第19回
転倒の先
2022.11.09更新
現代の古民家
新型コロナウイルス感染症が広がるなかで、父の持病が悪化し、転倒することが増えるようになった。出先で転び、団地のゴミ捨て場や駐車場で転び、家の中でも転ぶ。次第に、車の運転もできなくなった。
団地の隣人から、ごみ捨ての際にたびたび転倒する父を心配しているという連絡を受け、実家にかけつけたのは2021年1月下旬のことだ。長女と次女は保育園に行っていた。妻に用事があったので、保育園にまだ入っていなかった長男を自転車に乗せた。
団地に着いて、駐輪場に自転車を停めた。チャイルドシートから、長男を下ろした。
団地のてっぺんを見上げた。そして、ここで積み上げられた様々な事柄の途方もなさを思った。およそ300世帯の人びとが、半世紀近くにわたって、入れ替わりもありながら、この場所に住んできたのだ。あちらこちらに友人や知人のかつての家があり、現在の実家があった。
この団地に、わたしは生まれてから18歳まで暮らしていた。わたしが生まれたとき、家には、父と母、兄、そして居候の大学生が暮らしていた。兄だけでなく、わたしの面倒をよくみてくれたその大学生は、やがてアパートに移った。彼が引っ越してからしばらくして、妹が生まれ、家族が一人増えた。わたしが中学生になる頃には、隣町でもらった猫が住み始めた。そして大学生になる頃に、わたしはこの家を出た。
久しぶりに団地の通路を歩くと、様々なことが思い返された。
小学生の頃、近所にあった駄菓子屋で買った匂い玉を、通路の排水溝に落としてしまったこと。中学からの帰り、家まで向かう途中の様々な気持ち。上層階に暮らしていた友人が、遠くの街に引っ越すのでお別れに行くことになり、なるべく時間をかけて彼の家まで行くため、エレベーターを使わず、階段を使って行ったこと。団地の上階で飼われていて、エレベーターを使って団地内を出入りしていた雑種犬。なぜかいつも小便くさかったエレベーターの匂い・・・。
実家に着き、ドアを開けた。すると、長男はなにごとかを感じ、おののいて泣いた。家族の数が減った家は、昔よりもほの暗く、そしてどこか懐かしいような、しかし今まで感じたことのないような匂いがした。長男を抱き上げながら、小学校に上がる前の自分が、母方の曾祖母の家に行った時のことを思い出した。猫のいる縁側から家の奥を覗いた時、わたしが抱いた感情と、長男がそのとき感じたものがどこかで重なっているような気がした。団地の古びた一室は、もはや「古民家」と呼ぶべきものなのだろう、と思った。
父と話をし、隣の家へ出かけた。呼び鈴を鳴らし、父よりも少し年上の隣人に挨拶すると、団地住民のボランティアグループが、ゴミ捨てが難しくなった人のゴミ出しを代行しているのを教えてくれた。詳しいことは管理人に聞くといいと言われ、管理人室に向かった。管理人は、ボランティアグループの代表に電話をかけてくれた。代表は、すぐ降りてきた。父と同年配のその人は、管理人に告げられた部屋番号と名前を聞き、以前父に世話になったことを思い出したと言う。そして、今はコロナでボランティアグループの活動は活発にやれていないのだけど、何か手助けしたい、と語った。父の状況を伝え、ゴミ出しの相談をして、わたしはまた父の家に戻った。
父も、その隣人も、たぶんボランティアグループの代表も、この団地に移住してきた第一世代の人たちだ。入居したての彼ら第一世代が、夏祭りや餅つきなどの様々な行事をつくり、集会所をつかって様々な活動をしていた。夏祭りのため、鉄パイプとコンパネで櫓が建てられると、わたしの心は浮き立った。数日前から毎晩盆踊りの練習が行われ、わたしたちは白熱電灯の提灯に照らされた夜の公園を走り回り、駄菓子屋で買った花火をした。当時は、葬式も団地の集会所で行われた。わたしのこともかわいがってくれた、幼馴染のおじいさんの通夜と葬式も、そこで行われた。
