第9回
対面とリモート
2022.01.07更新
私たちはどんなふうに「対面」できているのだろうか?
2020年の春、新型コロナウイルスによって、大学のキャンパスに学生たちが来られないようになり、オンラインで授業が行われるようになった。「オンライン授業」との対比で使われるようになったのが、「対面授業」という言葉だ。
その言葉に、私にはずっと違和感がある。
多くの人びとは「対面」というとき、視覚のみを重視している。さらにいえば、視覚情報に囚われてしまいやすい。
父方祖父の臨終のとき、大事だったのは視覚ではなく、触覚や聴覚だった。
もう危ないといわれてかけつけた病室で、私は父に言いつけられて、祖父の足の裏をさわり、マッサージをしていた。祖父にとってどういう意味があったのかわからなかったが、私には祖父の硬くなった足の裏に、まだかすかな熱を感じることができた。私はより柔らかいところを探し、そこを揉んだ。モニター上の数値で、心拍数が止まろうとするとき、祖母は祖父の耳に、祖父の名前をよびかけた。私たちの前では、「おじいちゃん」や「お父さん」と呼んでいたが、その時だけは祖父の下の名前を「さん」づけで呼んだ。祖父の心拍は一瞬上昇した。そうやって祖父が亡くなる瞬間、一瞬だけ心拍があがったことを、最後に声が届いたと考えて、祖母はとても喜んでいた。
ただ対面しているからといって、それで満たされるわけではない。
母方祖父の臨終のとき、私は祖母とその場にいた。しかし、あまりに突然のことでなにもできず、一方で心臓マッサージを続けるのかどうかの判断を迫られた。その意味がわからないまま、祖母と私はマッサージをやめる決断をした。あのとき、本当にわずかでもいいから、医師たちが私たちに心臓マッサージするのを許してくれていたならば、祖父の身体に触れ、その熱を感じ、そして祖父の匂いと、病室の匂いを身近で嗅ぐことができたならば、もっと私たちは祖父の死を受け止められたのだろう。
対面する場面を構成するのは、視覚で捉えられる情報だけではない。触覚や聴覚、そして嗅覚で捉えられることがらについて、「対面授業」という言葉を使う私たちはどれだけ意識できているのだろうか。そもそも新型コロナウイルスがありふれたものになる前から、私たちはどんなふうに対面していたのだろうか。対面できていたのだろうか。問うべきなのは、まさにそのことだ。
リモートの死
ニシさんの死を、私たちはリモートで経験した。
ヤマナシさんのみかん山からの帰り道、私は母の電話でニシさんが亡くなったことを知らされた。電話のあと、私は兄にも、妻にも、チシマ君にもニシさんの死の事をすぐには話さなかった。ニシさんが亡くなったことを考えながら、しかしチシマ君や妻と様々におしゃべりをした。埼玉に着いて、チシマ君のお気に入りのラーメンチェーンで、ネギ味噌ラーメンとギョーザ、半ライスセットを食べた。チシマ君がトイレに行っている間に、妻と兄にニシさんが亡くなったことを伝えた。チシマ君とニシさんが深い間柄にあることを、その時私は知らなかった[1]。
兄とチシマ君をそれぞれの家まで送ったあと、妻と兄の涙のことを語った。ニシさんの死にあたり、距離を隔てながらも、兄は何かを感じて泣いたように、私たちには思われた。ニシさんの死と、兄の涙に因果関係があるのかはわからない。もしかしたら、直接的原因は、別にあったのかもしれない。しかし、兄の泣き声を聴き、その涙を見たからこそ、私たちにとって、あの時間、離れた場所でニシさんが亡くなったことはリアルだった。亡くなったニシさんは最後に兄に触れていったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。しかし、確実に兄の涙を介して、ニシさんは私たちに触れていったのだと感じた。
