第8回
いくつもの死と
2021.12.05更新
中国東北、朝鮮国境の街で
ヤマナシさんは、世界各地にふらりと旅をする。みかん山を訪れた学生を訪ねて、コスタリカにでかけ、そのあと一人でニカラグアまで行ってしまったこともある。スペイン語はほとんどしゃべれない。しかし、現地の若者と知り合い、その実家に泊めてもらい、そしてサンディニスタ民族解放戦線に参加していた父親と仲良くなったそうだ。
2013年の夏、中国出身の同僚に案内してもらって、中国東北部をヤマナシさんと旅をしたことがある。飛行機で瀋陽に入り、高速鉄道でハルピンに入った。タクシーで郊外にある侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館まで行った。建物のなかでは、細菌戦・毒ガス戦などのために行われた毒ガス開発や生物実験、人体実験の記録、そして人体実験によって殺された人たち一人ひとりの名前を記した展示を見た。公園のなかを歩きながら、地下通路や実験に使う動物の飼育室のあとをたどった。その日は夜行電車で延辺朝鮮族自治州まで移動した。私たちは寝台列車のボックスシートで、記念館を見た感想や、自分の親族――私の場合、二人の祖父――が経験した戦争を夜が更けるまで語り続けた。
国境の街では、日本に留学に来ていた、現地出身の若者が待ってくれていた。朝鮮国境など街の各地を歩いた後、日本統治下に日本語を覚えたという、若者の親戚のおばあさんに会いに老人ホームにでかけた。おばあさんの部屋は4人の相部屋だった。こざっぱりした部屋には、すこしだけトイレの匂いがしていた。隣室では、入居者たちが花札をしていた。
おばあさんは私たちを出迎えてくれたあと、自分のベッドに腰を掛けた。同僚がおばあさんの前に座り、聞き取りを始めた。おばあさんは日本語でしゃべり、同僚も日本語で質問した。彼女は都市出身で日本人の通う尋常小学校に通った。日本語が得意で、やがて日本人が経営する会社に就職した。ほかの朝鮮人や、満州人と違い、日本人と近い場所で生きた。最初はそのことに対する疑問や、不満はなかった。しかし、やがて日本人と朝鮮人、満州人との間で配給される食糧の量に違いがあることを知り、疑問を感じた。そして日本の敗戦によって、母語である朝鮮語を自由にしゃべれる自由を知った。
そうやっておばあさんの話を聞いていると、同室の女性たちも語り始めた。私は、同僚たちのインタビューの輪の外側にいた。私の傍らのベッドに座った女性の問わず語りを、現地出身の若者のパートナーが私のために日本語に翻訳してくれた。日本統治下の朝鮮でうまれた彼女は、日本語がしゃべれないため家の外にだしてもらえず、12歳の頃に国境を渡った。やがて八路軍の看護師となった。兵士だった男性と結婚するが、夫は日本軍との戦闘で戦死した......。
私が聞き取れたのは、彼女たちの人生の断片だけだ。その傍らに無数の死があり、圧倒的な暴力が様々な形で存在していた。日本と中国の戦争も、満州国の建国とその後の混乱も、国共内戦や朝鮮戦争、文化大革命も彼女たち自身の経験したものとしてあった。
国境の街で、おばあさんたちを訪ねた。彼女たちは親戚の娘と一緒にやってきた客人を歓待してくれて、和やかに話をした。その穏やかならざる話をヤマナシさんとじっくり聞いた。帰り際、私たちが去っていく前で私たちを見送ってくれた姿には、私が引き受けなければいけない何かを感じ、今も頭に残っている。
その前年、日本政府が尖閣諸島を国有化したことによって、中国国内や香港で反日デモが行われ、瀋陽でも大きなデモがあった。国境をめぐる緊張感は高まっていた。そのことが、私の頭のなかにあり、街を歩くときにどこか身構えていた。でもヤマナシさんはいつもの恰好で街を歩き、飯を食い、酒を飲んでいた。やがて、私も同じように茶を飲み、酒を飲み、そして語っていた。
同じように、私は歴史に対しても身構えていた。しかし、ヤマナシさんの身のこなしから感じたのは、身構える以前に私たちは歴史のなかに生きているということだ。私の家族も、私の職場も、そして私が暮らす地域も、その歴史のなかにある。
