第18回
眠る父
2022.10.04更新
夏休みの緊急事態
2021年、小学生になって初めての夏休み、長女はわかば塾に通っていた。わかば塾は、塾という言葉でイメージされるものとは程遠い。玄関前の砂利道には、通ってくる子どもたちの自転車だけでなく、カメたちの暮らす水槽がいくつも置かれている。塾は、主宰者でもあるフジモトさんが妻のみのさんと一緒に暮らす家である。蔦のからまった家のドアは、だいたい開けっ放しになっている。玄関には子供たちのサンダルが並ぶ。みのさんとフジモトさんの私室、キッチンとダイニングを脇にみながら、本が並べられた階段を上っていくと、教室になる部屋がある。机と椅子のある部屋と、ちゃぶ台の部屋がある。教材だけでなく、漫画やパズル、将棋、古いパソコン、カメの骨格標本があちこちに置かれている。クーラーはなく、窓が開け放たれ、オレンジ色の業務用大型扇風機がまわっている。塾に通う子どもたちはパズルをしたり、漫画を読んだり、勉強したりする。猫たちはこの家の内と外を自由に行き来しており、そして気づけば子どもが生まれていく。しかし、塾の関係者によってすぐにもらわれるので、今のところ多頭飼育になることはない[1]。
長女は、塾に通ううちにパソコンのキーボードの打ち方を覚え、作文を書くようになった。それはつまり、ローマ字を覚えたことでもある。フジモトさんは「学校ではローマ字を覚えてからパソコンの打ち方を教えるけれど、順番が逆なんだよね。まず文章を書きたい欲求があれば、自ずとローマ字も覚えてしまう」と、わたしに説明してくれた。
長女はそうやってパソコンやパズルで遊び、塾の前の公園でカメを散歩させたりした。時には、4才の次女も一緒に参加した。次女は、わかば塾の混沌とした空間を愛した。
父のケアマネージャー(以下、ケアマネ)から緊急の電話があったのは、わかば塾に長女と次女、末っ子の長男の3人を連れて行った日のことだ。
朝にやってきたヘルパーがわたしの実家に入ると、ひどく大きないびきをかきながら、父が眠りについていた。ヘルパーは名前をなんども呼び、体を揺さぶったが、父は起きなかった。ヘルパーから連絡を受けたケアマネも現地にかけつけてくれた。意識が戻らないことを心配したケアマネがわたしに電話をし、救急車を呼んでもいいかと尋ねた。電話越しのケアマネの声の後ろで、父に呼びかけるヘルパーの声が聞こえた。
東京オリンピックが数日前に閉会した頃のことだ。
当時は、デルタ株を中心とする新型コロナウイルスの第五波によって、医療のひっ迫がメディアで盛んに叫ばれていた――そして一年後にはすっかり忘れられたが、4回目の緊急事態宣言が発令されていた時期でもある。起き上がらないが息はしていることを聞き、わたしは父のいびきが昔からひどく大きいことを説明した。わたしは救急車を呼ぶのをためらった。それでも、万一のことがあるからというケアマネに背中を押されて、救急車を呼ぶことをお願いした。
幸い、救急隊には連絡がつながったそうだ。救急隊から言づけられたケアマネに、わたしは病院への付き添いの可否を聞かれた。妻は仕事にいっていた。フジモトさんは、本当は午前中で帰るはずだった上の二人を、夕方まで預かってくれるといった。末っ子だけを連れていっていいかを救急隊に確認してもらい、わたしは車を走らせた。
パジャマの二人、看護師の微笑み
父が運ばれた病院は、コロナウイルスの重症患者を受け入れる病院だった。父の持病のかかりつけの先生がいる病院でもあったので、搬送先に選ばれた。病院へつくと、受付で緊急搬送された父の居場所を聞いた。息子を連れて、父が運び込まれた病棟までいき、受付で指示された入り口から中に入った。そこにいたスタッフから、父の状況を聞いた。PCR検査をふくむ種々の検査を受けたが、深刻な問題はなく、すぐに退院できるだろうといわれた。
わたしたちは待合室に案内された。待合室は無人だった。振り返ると本来の入り口があり、内側に向けて「感染危険区域 進入禁止」と書かれていた。
待合室の向こう側には緊迫した様子の医師や、看護師たちがやってきた。その姿をみて、この病棟の奥で行われている事柄を想像した。まさに緊急事態宣言を象徴する場に、二人とも短パンとTシャツを着た、中年と2歳の子どもがいる。
やがてわたしは、息子がウンチをしているのに気づいた。わたしは彼をトイレまで連れていった。緊急事態に翻弄されるなかで、替えるタイミングを失っていたオムツは決壊し、ズボンを汚していた。着替え用に持ってきたズボンを、急いではかせた。
しばらくして、彼がはいているのはパジャマなのに気づいた。着替え用のズボンを、わたしが間違って持ってきていたのだ。