ニシさんは、兄が受験し、不合格にされ続けた高校の生徒だった。その高校の定時制には、兄の受け入れのために奔走する先生がいた。兄はその高校に自主通学し、そしてその先生が顧問をしている放送部の活動に参加した。ニシさんは放送部の部員だった。
私とニシさんが初めて会ったのは、たぶん駒沢オリンピック公園でのことだ。小学校6年生だった私は、母と兄、妹と一緒に、高校野球の試合を始めて観戦した。定時制の軟式野球の全国大会で、ニシさんと兄が通う高校は、天理高校と対戦していた。全日制の応援団がエールを切り、放送部はカメラを回していた。試合は天理高校が完封勝ちした。
兄はその高校の門をたたき、しかし4年間落とされ続けた。やがて、私がその高校の全日制に入学するとき、兄は別の高校に入学することになった。ニシさんはすでに高校を卒業し、就職していた。やがて、兄がウクレレづくりを始めるころに、ニシさんはウクレレづくりの仲間に加わっていた。その頃、私は大学生になっており、大阪から帰省すると兄たちが働く作業所の活動に顔を出すようになった。
ニシさんは、ウクレレづくりでは、ルーターややすりがけが得意だった。ニシさんは願望や妄想を事実として語る人で、聞く人は彼の話をそのまま受け止めてしまい、様々な形で混乱を引き起こした。ニシさんは、几帳面で、責任感の強い人で、誰にも言われていないのに、いつも副リーダーを自称していた。饒舌で、みんなを引っ張っていこうとするニシさんとは、基本的にあまりしゃべらず、しかし時に大きな声を出す兄は、長い間仕事仲間だった。ウクレレづくりが、それを担っていたスタッフの死によってできなくなった後も、紙漉きや、見沼田んぼ福祉農園での農作業へと仕事の中身を変えながら共に働いていた。いったんニシさん自身が活動から距離をおくことがあっても、やがてまた戻ってきてくれた。
名刺の手触り
私が大学3年生の頃、埼玉の障害者運動の仲間たちが、全国の障害者団体と交流する事業をした。その訪問先の一つに大阪が選ばれ、そのメンバーとしてニシさんと私も参加した。当時私は大阪で大学に通っており、少しだけ土地勘があった。
初日の夜、地元の方々との話が盛り上がり、ホームスティ先の大阪南部の障害者運動団体の拠点に到着したのは、予定時間を大幅に過ぎたあとだった。その団体のリーダーで、青い芝の会の頃からの闘士でもあった人に、私たちはきつくお灸をすえられた。みんな平身低頭する中で、ニシさんが敢然と「そんなこと言ったって、こっちはこっちで予定があったのだから」と逆ギレした。酔っぱらって時間を忘れただけで、えらそうに言える予定などなにもなかったのだが、ニシさんの剣幕に闘士は一瞬ひるみ、そのままなし崩し的に場はほぐれ、最終的にはまた酒盛りになった。
その旅のなかで出会った人々に、ニシさんは紙漉き作業でつくった名刺を渡した。牛乳パックをリサイクルした和紙に、自分の名前が書かれていた。
彼にもらった名刺は、しっとりとした絹のような手触りだった。それを、私は生まれて初めて買った名刺入れにしまった。名刺入れは、100円ショップで最初に買ったものだ。当時の私は、一枚一枚の名刺をもらいながら、自分の世界が広がることを感じていた。手で漉かれたやわらかい名刺は、端がよれよれになりつつ、私の名刺入れの中で生々しい存在感を持っていた。
ニシさんはやがてジャグリングを習得し、見沼田んぼ福祉農園でイベントがあると自分の自己紹介とあいさつのあとでジャグリングを披露するようになった。
決してうまくはなかった。むしろ、ひどいものだった。ニシさんは自身満々でマイクを握り、「今からジャグリングをやります」と語った。まわしはじめたそばから、3つのボールはあちこちに飛んでいった。それでも彼はボールを拾い、またボールをまわしはじめ、またボールはあちこちに飛んでいった。それを一通り繰り返した後、自信満々で「これで終わります」と語った。度の強い眼鏡の中の瞳を光らせながら、彼が自信満々に語る姿と、あちこち飛び回っていくとボールのコントラストが、毎回爆笑を誘った。自身のジャグリングがうまくいっているとおもっているのか、それともうまくいっていないからみんなにうけているとおもっているのか、そのことを確かめたことはない。
