があるように思います。[5]
たこの木クラブの岩橋の言葉は、オーナーや、ヤマナシさん、そして小学3年生のときの私と、その時々の兄と、二人のまわりにあった世界と折り合う。
「野生」という言葉で私が捉えたいものいったんが、ここにある。
この時のことを思い出しながら、金子光晴の詩を想う。
金子は、歌う。
一人の友としんみり話すまもないうちに生涯は終わりそうだ
そののこり惜しさだけが霧や、こだまや、もやもやとさまよふものとなってのこり、それをなづけて、人は"詩"と呼ぶ「短章 W」
親しいと思っている人たちと、しんみり話すことがほとんどできないこと、いたずらにときがたっていることを、この一年半思い続けている。
でも、それはコロナウイルスのせいなのではなく、もともとのわたしが人と向き合う構えに、何かの思い違いがあるからなのかもしれない。恐れるのは人との間にあるズレではない。人と折り合うことなどできない、と思い込んでしまうことである。
注釈
[1]兄が中学生時代、同級生や中学校の先生などに配っていたニューズレターからの引用。
[2]このあたりについての詳細は、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)の5章、6章をお読みいただきたい。
[3]たこの木クラブについては、三井さよ・児玉雄大編著2020『支援のてまえで――たこの木クラブと多摩の四〇年』生活書院をお読みいただきたい。
[4]以下の記述は、岩橋誠治2015「ズレてる支援/おりあう支援」、寺本晃久・岡部耕典・末永弘・岩橋誠治『ズレてる支援――知的障害/自閉の人たちの自立生活と重度訪問介護の対象拡大』生活書院:88-185を参照。ちなみに、岩橋の文章の最後には彼が長年かかわったある人とのとても深刻なズレについて語られている。そのズレに如何に岩橋たちが向きあったのかは、是非本文をご確認いただきたい。
[5]岩橋2015:136
編集部からのお知らせ
今回の連載に登場する本についてご紹介します。ぜひ連載と合わせて手にとってみてください。
『ズレてる支援!ーー知的障害/自閉の人たちの自立生活と重度訪問介護の対象拡大』(寺本晃久・岡部耕典・末永弘・岩橋誠治 著)
『良い支援?』刊行から7年。使わせてと訴えた「重度訪問介護」の対象拡大が実現する中、
あらためて問われているものとは何か!
支援を使って、地域で自立した暮らしをしている人がいること。
集団生活ではなく一対一の支援をモデルにすること……
「支援」と「当事者」との間の圧倒的なズレに悩み惑いつつ、
そのズレが照らし出す世界を必死に捉えようとする「身も蓋もない」支援の営みの今とこれから!
(生活書院ウェブサイトより)