野生のしっそう

第14回

路線図の攪乱 1

2022.06.03更新

兄の一人旅

 兄は重度の知的障害と自閉症があると言われる。長い文章ではなく、単語や二語文で語る。たとえば、「おうちかえろう」、「だいじょうぶ」、「きてちょうだい」といったように。文字は、自分の名前だけ書く。それは、高校入試のために母と猛特訓した成果でもある。多分、文字を読むということはしない。

 ときに兄は、一人で旅に出てしまうことがある。財布を持っていることはほとんどない。それでも、鉄道に乗って出かけてしまう。路線図を読むこともないと想像するが、それでも都内に暮らす祖父母の家や、家族で行った箱根のホテルまで出かけて行く。どういうルートで彼が移動しているのか、確かめることはできない。ある時兄はいなくなり、そしてある場所に現れる。目的地まで到着することや、何事もなかったようにうちに帰ってくることもあれば、途中で保護されてしまうこともある。財布を持っていない、そして時に大きな声を出したり、跳びはねたりする兄は、駅員や警察の保護の対象になる。縁もゆかりもないところでは、自ら保護されるようにふるまっていると、私には感じられることもある。

 なぜそこに行ったのか想像できる場所もあるが、想像できない場所もある。

 たとえば、父方祖父母の家によく行ったのは、兄が祖父の事が好きだったからだとわたしや家族は理解している。祖父は、兄のことを自分なりのやり方で受け入れていた。子どもがたくさんいれば、障害のある子がいる。他の子と分け隔ててはいけない。父が祖父に、兄に障害があることを告げたとき、祖父はそんなふうに返したそうだ。亡くなる数年前に、正月に家族であいさつに行ったとき、祖父は「良太は天真爛漫だ」と語っていた。そして、祖父が亡くなると、兄は祖父母の家に一人で行くことはなくなった。

 一方、兄はわたしや家族の想像のつかないところに出かけてしまうことがある。郡山に出かけて行ったことがあり、大磯に出かけって行ったことがある。郡山の時は彼が中学生の頃で、迎えに行った父と共に土産にクルミ柚餅子を持って帰って来た。大磯のときは、大学院生になっていたわたしが迎えに行った。それまでわたしは大磯に行くことなどなく、警察で兄を迎えたあとで夜の海を眺めた。夜の海に風がビュービュー吹いており、その風に吹かれながら兄は跳びはねた。わたしにとっては、その年に海に行った唯一の経験だ。

 そうやって、兄の旅は、彼自身の関係をなぞるとともに、そこに巻き込まれるわたしや家族、そして介助者たちを想わぬ世界と結びつける。

 兄がどのような経路で移動し、そこでどんな経験をしたのかは分からない。ある時は、家を出て行った時の上着と違う上着を着て帰って来たことがある。その上着は新品ではなく、そして兄が来ていたものよりも、少し古びていた。だから、母とわたしは兄が誰かの食事や宿の世話をうけて、その見返りに服を交換したのではないか、と想像した。尋ねても、兄は何も答えてくれない。スマホやGPSを持てば、位置情報を確かめられるのだろうが、そういうディバイスを、兄は持つのを好まず、もし持たされたとしてもどこかであっさりと投げ捨ててしまうだろう。

 兄の足取りを想像する手がかりは、彼が自分の好きな鉄道に乗って移動したという一点である。

規則と想像

 マルク・オジェは、パリのメトロと民族学者としての自分自身の経験をめぐって一冊の本を書いた。オジェは、メトロの規則性が詩的魅力を持つと書く。

メトロの規則性は明白で確立されたものだ。始発電車も最終電車も、日々のスケジュールにおいて不動の地位が与えられていることで、おそらくなんらかの詩的魅力を得ている。これらはタイムリミットが有する不可抗力という性格の象徴であり、時間の不可逆性と日々の連続の象徴である。空間用語で言えば、公共交通機関は同じように機能的な描写や、地理的というよりは幾何学的な描写に向いている。ある地点から別の地点に行くための最も効率的な経路は簡単に計算できる。(オジェ2022:60)

