野生のしっそう

第7回

いくつかの死と

2021.11.03更新

明け方の酒

 ヤマナシさんのみかん山にはじめて行ったのは、2007年9月だった。あの時も、兄はゆったりと酒を飲んでいた。

 ヤマナシさんの山小屋からは、駿河湾が見下ろせる。明け方まで続いた宴会はようやく終わり、酔いつぶれたヤマナシさんや仲間たちは囲炉裏のまわりに横たわっていた。話し声は聞こえなくなったが、50代の男たちの野太いいびきはあちこちで響いていた。やがて私は目を覚まし、しかし酒もだいぶ残っているのでゴロゴロしていた。ふと見上げると前日からほとんど眠っていない兄は、胡坐をかいてしずかに座っていた。兄は囲炉裏の方を向きながら、おもむろに缶チューハイを開けた。私は、思わず「朝から酒飲むんだねえ」と声をかけた。それにつられてヤマナシさんもおきてきて、「良太にはまけられないなあ」といい、自分も缶ビールを飲み始めた。

 宴はついに、日の出すら超えてしまった。人びとがまた話し始めると、兄は窓際の座椅子に座り外を眺めながら、缶チューハイを飲んだ。向こう側にはみかんの木々があり、さらに先には駿河湾が広がっていた。

 その年の夏、兄と私は母方祖父を亡くした。80歳を過ぎても毎日日課にしていた散歩で、祖父は転倒し、救急車で運ばれた。猛暑の夏だった。熱中症の診断を受け、大事には至らないとされたが、年齢も年齢なので念のために入院した。祖母からは、祖父の症状はそれほど重くはなく、すぐに退院できる、病院食も毎日残さず食べていると聞いた。だから私もしばらくは見舞いに行かなかった。その頃はちょうど大学に就職した頃で、日々仕事に追われてもいた。ようやく大学の夏休みがやってきて、成績評価などの仕事も終わり、大阪から詩人の上田假奈代さん(第15回参照)がやってきたので友人とおしかけてしこたま酒を飲み、友人の家に転がり込んで眠った翌朝、二日酔いの頭でようやく病院を訪ねた。

 ナースステーションに行くと、祖父は一つ下の階に移動したと言われた。エレベーターで下に降りた。扉が開くと、ロビーには狼狽した祖母がいた。私の顔を見ると、祖母は「おじいちゃんの心臓がとまってしまったんだよ」と叫んだ。祖母に導かれて連れて行かれた病室では、医者や看護師らしき人びとが祖父に心臓マッサージをしていた。ベッドの上で、祖父の体はバタンバタンと上下しているように見えた。

 すぐに家に帰れると思っていた祖父は、家に帰れぬまま息を引き取った。

 母には兄妹もなく、祖母と母が混乱しながら葬式の準備を進めた。

 その十年前にあった父方祖父の葬儀は、大家族の祝祭に似た雰囲気があった。誰かが泣き、思い出話を語り、酒を飲み、そして笑った。父方祖父の家にずっといた私は、はじめて親戚の人びとを身近に感じた――今思えば、その輪の中に兄がいた時間は、私に比べれば長くはなかった。もちろんお通夜も葬儀も参加していたけれど、その前後や合間の時間に兄がいれば、私にとって親族のイメージはまた違ったものになっていたのかもしれない――。

 それに対して、母方祖父の葬儀は静かだった。混乱したまま通夜と葬儀が終わり、そして祖父は荼毘に付された。母も兄もずっと、都内にある祖父の家で過ごし、家と仕事のある埼玉にしばらく帰ることはなかった。福祉農園に行った私が野菜をもって帰ってくると、それを母は料理して、私たちはむしゃむしゃと食べた。荒々しい味が、生命力を与えてくれるように、私には感じられた。

 母方祖父の葬儀の日々には、ゆったりと酒を飲む時間がなかった。

 8月は遠くには出かけられないまま、9月になった。兄もどこにも出かけられなかったので、では一緒にどこかに行こうかと考えた。そして、二人で静岡のヤマナシさんのみかん山に行くことになった。

