野生のしっそう

第17回

父とやぎさん

2022.09.09更新

やぎさんの死

 日本の世間で、新型コロナウイルスが横浜港に停泊したクルーズ船の中の問題のようにとらえられていた2020年の2月10日、八木下浩一さんが亡くなった。

 八木下さんは、埼玉の障害者運動の先駆者のひとりであり、そしてわたしにとっては、故郷の大人のひとりだった。

 わたしが、やぎさんのことをはじめてなつかしく思い出したのは、二十歳の頃のことだ。わたしは何かを探してウズベキスタンのサマルカンドまで一人旅をしていた。その頃のわたしは、そこで何かを見つけることはできなかった。そんなときに泊まっていた宿で知り合ったパキスタンからきていた行商人に、「お前はこんなところまで旅をしているが、地元に何もないのか」といわれた。わたしは地元のことを振り返った。そうやって思い浮かんだ顔の中には、八木下さんがいた。彼ら、彼女らのことを、わたしはどれだけ知っているのだろうかと思った。そして帰国したら、彼らに会いに行ってみようと思った。思えば、その頃に見沼田んぼ福祉農園は開園していた。

 子どもの頃、家族の会話にやぎさんの名前はよく登場した。

 やぎさんときいて、最初はメーメーなく山羊の姿を想像していた。

 実際あってみると、やせた坊主頭の、眼鏡をかけた中年男性だった。それでも、母親や、ほかの大人たちもやぎさんと呼んでおり、わたしもいつしか八木下さんをやぎさんと呼ぶようになった。父だけは、やぎさんと呼ぶことはほとんどなく、やぎしたと呼んでいた。

 八木下さんの訃報を受けて、考えた。2月13日から2月15日まで、私は郡上八幡と関西に出張する予定だった。八木下さんのお通夜は2月14日で、郡上八幡をお昼過ぎに出ればギリギリ間に合う。告別式には出ずに、翌朝大阪に向かえばいい。わたしは、二つの旅を切り離すことにした。

 郡上八幡に旅立つ朝、「明日はやぎさんのお通夜にいくので、喪服をもっていかなければならない」という話を妻にしたら、3歳の娘が「あいちゃんはウサギとか、ウマがいるところに行きたいなあ」と返した。実際に彼女とやぎさんが会うことはなかったが、こうやって、やぎさんを山羊さんと思う心性は次の世代に継承されていくのだと思った。

やぎさんのいる食卓

 やぎさんは時々うちにやって来て、わたしの家族と晩飯を食べた。脳性麻痺で四肢に障害のあるやぎさんが、ストローでビールを飲んでいる姿を、少年時代のわたしは不思議そうに眺めた。

 父や母や兄はやぎさんと呑み語っていた。熱く議論することもあれば、共に笑うこともあった。言語障害のある、やぎさんの言葉は、わたしには聞き取りにくかった。その頃兄の高校受験が始まる頃で、3人は養護学校がどういう場所なのかについて話し合っていた。そのとき、わたしは社会科の副読本の中で地元の地図に養護学校が載っていたのを思い出した。そのことを父と母に語ったら、やぎさんが「そうなの?」とわたしに尋ねた。やぎさんから質問されるとは思っておらず、わたしは返事ができなかった。

 そして兄の高校受験が不合格になったことをめぐって、同じように不合格になった知的障害をもつ人やその家族と共に、運動が起きた。大人の障害者やその支援者も運動に合流していった。

 そのクライマックスともいえる瞬間は、1988年の5月、埼玉県庁知事室を数日にわたって占拠する事件だ[1]。わたしは、学校をやすんでそこに参加していた。不合格にされた子の親たちの涙まじりの語りがあり、大人の障害のある人たちの学校にいけなかったことへの悲痛な叫びがあり、そして交渉相手となっていた教育局の職員たちや、占拠した人々を排除しようとする管財課に対して発せられる怒号があった。そしてその合間に、笑いがあり、よもやま話があった。最後の夜にようやくやってきた教育長に対して、父や母、他の家族、大人の障害者たちが語りかけた。埼玉の障害者当事者運動の代表的な闘士であるやぎさんは、言語障害のある人の話を聞き流そうとする教育長に詰め寄り、「おれの話を真剣に受け止めて下さい。こういう事態がなぜ起こったかわかりますか。障害者の言葉を聞かないわけだよ。聞かなくてもいいというばかりに、差別ということをやったわけだよ」と叫んだ。

 そうやって激高する大人たちのかたわらで、わたしは不安と呑気を抱えながらの数日間を過ごした。

 思春期になると、わたしは障害者運動にかかわらなくなった。兄と両親は、県立高校の定時制を目指して運動をつづけつつ、兄や仲間の働く場所をつくるために奔走していた。しかし、わたしは自分のことだけを考えていた。それでも、中学校には6歳上の兄を知る先生たちもいたし、同級生の多くは兄の存在を知っていた。