 メトロは決まった経路と、定められたダイヤに沿って走る。空間と時間はそれぞれ路線図と時刻表に秩序づけられる。それはパリのメトロに限らない。人びとは鉄道を利用しようすることで、空間的、時間的に管理される。どこからどこへ行くために、このルートをつかい、何時ごろまで行けるのかを把握する。そこから何時までに帰ってこられるのかがわかり、自分の予定のタイムリミットが決まる。誰かと食事してどんなに会話がもりあがっていても、終電の時間は気にかかる。そして、自分と相手のそれぞれの帰る場所によって終電の時間は違う。その制約を意識しながら、その人たちとの時間を過ごす。

 もちろん、メトロが生み出す空間的制約も時間的に制約も無視することはできる。終電逃して呑み明かし、そのまま出社することもできるし、あるいは一駅前におりて歩いて帰ることもできる。それでも、終電をあえて(あるいはうっかり)逃したこと、わざわざ一駅歩いたことに、路線図と時刻表による強制力の存在を示す。

 学校も、メトロ/鉄道と同じように、時間と空間を秩序づける。時間割があり、そして通学路があり、決まったスケジュールと、決まった経路で暮らすことがあらかじめ決められている。もちろんそのいずれにも従わない余地はある。
 
 小学3年生の秋、兄はわたしの前からいなくなった。

 祖父から、自転車を買ってもらったばかりの頃だ。母に、中学校から帰ってくる兄の様子を見に行ってほしいと頼まれたわたしは、白いマウンテンバイクに乗って兄の中学校に向った。中学校から下った先にある信号で待っていると、兄の同級生らしい女の子たちが「リョウタの弟? 似ているね」と声をかけてきた。真新しい自転車にのったわたしは、そうやって知らない人に声をかけられるのを恥じた。だから兄が来るのを遠目に見ようと、通学路から離れた場所に移動した。

 やがて兄はやってきた。それを遠目に確認し、また別のルートで兄と並走し、次の曲がり角で兄がやってくるのを待った。

 そうやって、遠回りしているうちに、わたしは兄を見失った。わたしは焦り、通学路を行ったりきたりしていた。一度家に帰って、兄が帰っていないのを確かめ、通学路の脇にある池におぼれていないか覗き込み、それぞれ違う路線の最寄り駅に兄はいないかと自転車を走らせた。しかし、兄を見つけることはできなかった。

 夜になる頃、都内に住んでいる父方祖母から、兄が家にやってきたと連絡があった。

 学生服を着ていた兄は、まだ夜も遅くない時間だったからだろう、特に不審がられることなく東京に向かう電車乗り継いで祖父の家にたどり着いた。鉄道の規則性は、そんなことを想像させる。

孤立なき孤独

 メトロ/鉄道は、人びとの様々な思い出を手繰り寄せる。いつもと同じ路線の電車に乗り、駅名のアナウンスを聞き、車窓に移る風景を見ながら、時に、そこで起きた個人的な出来事や社会的な事件を思い出すことがある。たとえばわたしは通勤途中、列車が川崎駅を通過すると、1970年代のこの駅で、脳性麻痺者の当事者運動団体である「青い芝の会」の人びとが、車椅子利用者の乗車を拒否するバス会社に抗議し、バスを占拠した事件を思い出すことがある。そのことを想うとき、いつもの通勤時間の胸は高鳴る。思い出すことは、そういう社会的な事件――もしかしたら、川崎駅でわたしと同じことを想う人が何人かはいるかもしれない――だけではなく、個人的な出来事もある。この駅で待ち合わせて会った人のこと、車窓から見えるビルで打ち合わせた内容、あそこにあった店の記憶。そしてそのように思い返すことは、車内にいるわたし以外の誰にも、それぞれの仕方で起きることである。

メトロの路線図をいくらか夢見がちに見ることで得られる個人的想起の第一の美徳は、私たちに友愛の感情に似た何かを抱かせてくれることではないだろうか。日常的にパリの交通機関を利用することで、他のひとたちの歴史と決して出会うことはないものの、たえずそれがかすっているということが本当だとしても(ついでに言うと、この表現はラッシュ・アワーでは明らかに婉曲的な言い回しだ)、私たちはその歴史が自分たちの歴史とそう違っているとは想像できないだろう(オジェ2020:24)

