第12回
ボランティアのはじまり
2022.04.06更新
日本ボランティア学会のこと
かつて、日本ボランティア学会という学会があった。1998年に出された設立趣意書は、以下のような言葉ではじまる。
私たちは今、これまで日本を支えてきた社会システムと価値システムが崩壊する混迷の時代を生きています。とりわけ社会システムは「制度疲労」をきたし、政治、経済、文化、生活のあらゆる分野で機能不全の状態に陥っています。
このような時代状況にあって、私たちは、人間社会の基底をなすサブシステンス(自律的生存)領域の活動をいかに協働して回復し、再構築するか、という問いに導かれて混迷を抜け出す新しい回路を発見していきたいと考えています。
日本は官主導の社会が終焉を迎え、普通の人々も公益の担い手であるという新しい公共性の考え方が根を張ろうとしています。そのなかで、私たちはボランティアの役割について新しい評価をしていきたいと考えます。ボランティアこそ、人間の自律性と協働性を新たに構築する実践であり、その実践のなかに未来をひらく新しい回路があるにちがいないからです。
わたしは、農業、農村についてのわたしの師匠といえる小松光一さんに誘われてこの学会に参加した。最初に発表したのは2003年の大阪の大会で、ここではじめてヤマナシさんに出会った。2006年から、わたしはこの学会の運営委員をしていた。そして、年次大会を2度企画した。1度目は2010年で、2度目は2012年のことだ。間はたった2年しかない。それだけ企画する人がいなかった。研究者の再生産を目的としないこの学会は、代表の栗原彬さんを中心とする自由なサークルのような場であり、営業時間外の居酒屋や、NPOが管理する施設なども使いながら、自由な議論の場が持たれた。年次大会も、全国各地の大学や市民活動団体と協働で企画した。だからその事務局を担う人びとの負担は大きく、そしてそれが解散を決断する原因となった。継続することを目的とせず、すっぱりとやめてしまうことができたのも、この学会の持っていた一つの魅力だったと、わたしは思っている。
いま、改めて設立趣意書を読むと、無償性や自発性といった言い古された言葉に頼らずに、ボランティアの持つ可能性を拡げようとする意志に、心が震える。
東京の果て、東北のはじまり
わたしが企画した1度目の大会は、わたしの勤務する大学の都心にあるキャンパスで実施した。大学の外にもいくつか会場をおきつつ、基本的には設備の整った大学の施設がメイン会場だった。大学も様々な形でサポートしてくれた。
2度目はわたしが引っ越すことになった(といっても一駅隣なのだが)、埼玉の町で実施した。こちらは、本当につぎはぎだらけの大会だった。最初、農園でお世話になっている地元の財界人に、駅近くのイベント会場が抑えられると言われた。会場の申し込みは3か月前からなので、それまでは黙って待っていれば大丈夫と。大会実施日から3か月以上前のある日、その人から電話があり、施設の予約は実は半年前からで、既に会場は他の団体に抑えられていてダメだと伝えられた。メイン会場すらなくなった。仕方なく、あちこちに電話したが二日間通しで抑えられるところはなく、なんとか半日だけとれた美術館の講義室や、わたしの卒業した学校の同窓会館、そして建築中だったわたしの家すらも会場にした。
学会のテーマは、東日本大震災と原発事故が起きた2011年の翌年に、埼玉の町でボランティア学会をすることを考え「東京の果て、東北のはじまり――境界を生き抜く」とした[1]。長年交流のある宮城県で稲作と牛飼いをする農家や、福祉農園にも参加する障害者団体「わらじの会」や地元ロータリークラブの人々がスピーカーとして参加した。
兄は介助者のカリヤサキさんと一緒に、オープニングパフォーマンスをやった。カリヤサキさんは、「こまどり社」を名乗りよろず表現稼業(獅子舞から、音楽活動、早くて安くて似ていない似顔絵、漫画など、よろず表現活動)をしている[2]。二人は「きょうせいする」というタイトルで、二人の関係を、題材となった二人自身がパフォーマンスする立体的な構造のライブ紙芝居をした。兄が銅鑼を叩いて始まったパフォーマンスは、紙芝居の片方をカリヤサキさんが、もう片方を兄がもったり、兄がマイクをもってカリヤサキさんが紙芝居をもったり、その逆になったり、そして時に会場内を歩き回りながら行われた。このとき、カリヤサキさんは指をケガしており、兄が彼のパフォーマンスを補助している場面もあった。
