第13回
満月とブルーインパルス、あるいはわたしたちのマツリについて
2022.05.03更新
8月の祭典
見沼田んぼ福祉農園の8月の共同作業は、2020年の夏にはじまった。兄や仲間たちの仕事を支える地域活動支援センターの農園担当スタッフのヤマさんが、農園の排水性を向上させるために溝掘りをしようと提案したのがきっかけだった。
2020年はお盆休みの二日間、炎天下のなか朝からお昼まで穴を掘った。福祉農園にかかわる団体の人々が集まり、作業をすすめた。30分に10分休憩をとり、アイスや行動食のお菓子をわけあった。作業の参加人数は、のべ10人に満たなかった。コロナウイルスの第二波が、日本で騒がれていた頃のことだ。
2021年の共同作業は、福祉農園の会員である埼玉朝鮮学校のキムさんが堆肥場の切り返しを提案したのがきっかけだった。
福祉農園は、障害者福祉にかかわる2団体と、ボランティア団体、朝鮮学校でそれぞれ区画を持ち、管理している。各団体の区画や、共同管理の芝生広場、通路、ビオトープ、隣の農家との境界で除草された草は、堆肥場で山になり、分解されて土になる。といっても、自動的に分解が進むわけではない。しぶとく生き残った雑草はそこで育ち、またカボチャやソルゴー、ジュズダマなど野菜や雑草の種は芽を出していく。それらを刈り、引き抜く。その下にある分解された土を掘り出す。そこにできた窪地に、分解されてない残渣や、刈り取ったばかりの草を入れる。そしてその上に、分解された土をかぶせる。そんな切り返し作業は年に数回は必要である。
ヤマさんも、前年と違う場所の溝掘りを計画していた。だから、この年の共同作業は堆肥場の切り返しと、溝掘り、それと刈払い機の講習を平行して行うことになった。当初はお盆休みに実施しようとしていたのだけど、都合がつかず一週間後に実施することになった。
新型コロナウイルスがまん延するまで、福祉農園では、毎年8月にキャンプをやっていた。2002年にキャンプをはじめた頃から2010年代のなかばまでは、一週間やっていた。最後の数年は数泊だけになった。
はじめた頃は、わたしはまだ20代の前半で、エネルギーも暇もあった。その頃はとにかくキャンプすること自体が目的になっていたこともあり、ほとんど作業をした記憶がない。とにかく焚火をすること、野外で飯をつくること、そして呑んでだらだら明け方まで呑み語ることが活動の中心だった。当時仲良くなった小学生も参加し、酔っぱらった若者たちと一緒に野外生活を楽しんでいた(だから、一週間終わるころにはすごくワイルドになった)。2年目のキャンプは6日間が全部雨だった。一時は傍らに流れている川も水があふれた。本当に農作業などできなかった(見沼田んぼが遊水地機能を持つという土地柄もあり、川の増水には度々見舞われる。2005年のキャンプは、宴会の余興をやっている最中にゲリラ豪雨に襲われ、テントなどが流されそうになっててんやわんやだったことがある)。3年目くらいから、早朝5時に起きて農作業する習慣が始まり、やがて近隣農家の手伝いにいったり、地域の生活史を聞きにいったりするという形でプログラムが充実していった。やがて参加人数は30人を超えるようになり、早朝から農作業、昼飯食ったら昼寝して、少し涼しくなったら農作業、そして夜は勉強会という禁欲的な合宿形式になっていた。
やがて僕をはじめとする第一世代が中年化するなかで、2017年からは年々日数が短くなり、コロナの前年にはもう一泊だけになっていた。そうやって短くなってしまうと、すごく仕事ができることに気づいた。『分解者たち』や『ボランティアってなんだっけ?』は、そうやってできた時間に執筆がすすめられた。
だから、コロナのなかではじまった共同作業は、宿泊と宴会を伴わない形で、でもキャンプでやっていたことを引き継いだともいえる。