 高校生になると、同級生には兄の存在を知る人はいなくなり、わたしと埼玉の障害者運動との距離はますます離れた。

故郷からの客人たち

 大阪の大学に入り、二十歳になるころから、地元埼玉の障害者運動にまたかかわるようになった。ウズベキスタンから中国に至る旅から帰ったころのことだ。

 当時、社団法人埼玉障害者自立生活協会では、全国交流事業というのをやっていて、埼玉の障害者たちが、わたしの暮らしている大阪にもやってきて、障害者解放に取り組む団体と交流した。大阪からわたしは合流し、子どもの頃に出会っていた人びとと再会した。当時からよく知っている人も、初めて会う人もいたが、どちらにしろ故郷からやってきたなつかしい人のように感じた。大人になって彼らと行動を共にし、酒を呑んで語るうちに、傍で眺めているだけだった人たちがぐっと身近になっていった。彼らも、小さい子どもだったわたしが大きくなったのに驚き、そしてかわいがってくれた。

 彼らと共に大阪の障害者運動の方々と交流した際、やぎさんが全国的にみるとずいぶん偉大だったのだということに気が付いた。立岩真也さんが書いた障害者運動の歴史を読みながら、全障連(全国障害者解放運動連絡会議)の創設メンバーとしてのやぎさんや、障害者問題の総合雑誌『そよ風のように街に出よう』の編集長だった河野秀忠さんの悪友としてのやぎさんを知った[2]。一方、埼玉に帰ってやぎさんの話をしていると、やぎさんが万感をこめてたたかったであろう、20代後半での小学校への就学闘争は、やぎさんの宿敵であるうちの父や、やぎさんの弟分・子分たちも、「大人になってから、小学校に入るなんて、どっか狂っているよな」とか、「自分のクラスの友達と遊んでいたら、突然やぎさんが現れて困った」とか、どこか冷ややかに、しかしどこかあたたかくつっこみつつ語られていた[3]。「あいつの障害は、性格の悪さだけだよ」と父はよく語っていた。

 大人になったわたしはやぎさんとも酒を呑んで語るようになり、やぎさんは「こんなにちいさかったんだよなあ」といいながら、わたしが成長したのを喜んでくれた。

ふたりの闘争(ふれあい)

 「親が一番の差別者だ」と叫ぶやぎさんは、実は誰よりも自分の母親に頭の上がらないマザコンだった。一方、学生運動を経験した父は、障害者運動の関係者からは「あの人は、親が活動家になったのでなく、活動家が親になったのだ」と評されており、だからよくぶつかった。

 団地の二階のうちの家で、ビールを飲んでよっぱらったやぎさんが、タクシーに乗って帰るというので、父にいわれて腕を支えながらタクシーに乗るまで見送ったのは、わたしが中学生になった頃だろうか。団地には2階に止まるエレベーターはなく、当時まだ歩いていたやぎさんと手すりのない階段をゆっくり下った。

 その頃の父は運動の方針をめぐって、やぎさんに対して何度もいかっており――兄の高校入試は6年間続いていた――、やぎさんの家に電話をかけ、その弟分・子分の人たちに電話をかけ、怒鳴りながら長時間話していたのをよく覚えている。その頃はわたしが障害者運動にかかわっていない頃で、ああまたやっているのだなあと思いながら自分と兄の部屋に戻った。といっても、狭い家なので父の声は筒抜けだったのだが。

 うちに呼んで一緒に酒も飲むのに、電話越しで怒鳴り散らす、二人の関係が当時はよくわからなかった。

 言語障害のある人の言葉は聞き取れないことがあるけど、やぎしたの言葉だけはどんな言葉も聞き取れるんだよなあ、と父は語っていた。

 わたしが大学院に進学した2001年の学校教育法施行令改正問題[4] のときには、やぎさんと父は二人で仲良く永田町の議員会館にでかけていって、文部科学省との交渉にも参加していた。やぎさんが口火を切って文部官僚に詰め寄り、父が適当なところでやぎさんを制止し、データを出しながら追い詰める。二人の息がぴたりとあっていた瞬間だった。交渉の後、議員会館の食堂で、寿司とビールを飲んでいた。父はやぎさんの食事介助をし、車椅子を押してやぎさんの家まで帰った。

兄の弔辞

 郡上八幡から帰るバスを間違えて、やぎさんのお通夜には遅れて参加した。多くの人はもう帰っていたが、父はまだ残っていて、昔の付き合いの人と一杯やろうということになった。思い出話を語っているうちに、わたしは関西への出張をとりやめて、翌日の告別式には参列すべきだと思い始めた。