介助する―されるという関係は、一筋縄ではいかない。兄の意思をどのように読み取るのか、そして周りの人びととどのように折り合いをつけるのか思案する必要がある。当時の兄は電車に乗る際、座席に座ることに対する強いこだわりがあり、時には座っている人をおしのけて座ってしまうこともあった。カリヤサキさんは、どこにあいている席があるのかを見極め、兄をそこに誘導する。その誘導に従ってくれないこともある。一方で、カリヤサキさんのいきたいレコード屋や音楽イベントに、兄を連れて行ったりもする。兄は突然大きな声をあげ、跳びはねる。カリヤサキさんはそこに兄のダンスを読み取り、そして音楽ライブでダンスする自分とつなげ、自分と兄がのっていくリズムの違いを見出していく。そんなことを、アドリブ交じりに語っているうちに時間は大幅に超過し、結果として用意していた紙芝居のすべてを演じることもできなかったのだが、会場からは大喝采を浴びた。
未完成の家で住み開く[3]
二日間の年次大会、兄は最後までつきあってくれた。
初日の懇親会の三次会のラーメン屋までつきあい、そして当時わたしの暮らしていた家で、遠方からやってきたゲストたち(その中には、ヤマナシさんもいた)や、宿をとらずにやってきた若者たちと雑魚寝した。
翌日、兄は建築中の家で開かれた分科会に参加していた。分科会では、日常編集家のアサダワタルさんのコーディネートのもとで、ジャンルに分類が難しい様々な活動を実践している、鳥取、大阪、京都、山梨、埼玉、宮城で活動する20代から30代の人びとが語った。壁もまだできていない家の中の様子は筒抜けで、商店街を歩く人びとはその様子を眺めていた。ヤマナシさんは、若者たちの知恵袋として参加してもらった。にもかかわらず、分科会が始まっても近くの店でビールを呑んでいた。やがてやってきて足場パイプに登り、そこに腰かけた。会場を見下ろし、若者たちの話を聞いていた。最後にコメントを求められたヤマナシさんは、「なかなかほんといいよ、おまえたち。たいしたもんだよ」と語った。兄は会場に座り、やがて外に出て商店街を行き来し、近くの建物の階段に座っていた。
分科会が終わると参加者は、駅の構内を西口から東口に抜けて、高校の同窓会館にむかった。二つの分科会のまとめをし、そして大会全体の締めくくりをした。企画者だったわたしは、まとめの言葉の一部として次のようなことを語った。
この高校は、わたしの母校であるとともに、兄が受験し、そして4年間にわたって不合格にされた学校である。4年目の受験は、わたしの受験の年と重なった。全日制を受けたわたしは合格し、定時制を受けた兄は不合格となった。自分の合格を確認した数日後、同じ掲示板で、わたしは兄の不合格を確認した。校内の公衆電話に10円をいれて、実家にいた父に兄の不合格の報告をした。合格した受験生の名前を張り出す掲示板こそが、わたしと兄の境界だった。
どんな進路になるのかは、個人の選択の結果であり、どこであってもそこに青春があり、出会いがある。ただ大事なのは、その一見「あたりまえなこと」の背後に、人を恣意的な基準で分断し、それを納得させていく管理のシステムが存在することだ。そして、そのシステムを揺さぶっていく端緒は、生々しい感情であり、身体感覚である。「こうこう、いく」と兄が言い続けることが、兄弟を、家族を、高校を、教育を、そして社会を揺さぶり、それまでと違う回路で、人と人、人とものごとを結び付けていく。
二日間の会が終わった。人々は駅に向かって帰っていった。わたしは最後までやり切れるのかわからない仕事がようやく終わって、疲れ切っていた。解放感につつまれながら片づけを始めようとしているときに、兄がいなくなっていたのに気づいた。
大会の終わり、ボランティアのはじまり
日本ボランティア学会の設立趣意書は、次の言葉で結ばれる。
一人ひとりの人間が批判的かつ創造的にものを見る能力を身につけ、世界の現実を必然的なものでなく、人間の力で動かしていけるものであることを知る。ここから未来の希望が生まれてくると思います。
わたしを含めた多くの人は、ここで語られる「一人ひとりの人間」を障害のない人として無意識に読んでいないだろうか。「一人ひとりの人間」とは、ボランティアをする人間である。障害のある人は、障害のない人にボランティアをされる側であって、誰かにボランティアをする側ではない。そう思っていたとしたら、「一人ひとりの人間」に障害のある人は含まれないだろう。そうは思っていなかったとしても、では障害のある人を、批判的かつ創造的にものを見る能力を身につける人として捉えているのだろうか。
***
大会が終わって帰る人の流れにのって、兄はどこかにいってしまったようだ。兄を見かけた人がいないか、声をかけ、走り回ったが、兄の去っていくことに気づいた人はいなかった。多くの人が、会が終わるまで兄が会場にいて、椅子に座っていたのを意識していた。しかし、いついなくなったのか、把握している人はいなかった。