パジャマをはいた息子は、待合室を我が物顔で歩きはじめた。わたしは鞄に入れていた武田麟太郎の『蔓延する東京――都市底辺作品集』(共和国)を読みながら、時に病棟の奥に入らないように声をかけた。
やがて、奥から女性の看護師が現れた。彼女は息子の姿を認めた。すると、緊張していた彼女の身体がゆるんだ。彼女は微笑み、そしてワーッと彼に手を振った。でもそれはほんのひとときのことで、彼女は「こんなことをしている場合じゃないんだ」と呟き、意を決したように身をかたくしながら、私たちの前から去って行った。
コロナ禍の「最前線」で働く医療従事者に対する感謝は、様々な形で語られていた。しかし、感謝の言葉を語る世間は、自らを「銃後」の安全な場所において、「最前線」とは一線を引いた。感謝をしながら、コロナウイルスと身近にある場所からは、できる限り距離を置こうとした[2]。
そんななかで、わたしと長男は、眠る父に導かれて、呑気な身なりで「最前線」の傍らにやってきた。そこは、とても静かな場所だった。そして、束の間、医療従事者と2歳児が、触れ合わない距離でふれあった。
それこそが、大きな声で叫ばれた「緊急事態」にかき消されることなく、絶対に記憶すべきことのようにわたしは思えた。
やがて父は、看護師に付き添われて待合室にやってきた。夜用の薬を、朝方に飲んでしまったのが、深い眠りについてしまった原因だった。
パジャマ姿の父と息子を車にのせて、わたしは実家に帰った。父が着替えている間、息子は近くの公園で遊んだ。そして、父をわたしの家までつれて帰り、家族で晩御飯を食べた。
父がヤギさんの死を「情けない死に方」とさみしそうに語ったのは、その時のことだ。
蔓延する東京
『蔓延する東京』の解説で、この本の編集者であり版元でもある下平尾直は、刊行の目的を次のように書いている。
武田麟太郎にとって「風俗」とは、「大衆化」や「通俗化」という言葉で連想されるそれではない。かれがしばしば「風俗小説」と見なされる都市の底辺を描き続けたのは、そこに生きる人びとが「暗黒」や「下層」に分類することで、社会を構成する階級や公序良俗に取り込み、同調させるためではなかった。それは勤勉、清潔、従順、合理性、生産性をはじめとする排他的で常識的な価値観やシステム、イデオロギーへの反逆であり、それらから逸脱してしか生きていけない人間のありのままの姿であり、「反風俗」なのである。(武田2020:360)
この部分を読み、付箋をはりながら、父によって巻き込まれたこの一日は、新型コロナウイルスが蔓延する東京の周辺の都市における、ひとつの風俗であることを想った。
身体がだんだんと動かなくなるなかで生活リズムが崩れ、昼夜が逆転した父は、朝方近くまでパソコンの前に座り、そして本来夜に飲むべき薬を、朝方に飲んだ。ヘルパーがやってきて、彼が起き上がらないこと、呼びかけても返事がしないことを不安に思い、ケアマネに電話した。ケアマネがわたしに確認をとり、父は救急車で運ばれ、ひっ迫する病院の中で検査を受けて、何事もないと診断された。それはまた、感染拡大を防ぐことや、医療ひっ迫に拍車をかけないことを絶対視する風潮のなかで、共感されがたいものだろう。
でも、ではどうすればいいのだろうか? わたしは父と同居し、彼を付きっ切りで介護することなどできない。彼もまた、うるさく口出しするわたしが、ずっと付き添うのは望まないだろう。そして、日々誰かに見守られる場所よりも、住み慣れた場所で自由に暮らすことを望んでいる。
蔓延する東京が、戦後、埼玉県を呑み込んでいく。父はその流れのなかで、母と兄ともに東京から埼玉に移り住み、そのうちに、わたしの実家となる団地に住み始めた。やがてわたしが生まれた。蔓延する東京が、呑みつくすことのできなかった、見沼田んぼの保全運動にかかわりはじめ、やがて家族や仲間たちと、そこに福祉農園をつくる構想が生まれた。要望書を作り、提出する先に、やがて福祉農園は生まれた。彼はその代表になり、様々な意思決定をしていった。農福連携という言葉がなかったころに、その原型のような場所が生まれた。
2021年の8月の早朝、団地の一室で父は深い眠りについた。彼の眠りの意味を説明する人は、周りに誰もおらず、万一のことを心配したヘルパーやケアマネが、少し離れた場所に暮らす次男に電話をかけた。
彼の孤独について、詳述はしない。ただ言えるのは、同じように孤独な眠りにつく人が、蔓延する東京の周辺に数限りなくいることだ。
東京に蔓延するのは、コロナだけではない[3]。
衰えるもの、持続するもの