そんなことを思い出しながら、曽祖母の葬儀が、曾祖母の自宅で行われたことを思った。彼女が亡くなった後、曽祖父が戦前に建てた家は取り壊されて、マンションに変わった。60年が経つと建て替えもしなければいけないという、団地の管理人の話を思った。
この団地が取り壊されたときに、そこはどんなふうに変わるのだろうか。そのとき、長男は、わたしが曾祖母の家のことを想うように、この団地で暮らす父の部屋のことを想い出すのだろうか。
俺の家の話
ボランティアグループの代表から、わたしの携帯に電話をもらったのは、その日の夕方のことだ。代表は、ゴミ捨てだけでなく、暮らし全般に介護が必要なのではないかと心配し、であれば包括支援センターに電話したらいいのではと助言してくれた。父の意思を確認してから、包括支援センターに電話をした。すると、ケアマネはすぐに父に会いに行ってくれるとこたえてくれた。
初めてケアマネがやってきた日、ケアマネは父の体の状態をみて、ヘルパーを入れるべきと考え、介護認定を受けることをすすめた。父もそれを望み、わたしの日程と調整して介護認定を受けることになった。
ちょうどその頃、テレビでは宮藤官九郎の脚本による『俺の家の話』が放映されていた。能楽の家元一家の当主を西田敏行が演じ、その介護に奔走する長男を長瀬智也が演じていた。宮藤官九郎の作品を、わたしはよく見てきた。『俺の家の話』は、ほかの作品のようなアップテンポなテーマソングもなく、ハイテンションな展開もなかったが、しかしなぜか心惹かれるものがあって毎週楽しみにしていた。
介護判定の当日も、長男を連れて行った。ケアマネに挨拶し、介護判定員を紹介された。
この介護判定員が本当にすごい人だった。持病の特性で、ペンギンのように、足が小刻みに動いて早歩きのようになってしまう父の姿をみて、「この人はこんなに早く歩ける人なんですね」と言った。ケアマネは、それが父の持病特有の症状であることを説明してくれた。その後も、医療的な知識も心もないような言動が続いた。彼女が、体の動かない父がやむを得ずやっている行動を「それはわがまま行動ですね」と断じ、判定をする紙に何事かを書いた瞬間、ついにわたしは、「あなたの言動の一つ一つが父の尊厳を傷つけている」と抗議した。1歳児の登場で和やかにはじまった判定に、緊張が走った。判定員は、わたしに謝罪した。
判定が終わった後、父はわたしに「なんであんなに怒ったのだ」と聞いた。わたしは、「あまりにゆるされないことが多かったから」と答えた。すると父は、「そうだったかな」と返した。
身体が動いたころの父は、時間と場所に関係なく、時に怒りをあらわにする人だった。
わたしが学生で、原付バイクに乗っていた頃、交通事故にあったことがある。ウィンカーを出さずに左折したワンボックスカーに巻き込まれたのだが、警察署での取り調べの際には、警察官からは「運転手が悪いけれど、危険予測ができなかった、あなたの過失が少しはあったことを認めてください」と、言われた。わたしは同意を拒んだ。すると警察官は、「それを認めてくれないと帰れませんよ」と冷たく言った。
その時のことだ。突然、部屋のドアがあき、部屋の前でわたしを待っていたはずの父が入ってきた。そして、事故に巻き込まれた息子が、なぜ過失があるといわなければいけないのだと、怒気交じりに抗議をした。その剣幕に警察官二人は狼狽し、その後、父も交えたやり取りが続いた。取り調べが終わって帰る時、それまで年下のわたしに対して、小馬鹿にしたような
介護判定が終わって、父と会話をしながら、そうやって理不尽なことに怒るのが、もう父ではなく、わたしになっていることを思った。
判定は終わり、父の必要なものの買い出しにでかけたり、関係するところに電話を掛けたりしているうちに、お昼を食べ忘れていた。おなかをすかせた息子をつれて、近くのラーメン屋に行った。二人でいっぱいのつけ麺を食べているうちに、わたしは『俺の家の話』で長瀬智也が演じる、プロレスラーでもある能楽一家の長男に自分を重ねていることに気付いた。