やがてニシさんの真剣なジャグリングは、福祉農園のイベントの定番になった。
ニシさんのお通夜には、彼と縁のあった様々な人びとが参列した。懐かしい顔にも出会い、様々に会話をした。祭壇にはニシさんの日記が飾られ、そこにはこの年の夏に私の大学の学生と一緒に農作業をしたこともしっかりと書かれていた。斎場には、彼の好きだったジャイアンツの球団歌が繰り返し繰り返し流れていた。
私はニシさんからもらった名刺を探した。4回の引っ越しを経て、あちこちに移動したため名刺入れは、部屋のどこを探しても見つからなかった。
やがて私は、ニシさんにゆかりのある人たちに声をかけて、彼の追悼文章を作り始めた。ゆかりのある様々な人が文章を寄せてくれた。それを丸一日かけて編集した。それを、ニシさんとずっと働いてきた母が印刷し、偲ぶ会で配った。偲ぶ会には、県内からだけでなく、様々な場所から人びとがあつまり、思い出話を語り合った。
どこかにいってしまった名刺と、その手触りの記憶は、私を走らせている。私はニシさんのことを様々な形で語り、そして今も書き続けている。
神経多様性を内側にみる
文学研究者にして、詩人であり、そして自閉症の息子を持つラルフ・ジェームズ・サヴァリーズは、自閉症者たちと小説を読み、その経験を『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』として著している。彼がこの本で提示するのは、神経多様性(ニューロダイバーシティ)という概念だ。
これまでの自閉症者に対する理解は、発達心理学者のバロン=コーエンの「マインドブラインドネス理論」に代表されるように、「他者の心の中に存在するものに対する気づきを発達させる」ことができないという見方や、「他者への共感能力に欠ける」という見方が一般的である。この見方を踏まえれば、自閉症者は論説文を理解できたとしても、登場人物への共感や、その内面への想像力を必要とする小説を読むのは苦手ということになる。
このような一般的な自閉症者への理解に対して、サヴァリーズは脳科学の最新の議論を参照しながら、むしろ自閉症者は他者への、共感力が過剰であるのだとする――共感の対象は、人間だけには限らない。たとえば自閉症者は生物でないものを、擬人化することが得意な人もいる――。サヴァリーズは、自閉症者はものを考える際に異常なほど後頭部の感覚野にたよっており、逆にニューロティピカル(神経学的な定常発達者)は異常なほど前頭葉に頼っているという研究成果や、自閉症者は情感的共感が過多であり、そのため共感の過覚醒に陥りやく、その影響で認知的、運動的共感が困難となり、結果として実際よりも共感的でなく見えてしまうといった研究成果を紹介する。
サヴァリーズは5人の自閉症者と小説を読み、対話した。実際に対面した対話が難しかったり、住んでいる場所が遠かったりするときは、スカイプをつかったビデオ通話や、チャットを使う場合もあれば、作品にかかわる記念館に一緒に旅することもあった。そうやって、サヴァリーズは、たとえば彼らの細部へのこだわりが、日常の生活の場面でカテゴリー的な理解を困難にさせている一方――たとえば、メルヴィルの『白鯨』を読んだあと、実物の木造捕鯨船実をまのあたりにしたとき、ある人はマストや帆といった船の主要な要素と見られるものばかりでなく、船板の木目すらも意識してしまう――で、小説の読解においては物事の通俗的な理解を超えて、小説家が駆使するアナロジーを感覚的に共感できてしまう様を描き出す。