二日間、いつでもいなくなるタイミングはあったのに、最後までつきあってくれたことに、兄の意思を感じた。兄は弟の仕事につきあい、そしてその最後の言葉が何とか絞り出される瞬間を見届け、そしていなくなった。
こういうときにやれることはあまりない。わたしは母に連絡し、そして会場の片づけをし、スタッフの人びとと打ち上げをした。夜になって兄が見つかったという警察からの連絡があったと、母から電話をもらった。
兄が見つかったのは、わたしが働く大学のキャンパスがある横浜の町だった。兄は何故か、ターミナルでないその駅で降りて、そして町を歩いていた。彼がその町にやってきたことはない。縁があるとしたら、弟が働いていることの一点である。
疲れ切ったうえに酒を飲んでいた私は、そうやって兄が職場のある町を見に行ってくれたように感じた。
今、そのときのことを振り返り、そこにこそ、あの大会のクロージング・パフォーマンスがあり、そしてボランティアのはじまりがあったのではないかと気づく。兄は二日間様々な人たちにつきあい、そして最後一人で決断してどこかにはしり去っていった。彼なりのやり方で、この大会に関与し、そして弟の世界に触れてくれた。
そして、その後に解散してしまった学会に対して、「一人ひとりの人間」の中に見落としてしまっているものはないのか、根源的なところで問いかけていた、そんなふうに今、私は考える。
二日間の彼の身振りと、そしてその二日間が終わった後のしっそう、それ自体が「批判的かつ創造的にものを見る能力」の現れであり、「世界の現実を、人間の力で動かしていくこと」の現れであると受け止められたとき、そこから生まれる「未来の希望」がある。
注釈
[1] この大会のフライヤーに、私は以下のように書いた。
都心から電車に揺られて30分。
繁華街でも、過疎地でもなく、都市でも、田舎でもない。
大自然はないが、緑はほどほどに残る。そんな東京郊外のベットタウン、北浦和。
でも、そのどこにでもあるような町の片隅に存在する小さな営みに、目を凝らし、耳を澄ませて向き合えば――。障害のある人とない人の交わりのなかで、変わっていく町の情景
大学の住民と地域の住民との出会いから、編まれていく市民知
悩みながら動き始めた若者たちの蠢き
都市と農村、人間と自然とを、しぶとく結ぼうとする日々の営み......立場や経験の違う人びとの交わる<境界>で生まれた<身振り>があり、社会システムの問題を乗り越えるために刻まれた運動の<リズム>があることを知ります。
[2] こまどり社について書き始めるときりがないので、獅子舞についてのみ書くが、当初段ボールでオリジナル獅子頭をつくってインディーズの獅子舞師としてパフォーマンスをしていた。そんな彼のところに、ゴミ焼却施設で働く友人が、焼却寸前だった獅子頭を救出し、彼に贈った。由緒のありそうな獅子頭をゴミとして捨てることにどんな物語があったのか想像力を掻き立てられるが、いずれにしろ彼はその後その獅子頭をつかって獅子舞をしている。ハードな使用のため、顎が割れたり、耳が取れたりしたが、それを蝶番やねじなどで補修した結果、伝統的な獅子頭はサイボーグの様になっている。電車の網棚に忘れたことも何度かあるが、必ず彼の元に戻ってくる(といっても、獅子頭をもっていこうとするひともいないだろうが)。
なおこまどり社の現在の活動については、こまどり社のtwitterをご覧ください。
[3] 住み開きとは、自宅の一部を、家族以外の人に無理のない範囲で開いて、交流・共有の場としながら、固定化された「公」と「私」を揺さぶる言葉として、アサダワタル氏が生み出した言葉である(アサダ2020)。
参考文献
アサダワタル2020『住み開き 増補版――もう一つのコミュニティづくり』ちくま文庫
編集部からのお知らせ
猪瀬浩平さんの既刊本についてご紹介します。ぜひ連載と合わせて手にとってみてください。
『ボランティアってなんだっけ?』(猪瀬浩平・著)
私たちはなぜ、なんのためにボランティアをしているの? いっけん自明に思えて、実は難しい問題に、「自発性」「無償性」「公共性」を切り口としつつ、ゆるく非真面目に考える。これから始めたい人、続けてきたけど疲れ気味の人、そしてまったく興味がない人にも読んでほしい、ボランティアという営みの奥行きと面白さ。(岩波書店ウェブサイトより)
●目次
この本を手にとってくれたあなたへ
Ⅰ そこで何が起こっているのか?――自発性が生まれる場所、自発性から生まれるもの
Ⅱ それって自己満足じゃない?――無償性という難問
Ⅲ ほんとうに世界のためになっているの?――ボランティアと公共性
終章 ボランティアの可能性