ウサギの墓

 ヤマナシさんと出会ったのは、日本ボランティア学会が2003年に関西で開いた大会のときのことだ。ヤマナシさんは作業着を着て、サンダルを履いていた。大学の研究者やNPOやNGOの職員でもなく、内装屋と名乗った。なんだかよくわからない人だったが、学会関係者の輪の中にいた。その後も、様々な場所でヤマナシさんに会った。いつも同じ格好だった。

 北タイのラフ族の村でばったりと会ったこともある。ヤマナシさんは、日本に出稼ぎにきたときに知り合った現地出身の人の案内で、地元静岡の仲間とタイ国内を回っている途中だった。そのまま私たちのスタディ・ツアーについてきて、ミャンマー国境の村まで一緒に行った。ホテルでは気の弱い大学生のベッドを占拠し、そこで現地の人たちと深夜まで酒盛りをしていた。

 それが、祖父が亡くなる年の2月のことだ。

 兄とみかん山のある駅につくと、ヤマナシさんは女性と二人で待っていた。彼女はヤマナシさんと長年交流のある国際NGOのスタッフだった。一時帰国中、ヤマナシさんに誘われてみかん山にやってきたそうだ。スーパーで晩飯の食材や酒を買い、大量に氷をもらった。そしていよいよみかん山の急斜面を上った。海が見え、埠頭が見えた。標高が200メートルを超えるあたりで、車を停めた。

 みかんの木が植えられた畑を歩いていくと、山小屋があった。訪れた当時は電気が通っていなかったので、大量の氷は古い氷式冷蔵庫に入れた。海の見えるデッキで、買った刺身をつまみに酒を飲み始めた。兄も嬉しそうに海を見て、チューハイを飲んだ。やがてヤマナシさんの仲間たちがやってきて、鍋をつくったり、たこ焼きを焼いたりした。やがてバンマスと言われる人が、ギターとアンプを担いでやってきた。発電機を起動し、準備が整うとギターの伴奏でバンマスとヤマナシさんは歌い始め、やがてドラムも加わった。

 兄は私とは違い、リズムに身を任せられる人である。自分の好みのリズムが流れてくると、手を振り、やがて跳びはねて一体化する。この日も歌っている人びとの傍らに置かれた椅子に座って手を揺さぶり、時にリズムに合わせて跳びはねながら音楽を楽しんでいた。

 ザ・ナターシャー・セブンの「陽気に行こう」ではじまったフォークソングは、いつしか「私に人生と言えるものがあるなら」になった。すると、ヤマナシさんは宴に参加する一人ひとりを指名して、曲に合わせて語るように促した。最初にNGOの女性が語り、その次に私が指名されて、今回、静岡までやってきたいきさつを、祖父の死とともに語った。そうやって一人ひとりが人生を語った。

 やがてヤマナシさんと同世代の女性が語り始めた。

 彼女は、ヤマナシさんと青年団時代からの付き合いであり、私が名物だから食べたいといったサクラエビの天ぷらをつくるために呼び出されていた。突然呼び出してこき使うわねと話しながら、手際よく天ぷらを作ってくれた。彼女の夫もヤマナシさんの青年団時代からの仲間であり、そしてこの宴の前年の春が来る前に事故で亡くなっていた。そのことが語られ、しかし音楽は続いた。ランタンの光のなかで、囲炉裏の炎を見ながら、死者を想い、酒を飲み、宴は続いた。やがて、酒に酔いつぶれた人たちがばたりばたりと寝入っていった。

 兄は、最後まで起きていた。

 翌日、ヤマナシさんの仲間たちが帰った後に、兄と二人でみかん山を案内してもらった。父親が亡くなって、ヤマナシさんがお兄さんとみかん山を半分ずつ引き継いだのが1993年。みかんの木は120本。除草剤をつかわず、草は刈り払い機で刈る。刈った草は、みかんの木のまわりにドーナツ状に敷く。