 それぞれが思い返した出来事は、他の人と共有されるものではなく、あくまで個人的なものだ。同じ場所で思い返すものは、わたしと隣の乗客とほとんど重なることはない。だから、そうやって思い返す行為は孤独であると、オジェは書く。しかしこの孤独は複数の孤独でもある。わたしと同じように、車内で隣り合わせる人びとが同じように孤独な生を生きていることを想うとき、孤独であるわたしと孤独である隣人との間に、かすかな連帯が生まれる。オジェはそれを「孤立なき孤独」という(オジェ2022:65) 。

 鉄道に乗って移動するとき、孤独な人びとの傍らで、兄は何を感じ、何を思い出しているのだろうか。路線図を読まない兄は、車窓の風景を読み取りながら目的地に向かったのかもしれない。そして祖父の家にいくときに求めていたのは、祖父の雰囲気であり、禿げた頭にのこったやわらかい白髪の手触りだったり、ソファーの感触や、そこで出してもらう三ツ矢サイダーが喉を打つ刺激だったのかもしれない。祖父の死によって、それらの事柄の多くがうしなわれていったときに、あの場所に兄を誘うものはなくなった。そうやって、兄は「祖父のいる場所に行こうとしなくなった」という形で、祖父の死を経験しているのかもしれない。

 父や親族によって祖父の臨終に立ち会うように期待されたわたしと、期待されなかった兄の祖父の死の経験は、そこまで想像することでかろうじてつながる。

 兄は孤独に鉄道を移動していることだけは確かだ。そして、その孤独は、わたしたち自身が抱える根源的な孤独と重なる。

正月の失踪

 ある年の正月のことだ。わたしと妻は正月の挨拶をしに、都内に住む母方祖母の家にいき、その後、新幹線と在来線を乗り継いで、福井に住む妻の父方祖母の家に行く予定を立てていた。その日は、兄も父母と一緒に母方祖母の家に挨拶に行く予定だった。

 しかし、その日、有楽町駅の沿線で火災が起き、鉄道のダイヤが大幅に乱れた。新幹線のダイヤも乱れることを心配したわたしと妻は、わたしの母方祖母の家にいくことはあきらめ、福井に向かうことにした。新幹線は遅れていたが、それでも何とか乗車することができ、わたしと妻は夜には福井についていた。

 福井に向かう途中でわたしの携帯に母から電話があった。電車が止まっているので駅の近くの本屋で時間をつぶしていたら、そこから兄がいなくなってしまったという。といって、わたしにやれることはないと思った。だから、引き返すこともなく、福井に向かった。そうやって、現地の親戚と会い、酒を呑ませてもらいながら話をした。翌日は、前日義理の祖母と話した予定で行動した。そして夜に別の親戚を訪ねて行ったところで、また母から電話があった。

 電話を受けると、母は兄が大阪の警察署で見つかったことを告げた。そして、わたしの方が、母よりも近い場所にいるので、兄を迎えに行ってほしいと言った。


参考文献
猪瀬浩平、2019『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』、生活書院
オジェ,マルク、2022『メトロの民族学者』藤岡俊博訳、水声社

猪瀬 浩平

猪瀬 浩平
(いのせ・こうへい)

1978年埼玉県生まれ。明治学院大学教養教育センター教員。1999年の開園以来、見沼田んぼ福祉農園の活動に巻き込まれ、様々な役割を背負いながら今に至る。著書に、『むらと原発ーー窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』(農山漁村文化協会)、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)、『ボランティアってなんだっけ?』(岩波書店)など。

写真:森田友希

編集部からのお知らせ

猪瀬浩平さんの既刊本についてご紹介します。ぜひ連載と合わせて手にとってみてください。

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『分解者たちーー見沼田んぼのほとりを生きる』(猪瀬浩平・著/森田友希・写真)

障害、健常、在日、おとな、こども、老いた人、蠢く生き物たち……
首都圏の底〈見沼田んぼ〉の農的営みから、どこにもありそうな街を分解し、
見落とされたモノたちと出会い直す。
ここではないどこか、いまではないいつかとつながる世界観(イメージ)を紡ぐ。
(生活書院ウェブサイトより)

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