サヴァリーズの本をよみながら、自閉症の診断を受けている兄の、あの時の涙が何を理由にしていたのかを想像する。ニシさんの死が同時間帯にあったことに私は注目したが、もしかしたらヤマナシさんと別れたことが理由だったのかもしれないし、海が見えなくなっていくことや、富士山の姿をみたからなのかもしれない。さまざまな出来事が起こる世界のただなかで、涙は自ずから流れる。そして、涙を流したこともひとつの出来事と理解されていく。
それはまた、私の涙や怒りがただ一つの刺激によって生まれるのではなく、この世界の中でさまざまなものと、出来事と共にある中で生まれていることに通じる。しかし、私たちはそのことを忘れて、カテゴリーに押し込めて理解してしまう。サヴァリーズのいう神経多様性は、自閉症者への理解を深めるだけでなく、私たち自身の理解を深めるものであると、私は考える。
たとえば「授業」を考えるとき、知識の伝達や習得にのみ焦点が当てられ、そのための最適な方法を考える。もちろんその視線は妥当である。妥当であるが、「授業」という時間のなかで私たちが何をしていたのか、そこに何が存在していたのか、そのことは見過ごされてしまう。
さらにいえば、オンラインで実施されるものの中にも、これまでになかった「知識の伝達や習得」を超える何かは存在している。私の授業を受けている学生が、いつも部活の練習の前後の移動途中に、スマホで授業を受講していると語っていた。そうやって車内で起こっている事柄と、車窓に広がっている世界のなかで、たとえば哲学やスペイン語の授業を聴いていることを受け入れ、そこに有意な結びつきが埋まるとしたら、その先にどんな世界が開かれていくのだろうか。
兄が涙を流し、ニシさんが亡くなった。私たちはラーメンを食べ、そして二つの出来事がつながっているように感じた。そうやって理解しながら、なくなっていったものをかろうじて私たちの世界につなぎとめようとしている。そしてそれはあくまでかろうじてのもので、かならずどこかで、私たちの手をすり抜けていってしまう。
注釈
[1]ニシさんの死のあとの、チシマ君が独走し、実現させてしまった伊豆旅行については、拙著『ボランティアってなんだっけ?』(岩波ブックレット)を参照。今回の原稿を書きながら、私が「ボランティア」という言葉について考えていることと、「しっそう」という言葉で考えていることが重なっているということに気づいた。
参考文献
サヴァリーズ,ラルフ・ジェームズ、2021『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書――自閉症者と小説を読む』岩坂彰訳、みすず書房
編集部からのお知らせ
今回の連載に登場する本についてご紹介します。ぜひ連載と合わせて手にとってみてください。
6人の自閉症者と文学教授が、『白鯨』『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『心は孤独な狩人』などの名作をともに読んだ読書セッションの記録。自閉症者は「心の理論」を持たない、想像による遊びができないといった偏見は早々に覆されるが、それだけではない。「カテゴリー化以前」の感覚を通して物語と関わることで、自閉症者がユニークで鮮烈な読書体験をしていることが明らかになる。
それぞれ独特の症状や経歴をもつ彼らの、物語への感受性はときに痛切とも言えるほど鋭敏だ。たとえば『白鯨』を読む第一章では、言葉を話さない自閉症の青年ティトが、どの登場人物よりも鯨に自分を重ねながら小説世界を「泳ぎ」、その感覚を詩に綴りはじめる。『白鯨』のモチーフはやがて、ティトと著者の生活全体を呑み込んでいく。
著者は近年の脳科学的知見にもとづいて、「神経多様性(ニューロダイバーシティ)と読書」というテーマをかつてないほど掘り下げている。そこでは、自閉症者と定型発達者、双方の読み方の特性が互いを照射し合い、読むという行為の尽きせぬ可能性を浮かび上がらせる。だからこそ、本書の読後に強く体感されるのは、多様な脳と交感する文学の力の無辺さだ。
(みすず書房ウェブサイトより)