 隣の人の畑には除草剤がまかれており、草は綺麗に枯れていた。ヤマナシさんの畑の緑が際立つ。みかんの木にはクモの巣がたくさんかかっていた。虫が多く、それを獲るクモもたくさんいる。私が「無農薬なんですね」となんとなく聞くと、「年に一回マシン油をかけるし、そんな簡単なことじゃないよ」と返された。草刈りは年に3回、害虫予防のためのマシン油の散布は年に1回。ほかに施肥、剪定、摘果、そして収穫、貯蔵、発送と作業は続く。みかんの木一本一本にはオーナーがおり、作業にこられる人は自分の木の収穫をする。

 山小屋の入り口にはウサギの石像がある。初夏の草刈り作業中、逃げられず犠牲になってしまった子ウサギの供養のために2001年に建立されたものだ。ウサギはエンジン音に驚いて逃げることができず、回転する刃に頭を切られてしまった。ヤマナシさんは供養塔を建て、知り合いの和尚を呼んで慰霊祭を開いた。

「除草剤つかってないといったって、人間が生きていれば生き物の命を奪ってしまう」と、ヤマナシさんは私と兄に語った。

うつりゆく街で

 そうやって、ヤマナシさんのところに通うようになった。

 宴の翌年の3月には、ヤマナシさんは一月前に亡くなった恩師のような人に線香をあげに大宮まできて、その足で数駅先の浦和にあった私の家に仲間と泊まった。兄や農園の仲間もやってきて、一緒に居酒屋で酒を飲んだ。故人についての語りは一言で終わり、あとはただ酒を飲み、愉快に語った。その時にヤマナシさんが別れの挨拶をしに行ったのが社会教育者で青年団運動の指導者でもある永杉喜輔――『次郎物語』の下村湖人の弟子である――だったということ、永杉とヤマナシさんに深いかかわりがあったことについて、私はずいぶん後になって考えるようになった。

 同じ年の5月のゴールデンウィークに、ヤマナシさんは夏みかんをもって兄と私の活動する福祉農園にやってきた。

 その年から、私は毎年学生を連れてヤマナシさんのみかん山を訪問するようになり、私が行かなくてもみかん山に通う人びとが出てきて、そして数年が経った。ある年は学生と駅に着いたら土砂降りで、作業もやれなくなったので昼間から一升瓶を開けて飲みはじめたこともあった。予定をあけてみかん山にやってきた学生たちは、着いたら作業をする気満々だったが、肩透かしにあった。でも、「自然には勝てない」ということをこれほど説得力もって伝えることができたのは、私の経験にはない。

 やがて手持ち無沙汰になった学生たちに、ヤマナシさんはイェルク・ミュラーのThe Changing Cityの組絵を見せた。ヨーロッパのちいさな街の23年間を描いたこの作品は、1953年に始まる。ヤマナシさんの生まれた年だ。人びとが路地を行きかい、広場で憩う風景から始まった組絵は、1959年に地下鉄工事が始まり、1963年に川が埋められ、1976年に高速道路が走った。

 私はみかん山への訪問を重ねるうちに、ヤマナシさんにとっての青年団運動の意味に興味を持ち始め、やがてヤマナシさんがかかわった石炭火力発電所の建設反対運動や、人工島開発の反対運動を知った。そして、みかん山を登る途中にいつも目に入る埠頭がずっとそこにあったわけではないこと、埠頭ができる前には渚が広がっていたこと、そこはヤマナシさんのあそび場で、毎年夏にヤマナシさんは海の子として過ごしていたことを知った。

 土砂降りのなか、山小屋のデッキで学生たちに見せていたのは、ヨーロッパのちいさな街の変化だけでなく、ヤマナシさんの住む街の変化だったのだということに気付いたのは、ほんのつい最近のことだ。

猪瀬 浩平

猪瀬 浩平
(いのせ・こうへい)

1978年埼玉県生まれ。明治学院大学教養教育センター教員。1999年の開園以来、見沼田んぼ福祉農園の活動に巻き込まれ、様々な役割を背負いながら今に至る。著書に、『むらと原発ーー窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』(農山漁村文化協会)、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)、『ボランティアってなんだっけ?』(岩波書店)など。

写真:森田友希

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家成俊勝さん×猪瀬浩平さん
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