父は、年々、衰えていった難病を患い、2017年には初めてのリハビリ入院をした。やがて、周りから心配されても続けていた車の運転も、自分でやめた。それは、一人では農園に来られなくなることでもある。
全共闘世代のエートスを体現するような父は、「一点突破の全面展開」を信条にしており、独断専行を恐れなかった。だから、時に批判を浴びたが、それをものともしなかった。埼玉県の事業としてはじまった見沼田んぼ福祉農園は、福祉政策にも、農業政策にも明確な位置づけはなく、高らかな目標とは別に行政的な基盤は脆弱だった。開園当初の農園を整備することも、参加する障害者団体間の調整をすることも、基本的にはボランティアにゆだねられた。それを乗り切ったのは、日々農園で働く障害のある人々や支えてくれるボランティア、そして近隣農家の理解とともに、父のリーダーシップによるところが大きい。
わたし自身は大学生の頃にその活動に巻き込まれ、そしてどっぷりとつかった。わたしやその同世代の仲間たちは、農園をつかって様々な誤った判断をした。たとえば、毎月一回の農業体験イベントに力を入れるあまり、そもそも日常の農作業をおろそかにしてしまったり、あるいは日常的に農園で活動する子どもたちを、あまりに年少の子たちにも開放してしまったため、その世話に追われて、作業が追い付かなくなるどころか、そもそも彼らの安全性の確保ができなくなってしまったり。そんなわたしたちのことを、父は、イベント型、消費型といって厳しく批判し、別の活動の方向を示した。やがて、わたしたちは農業にしっかりと向き合うようになり、同世代の農家出身の若者たちと出会い、そして全国各地の農村の人々とも出会うようになった。それが、確実にわたしの世界を広げた。
そんな父の衰えを感じたのは、わたしが大学に就職して1、2年経つ頃のことだ。父の判断したことが、どれだけ議論してもわたしには納得できないこと、理解できないことが出てくるようになった。東日本大震災と原発事故が起きると、父は深く心を痛め、そして混乱した。それはたとえば、放射能汚染された場所で、農業を続けることについて整理ができなかったということだったと、今振り返って思う。やがて、難病が発症し、体が思うように動かなくなった。それでも農園に通い続けていたが、できる仕事は減っていった。
冬になると、父は梅の木の剪定を気に掛ける。それはその作業が、立ったままの姿勢でできる作業でもあるからなのだと、今、わたしは思っている。
農園に来る回数は減りながら、それでも父は農園を気にかけ、やれることをやってきた。父が前のように通えなくなる中で、兄はこれまで同様に平日は毎日農園に通い、作業をし続けている。東日本大震災と原発事故が起きた後も、新型コロナウイルスが世界を騒がせる中でも、兄は毎日農園にかよっている。
注釈
[1]わかば塾については、『ちゃぶ台6』に掲載された拙稿「さびしい社会、にぎやかな世界」も参照(猪瀬2020)。ここでは、子どもたちとわかば塾に顔を出すようになった、2020年4月の、最初の緊急事態宣言の頃のことを書いている。
[2]2020年に久保明教さんと交わした往復書簡では、「最前線の人々へ感謝」という言葉に対する違和感について、最前線を設定することで、自分を安全な場所に置こうとしている意識が働いているのではないかと書いた(猪瀬・久保2020:159)。村瀬孝生さんも『シンクロと自由』で、新型コロナウイルスによってひっ迫する医療や介護の現場に向けて発せられる感謝のメッセージが、そこに巻き込まれたくないという意識の表れではないか、と指摘している(村瀬2022:139)。
[3]コロナ禍の中で、障害のある家族を持つ人の暮らしを書いた本として、児玉真美さんが編集した『コロナ禍で障害のある子をもつ親たちが体験していること』(生活書院)がある。文章を寄せた親たちは、「こんな時だから仕方がない」という言葉で諦めされることが、障害のある人や家族のほうが、障害のない人よりも圧倒的に多かったことを指摘している。それは、コロナ以前にあった矛盾や分断を、コロナが拍車をかけたということでもある(児玉2022)。わたしはこの本の末尾に、「見捨てられた体験を未来に差し出す」という解説を寄稿している。
参考文献
猪瀬浩平2020「さびしい社会、にぎやかな世界」『ちゃぶ台』6:115-126
猪瀬浩平・久保明教2020「忘却することの痕跡――コロナ時代を記述する人類学」『現代思想』48(10):152-171
児玉真美(編著)2022『コロナ禍で障害のある子をもつ親たちが体験していること』生活書院
武田麟太郎2020『蔓延する東京――都市底辺作品集』共和国