切断と持続
この旅が終わったときに、村上春樹が中国の東北と内モンゴル自治区、そしてモンゴル国を旅した『辺境・近境』の言葉を思い出していた。それはこんな言葉だ。
戦争の終わったあとで、日本人は戦争というものを憎み、平和を(もっと正確にいえば平和であることを)愛するようになった。我々は日本という国家を結局は破局に導いたその効率の悪さを、前近代的なものとして打破しようと努めてきた。自分の内なるものとしての非効率性の責任を追及するのではなく、それを外部から力ずくで押しつけられたものとして扱い、外科手術でもするみたいに単純に物理的に排除した。(中略)
僕らは日本という平和な「民主国家」の中で、人間として基本的な権利を保証されて生きているのだと信じている。でもそうなのだろうか? 表面を一皮むけば、そこにはやはり以前と同じ密閉された国家組織なり理念なりが脈々と息づいているのではあるまいか?(村上春樹『辺境・近境』)
当時は東京電力の福島第一原子力発電所の事故から2年しか経っておらず、国やそれにつらなる産業の密閉された体質は強く感じられていた。しかし、批判する自分がいつのまにか批判するものと同じ論理に捉われているのではないかと、自問自答することは度々あった。だから、一皮むかなければならないのは、核エネルギー利用の国策共同体だけでなく、自分達が拠り所にするもののすべてである。
下村湖人の『次郎物語』第五部は、日本が総力戦体制に入っていくなかで、青年団運動が取り込まれていくプロセスを描く。次郎の恩師朝倉先生が主宰する自由主義的な理念をもった「友愛塾」は、軍部によって閉校を余儀なくされていく。作中、印象的なのは大河無門である。大河は京都大学哲学科を出た、27歳の中学教師で、青年団を学ぶために友愛塾に入塾した。朝倉先生は、全国の農村から集まったほかの勤労青年たちと、経歴も見識も大きく違う大河を入塾させることを渋る。彼が、ほかの学生に対して指導的立場になってしまうことを危惧したからだ。それに対して、大河はほかの塾生と同列に参加することを約束し、入塾を許可された。入塾式において、陸軍の中佐が天皇への忠誠心がすべての道徳に先んじ、すべての道徳を導き育てる。天皇の命令によっていかに死ぬべきかを考えれば、おのずからいかに生きるべきかが決定されると語った。ほかの新入生たちが眼を輝かせ、頬を紅潮させている傍らで、大河は清澄な菩薩のように動じていなかった。
やがて2・26事件によって軍部が力を増すなかで、友愛塾は閉鎖されることになる。それに際して、大河は次のように語る。
友愛塾は、勝つとか負けるということを考えるところではないでしょう。ぼく、それがおもしろいと思うんです。くやしがったりしちゃあ、塾の精神が台なしになるじゃありませんか。やっぱり愉快に行脚しましょうよ。(下村2020:388)
『次郎物語』は五巻で終わり、下村が構想した戦中、戦後の次郎の姿は描かれることがなかった。大河のモデルとなった人物は、自分が農民道場を開いた村が満州への分村移民をせまられるなかで、村人の「大河と一緒だったらいく」という言葉に応えて、彼自身も移民することになる(永杉1998:66-67)。友愛塾の閉鎖に接して、愉快に行脚することを語った大河も、やがて日本の満州進出と、総力戦体制の一つとなっていく。
私には大河の姿と、ヤマナシさんの姿がどこかで重なる。そして、ヤマナシさんは大河が進んだ道の先で、中国東北を旅したようにも感じる。青年団も戦争に協力したと断じることも、時代遅れの異物と断じることは容易い。だから新しい組織をつくることもできる。しかし、それだけが答えなのかと私は考える。持続することは、過去と向き合うことであり、未来を拓くことにもなるはずだ。