 翌日の告別式には、兄も参列した。兄は、わたしよりもはるかにやぎさんと縁が深く、やぎさんの坊主頭を触るのが好きだった。県との交渉で役人に詰め寄って怒号を発し終わって席に着いたやぎさんの坊主頭を、兄はその感触を楽しみながら撫でていた。やぎさんも、兄が撫でるのに任せていた。わたしにとって、兄に頭をなでられているその姿が「やぎさん」という呼び名をもっとも象徴する。さらにいえば、わたしにとっての故郷というものの姿をもっとも象徴する。血縁関係のある兄が、血縁関係のないやぎさんとなごやかにまじわる。そのむこう側に、県庁の人たちがいて、こちら側と向こう側とで血の通った言葉を交わそうとせめぎ合っている。

 葬儀が終わり、やぎさんをのせた霊きゅう車が葬儀場を去るとき、兄はエーーっと叫んだ。甲子園の試合の終わった後のサイレンのように。兄なりの別れの挨拶だと、周りにいた人たちはみな理解していた。

 2017年に雑誌『現代思想』でやぎさんのインタビューが企画されたときに、自分がインタビューをすることはあまり考えなかった。わたしの研究仲間がその役をになって、そしてやぎさんの重要な言葉を引き出しているのだが、あの時、自分もついていくべきだったと、今悔やんでいる[5]。やぎさんとしんみり話す間もないまま、やがて故郷のなつかしい人は亡くなっていった。

 やぎさんの死の翌年のお盆の頃、父がわたしの家に晩飯を食べに来た。

 その年、兄が毎年参加していた夏の旅行が中止になった。旅行を主催してきた越谷・春日部で活動する障害者団体「わらじの会」の人たちから父へ、兄を旅行に送り出してきた立場で想い出を語ってほしいとの連絡あった。だからわたしは父にスマホをむけて、思い出を尋ねた。父は、「いつも楽しそうに見送っていました。本人は電車移動が多くてたのしかったようですね」と返した。私は続けて「今年旅行がなくなったことについて一言」と尋ねた。すると父は、「いい加減な死に方したねえ。そう思っているよ」と寂しそうに語った。

 旅行の中止を語っていたはずの父は、いつのまにか一年前のやぎさんの死について語っていた。

 その日の昼間、父は病院に緊急搬送をされた。コロナ第5波の頃のことだ。


注釈

[1] 詳細については、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』の第二部を参照。

[2] 詳細は、安積・立岩・岡原・尾中[2017]および、河野[2007]を参照。本書の記述によれば、全障連は、障害者の施設に頼らない生活保障運動や、青い芝の会の運動など、全国各地にあった、交通・教育・労働等をめぐる闘争が個別の闘争として持つ限界を超え出て、運動を連接し、連携させて、強力なものにしようとする意図のもと結成された[同書2017:280-281]。代表は、『母よ!殺すな』の著者であり、青い芝の会の運動の中心であった横塚晃一である。

[3] 八木下さんは障害を理由に「就学免除」された。10歳の頃本人は、学校に通いたいといったが、地元の医者や校長に「まだ早い」と言われて、かなわなかった。教育委員会や校長との交渉によって、1970年、28歳で地元の芝小学校の6年生に入る。最初は「聴講生」扱いで、学籍はなかった。翌年学籍を取るが、1年生からやりたいという希望はかなえられず6年生のクラスだった。次の年度に学校が折れて、3年生のクラスになった八木下さんの闘いは全国的にも注目され、そして彼は障害のある子どもの就学運動のリーダーの一人となり、1979年の養護学校義務化阻止運動の先頭に立った。

[4] 文部科学省が検討していた学校教育法施行令と施行規則の改正が、「特例」として障害のある子どもの通常学級就学をみとめつつ、その「特例」すら認められない重度の子どもの養護学校への振り分けを市町村に義務付けるものであることを問題視し、障害児を普通学級へ全国連絡会とともに、埼玉障害者市民ネットワークなどが文部科学省への交渉を行った。

[5] 八木下浩一(聞き手 齋藤雅哉)「地域にもぐりこむ」『現代思想』45(8)54-64


参考文献

安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也2012『生の技法 第3版:家と施設を出て暮らす障害者の社会学』生活書院

河野秀忠2007『障害者市民ものがたり:もう一つの現代史』日本放送出版協会

猪瀬 浩平

猪瀬 浩平
(いのせ・こうへい)

1978年埼玉県生まれ。明治学院大学教養教育センター教員。1999年の開園以来、見沼田んぼ福祉農園の活動に巻き込まれ、様々な役割を背負いながら今に至る。著書に、『むらと原発ーー窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』(農山漁村文化協会)、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)、『ボランティアってなんだっけ?』(岩波書店)など。

写真:森田友希

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