8月22日、朝いちばんに福祉農園にやってきたヤマさんを筆頭に、朝鮮学校関係の大人が15人ほど参加した。そのほかわたしと一緒にキャンプをやっていた時代からの仲間や、今年になって福祉農園に通い始めた家族も参加した。朝鮮学校の子どもたちはとても良く働いてくれて、大人の掘り起こした土を、一輪車で分解された土を畑に何度も何度も運んだ。炎天下のなかで、文字通りに駆けまわっていた。かくして境界の溝は深くなり、堆肥場は切り返された。
飯をつくって、一緒に食べるということはしなかったけれど、休憩時間や作業の合間にはさまざまななおしゃべりをした。
死者たちと踊る
お昼をはさんでやってきたのは、兄やマエダさんだった。この日の午後は、知的障害のある人たちの農作業体験の会があり、二人はその受け入れスタッフだった。知的障害のある人たちの受け入れを、知的障害のある人たちの仕事にするというのが、2021年から始めたこの会の要点である。二人やその介助者、他のスタッフとともに、農園をまわってやることを確認し、人びとが密にならないような準備をする。机を雑巾でふいた。
そして、やってきた人たちと準備運動をし、農園を歩いた。4月に植えた里芋の生育を確認し、畝間のトンネルを歩き、ナスやトウガラシなどの夏野菜を収穫した。そして、剪定・伐採した木に雑草のツルがまきついていたのを、一つ一つアシナガバチの巣に気を付けながら取り出して、火を起こした。人々は、ゆったりとした時間を過ごし、やがて夕暮れを迎えた。この会を楽しみにしている、カメちゃんという青年はいすゞのトラックのCMソングを自分流にアレンジして、この日はマエダさんの介助として参加していた農園専属ギタリストのヤマグチ君のギターの伴奏で歌った[1]。
一日、いろいろな人びとがやってきた農園だった。一日の延のべ人数は50人を超えた。
そういう入れ替わりたち代わりのなかで、わたしはかつて農園にいた人たちのことを想った。
それは何故か――。この日、見ていた風景は、この日いた人だけがつくっているわけではない。かつて農園に来た人の作業によるものが、そこかしこにある。その人が植えた木、その人が教えてくれたナスの棚の仕立て方、ネギの土寄せの仕方、その人と一緒に建てた農機具小屋。さらにいえば、育っていく野菜や雑草があり、伸びたり枯れたりする木があり、虫やカエル、ミミズなどの生き物があり(今日子どもたちはのこぎりクワガタや、エビを捕まえていた)、その遺骸や残差が分解されてまた土になって畑にもどる。そしてそれは、農園だけにはとどまらず、隣の農地からさらにその隣りへと広がっていく。人や様々なものたちの、仕事と暮らしが風景をつくっていく。
そうやって作業しながら、農園で時間を共にした懐かしい人たちと交わる。そしてその中には、もうこの世にいない人たちも何人もいる。
ある時からわたしは、8月にずっとやっていたキャンプを、お盆に先祖を迎える方法をうしなってしまった自分達にとっての、死者と交わる儀式であると思うようになった。
ベットタウンの核家族に生まれたわたしは、東京出身父母の実家はお盆の時期が7月ということもあったり、親族との関係が疎遠になっていたり、墓が遠方にあったりといったことから、子どもの頃からお盆をする習慣はなかった。
ある年、お盆の時期にキャンプをするなんておかしいと、お寺出身の若者に言われたことがある。しかし、親しい死者たちと交わる方法すら失ってしまった自分にとって、お盆はむなしく過ぎる空白の日々でしかない。だからこのキャンプがお盆時期の毎年の行事であり、ここで最初は若者として、今は若者とともに過ごすことで、あの世に行った人たちを想い、この世にひととき迎える場になればと思っていると、その人に答えた。
キャンプをはじめて10数年が経つ中で、キャンプに参加した人たちや、協力してれた人たちが、ひとり、またひとりとあの世に旅立っている。そういう懐かしい死者たちがやってきて、交わる場所をつくる。朝は踊るように働き、そして毎晩火を焚いて、酒を呑みながら彼ら、彼女らを待つ。