ヤマナシさんは『次郎物語』の第五部を座右の書としながら、青年団OBとして地域に生きてきた。高校を卒業し、工務店に就職したのと同時に青年団に入団した。それ以降、寝ても覚めても活動に打ち込み、その地元の仲間と年中付き合っていた。やがて引退することになると、その仲間たちとの関係が途絶えてしまう。「俺はこれからどうなるの?」という不安のなか、青年団の先輩の紹介で出会ったのが、下村湖人の弟子永杉喜輔だった。永杉は、下村の次の言葉を、ヤマナシさんに伝えた。曰く、「青年団OBは、地域の良心となれ」「名前は売るな、コツコツやれ」「新しい組織をつくるな。地域のなかにきちんとした人がたくさんになっていけば、今のままの組織でも、良い社会ができる」。それまで、ヤマナシさんは、青年団の役割は、若い衆が祭の準備など、仲良く活動することで地元に貢献することだと考えていた。青年団の名もなきOBが地域の良心になるという下村の思想は、ヤマナシさんをひきつけ、やがて青年団が生み出した濃密な地域共同体の外へ導く[1]。
兄の涙
中国を案内してくれた同僚や、延辺出身の若者たちとみかん山に行ったのは、2013年の10月のことだ。私は妻と兄、私の幼馴染のチシマ君と一緒に出掛けた。妻の車がみかん山の麓についたのはもう夜だった[2]。暗くなった山を登り、ランタンに灯をともし、そして囲炉裏で火をたいた。酒を呑み始めたが、朝方まで呑むことは無く眠りについた。
翌日は朝起きて、コーヒーを淹れ、バゲットを囲炉裏で焼いた朝食を食べてから、お昼までみんなで作業をした。刈払い機で草を刈り、熊手で草を集めてみかんの木のまわりに敷く。兄は妻と一緒に、肥料やりの作業をした。休憩中はまだ青いミカンをとって、食べた。酸っぱさが、疲れた体に心地よかった。
作業が終わり、遅い昼ご飯を、少し離れた街にあるヤマナシさんの行きつけの店で魚を食べようということになった。ヤマナシさんの車、同僚の車、妻の車の3台で東に向かった。海沿いを走りながら、やがて富士山が近づいてきた。雲はすこしあったが、きれいに晴れた午後だった。
後部座席に座っていた兄が泣き始めたのは、その時の事だ。それまで愉快そうに過ごしていたのに、悲しみを全身にあらわしながら涙を流した。兄が私の前で泣くのは、本当に久しぶりのことだった。私は戸惑い、チシマ君と一緒に兄をなだめ、理由を尋ねたけれど、兄は泣くのをやめなかった。
やがて工場群を抜けて、店に着くころに兄は泣き止んでいた。そして、刺身を食べ、キンメダイの煮つけを食べた。ヤマナシさんや、チシマ君を中心にした話の輪ができて、兄も愉快そうに過ごしていた。食べ終わって、写真をとり、そしてヤマナシさんや同僚、若者たちと握手をして別れた。
埼玉に戻る途中、母からの電話で、兄と10年来の仕事仲間であるニシさんが亡くなったのを知った。
注釈
[1] このあたりの記述は、猪瀬がかつて書いた文章と重なっている(猪瀬2010)。
[2] チシマ君は、拙著『ボランティアってなんだっけ?』(岩波ブックレット)の重要な登場人物でもある。
参考文献
猪瀬浩平2010「地縁共同体から、知縁共同体へ――山梨みかんトラストファーム農園主 山梨通夫の遍歴」『日本ボランティア学会2009年度学会誌』90-94
永杉喜輔1998『凡人の道――煙仲間のこころ』渓声社
下村湖人2020『次郎物語 五』岩波文庫
村上春樹2000『辺境・近境』新潮文庫
編集部からのお知らせ
猪瀬浩平さんの既刊本についてご紹介します。ぜひ連載と合わせて手にとってみてください。
『ボランティアってなんだっけ?』(猪瀬浩平・著)
私たちはなぜ、なんのためにボランティアをしているの? いっけん自明に思えて、実は難しい問題に、「自発性」「無償性」「公共性」を切り口としつつ、ゆるく非真面目に考える。これから始めたい人、続けてきたけど疲れ気味の人、そしてまったく興味がない人にも読んでほしい、ボランティアという営みの奥行きと面白さ。(岩波書店ウェブサイトより)
●目次
この本を手にとってくれたあなたへ
Ⅰ そこで何が起こっているのか?――自発性が生まれる場所、自発性から生まれるもの
Ⅱ それって自己満足じゃない?――無償性という難問
Ⅲ ほんとうに世界のためになっているの?――ボランティアと公共性
終章 ボランティアの可能性