そんなことを想いながら、この日も焚火を起こし、人々と火を囲んだ。そうやって、2021年の農園では、お盆の行事を、本来の時期から一週間遅れて行なった。
だれのもののそら
この日のまだ暑さが残る午後2時45分。農作業体験のために農園内を歩いていた時の事だ。上空で爆音が響いた。その音が聞こえてくる方向にむかって、マエダさんが「ありがとうー」と大きく手を振った。里芋が育ち、高架線が走るいつもの風景の上に、3、4本の蛇行した飛行機雲が走っていた。やがて、それは2日後に迫ったパラリンピックの開会式のための、ブルーインパルのテスト飛行であることに気づいた。
マエダさんは喜んでいたが、わたしは、この穏やかな共同作業の時間を邪魔にしないでくれと思った。パラリンピックも、オリンピックも。IPC(国際パラリンピック委員会)も、IOC(国際オリンピック委員会)も。そして、日本政府も。同時にわたしも、農園もまた、この同時代の様々なことに、揺さぶられ続けているのだと思った。
見沼田んぼ上空にブルーインパルスが残した飛行機雲は、わたしたちの懐かしい風景が、外の大きな力によって簡単に左右されてしまうことの予兆のようでもある。 わたしたちの不自由さを生み出しているのは、当時猛威を振るっていたコロナウイルスのデルタ株や、今はやっているオミクロン株だけでもない。
あの自衛隊の練習機が発した爆音のことを、今、戦場になった町から送られてくる映像を見ながら思い出す。
この日の作業が終わる頃には、農園の東南にあるお寺の方に満月が出ていた。
満月は静かで、あとに何も残さないのがいい。その静かさを背に受けながら、家路についた。
付記
2022年の3月、農園ボランティアだったフジエダさんが亡くなった。
フジエダさんは、2004年頃から、兄たちと一緒に働き、その作業のサポートをしてくれた。フジエダさんは、建築士の仕事を引退してから農園にやってきた人で、農園にきて1年が経つ頃には、兄たちだけでなく、週末を中心に活動するわたしやその仲間たちとも親しく付き合いしてくれるようになった。大学院生だったころのわたしは、平日も農園にいっていたのでフジエダさんと休憩時間におしゃべりをし、様々なことを教えてもらい、そしてフジエダさんの生きてきた戦後の建築の世界の事を知った。
フジエダさんは若いころに故郷を出てから、首都圏各地の建築現場で働いてきた人だ。戦後の日本を代表する建築家と仕事をし、名だたる高層建築の図面を書いた。そんなフジエダさんは、農園で障害のある人や、礼儀を知らないわたしのような若者たちとの交流を楽しみ、「今が一番人生で楽しい」と語ってくれていた。そして、ボランティアとして、農園に来ている様々な人たちの声を聴き、その作業風景をよみときながら、農園に必要な木造で、低層の建物をつくり、壊れたものの改修をしてくれた。フジエダさんは、夏のキャンプも楽しみにしてくれていて、そこで若者たちにネギの土寄せの仕方を教え、釘の打ち方や、小屋の耐震強度を上げるための方法を教えてくれた[2]。
一人目の子どもが生まれて初めて農園に行くときも、フジエダさんは農園にいて彼女を迎えてくれた。三人目の子どもが生まれて一月もたたないうちにでかけていったのも、ボランティアを引退したフジエダさんの自宅だった。そしてそれが、生前のフジエダさんと会う最後の機会だった。わたしは再訪を、他の仲間は訪問を望んでいたけれど、コロナがそれをためらわせた。
80歳を過ぎた年の春、フジエダさんは農園のボランティアを引退した。その前年の秋の収穫祭のとき、フジエダさんがわたしに語ってくれた言葉が忘れられない。フジエダさんは若い時に酒を断っていたのだが、この日はビールを呑み、そして陽気な顔で、自分よりも長く生きるものとしてわたしに語りかけてくれた。フジエダさんが語ってくれたその言葉(その中身は書かないが)が、わたしが農園にかかわり続けるいくことの一つの支えになっている。血縁関係もない、ボランティアで会った次の世代の人間に何事か託すということが、いつかわたしにできるのだろうかと思う。
この2年あまりの期間、各地の年中行事が中止や縮小を余儀なくされてきた。そんななかで年中行事の習慣がほとんどないわたしたちが新しく生み出した習慣は、曲がりなりにも続いている。フジエダさんの訃報に接し、今年の夏こそは、またキャンプをしたいなあとおもっている。さすがに一週間はしんどいが、朝から働いて、一晩呑み明かすだけでも。
そうやって、たまたま巡り合ったわたしたちは、その一期一会を未来に託す。
注釈
[1]ヤマグチ君は、シンガーソングライターとして活動をしている。2015年のキャンプの時に彼がつくった「風の学校」という曲はhttps://soundcloud.com/knock-and-call/1utuaofvymg9?utm_source=clipboard&utm_medium=text&utm_campaign=social_sharing。いま聴いてみると、この文章の内容とシンクロしている部分がある。ちなみに、この時期、国会議事堂前ではずっと安保法制に反対するデモが開かれていた。そんななか、キャンプは開かれており、最後の夜である8月15日、ヤマグチ君と同世代の仲間で結成されたバンド「ダンゴ虫」によって、この曲が披露された。この日の様子は、大衆食堂の詩人エンテツさん(遠藤哲夫)さんが、ブログで紹介しているhttps://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2015/08/post-61f1.html。
ヤマグチ君が、2020年コロナが始まる頃につくった「ビッグイシュー」という曲はhttps://youtu.be/zirhgHyh6Hs。
[2]フジエダさんは、『分解者たち:見沼田んぼのほとりを生きる』の第一章にも登場している。建築の第一線で働いた技術と、実家と家庭菜園で培った技術を、退職後にボランティアとして福祉農園の活動に活かし、そして障害のある人や若者、近隣の農家や野宿状態にある人とのつながりをつくっていったフジエダさんとの交わりを「経験の循環(リサイクル)」という言葉でいいあらわすなかで、わたしは「分解者」という言葉を確実につかんでいった。
編集部からのお知らせ
猪瀬浩平さんの既刊本についてご紹介します。ぜひ連載と合わせて手にとってみてください。
『分解者たちーー見沼田んぼのほとりを生きる』(猪瀬浩平・著/森田友希・写真)
障害、健常、在日、おとな、こども、老いた人、蠢く生き物たち……
首都圏の底〈見沼田んぼ〉の農的営みから、どこにもありそうな街を分解し、
見落とされたモノたちと出会い直す。
ここではないどこか、いまではないいつかとつながる世界観(イメージ)を紡ぐ。
(生活書院ウェブサイトより)
●著者の猪瀬浩平さんより
『分解者たち』の第1章には兄の介助者としてヤマグチ君も登場する。彼の語りとして、兄の叫びに触発され、ヤマグチ君も叫び、それに応答して近くを歩いていた中学生グループも叫びはじめるという「路上のロックな瞬間」が描かれている。2015年といって、何の年なのか忘れられているかもしれないが、あの夏は安保法制反対デモが国会議事堂前で行われたときで、実はあの時から考えていることの応答が、「野生のしっそう」であったりする。そして、あの時自分がどこにいたのかといえば、国会前にもいたけれど、それよりも長く農園にいた。そこで歌っていたヤマグチ君たちのバンド名「ダンゴ虫」は(スポットライトがあたった国会議事堂前に対して)光のあたらたないところで、穴を掘っているイメージで命名された。それが、『分解者たち』という本のタイトルに至る、一つのきっかけであった。