かつてのトレンディードラマで、信州の地方都市に暮らす、孤独な美少年を演じていた長瀬智也は、もう立派な中年になっていた。劇中、介護認定を受けた父親の介護をしており、未来も必ずしも明るくない。でも、傍らで今を生きる子どもたちがおり、自分を慕う後輩がおり、いびつな形でつながった家族がいて、古くあるものと、新しくうまれたものが交錯していた。
やがて、父のヘルパーの入る生活が始まった。
老人と農園
久しぶりに父と農園に行ったのは、その翌月、2020年の2月下旬のことだ。
団地に着いて、父の暮らす家に向かった。この日は、長男だけでなく、長女と次女4人も連れて行った。わたしと子どもたちが家に入っていくと、父はすでに農園の用意をしており、農園にいくのを楽しみにしていた様子だった。しかし、薬やいろいろと足りないものを探したりして、結局出発まで20分近くかかった。
農園に着き、作業を始めると、やがてわたしの人類学関係の友人や、世話になっている編集者たちがやってきて、作業に加わった。ジャガイモを植える予定の圃場に、馬糞堆肥を投入し、大根を抜いた後の圃場に、馬糞と焚火が終わった後の灰を投入した。傍らで、農園で活動する埼玉朝鮮学校の人たちも作業をしていた。
昼ご飯は、各自が用意したものを食べた。埼玉朝鮮学校の人たちが即席ナムルをつくっており、それをお裾分けしてくれた。人類学者の友人は、持参したキャンプ用のガスバーナーでお湯を沸かしてソーセージをゆで、さらにカップラーメンをつくった。長男は、彼のソーセージに興味津々のまなざしで見つめ、友人はそれを彼にわけ与えた。そして長男は、ラーメンも食べさせてもらった(その姿を見た子どもたちを中心にして、その後、農園でカップラーメンブームが起きた)。父は、わたしの妻が作ったお弁当を食べた。
昼ご飯の前に、見沼田んぼの周辺で暮らす、父よりも年長のライターの人がやってきた。大衆食堂の詩人と呼ばれるその人は、人類学者の友人が出した家庭料理の本に自著が言及されていたこともあって、彼の研究に興味をもっており、また編集者とも旧知の仲だった。わたしが二人の来訪を告げると、二つ返事でやってきてくれた。やがて詩人と人類学者の二人はぼそぼそと会話をし、詩人は帰り際ゴボウを植えてくれた。
その傍らで、父はかまどの焚火に薪をくべ、子どもが危険な火の扱いをしないか見守っていた。やがて、杖をつきながら写真を持って農園の様子を撮影し、そして長女にカメラの撮り方を教えていた。そして父は、何度か芝生広場で転倒した。
2002年に、農園を拠点に活動する学生中心のボランティア団体をつくった時、その主な活動は農園にやってくる子どもたちを組織した「のうぎょう少年団」の運営だった。数年ののち、その活動は終わって、わたしたちは農業に関心を持つ同世代の人たちとのつながりづくりに移行していくのだが、さらに時が経ち、自分たちが子どもを持つようになると、気づけばイベントをしなくても、子どもたちが集まるようになっていた。
この日、父や詩人の姿を見ながら、子どもたち対象にやってきたことを、老人対象でやっていいのではないかと思った。アクティブに活動するわけではない。下手すると何もしないし、バランスを崩して転んだりもする。しかし、芝生なので固い地面に比べれば安全ではある。そんな働かない老人が農園にいるというのは、福祉農園の意味を深めることのように思った。
思うように体が動く頃の父は、農園ボランティアの人たちは年取って動けなくなると、去り際綺麗に去っていくと、ことあるごとに語っていた。父はそれをいい話として語り聞く人たちの多くも違和感をもっていなかった。しばらく経ってからわたしは、それは体が動かなくなった人が、農園にはいられないことの裏返しでもあるということに気づいた。
そうであるならば、そう語った本人が年をとっても農園に関わり続けられるようにすることが、開園してから20年以上の歴史をもってしまった、そして超高齢化社会の中にある福祉農園の新しい在り方なのだろう、と思った。
その着想を、大衆食堂の詩人に語ると、同世代ばっかじゃ仲良くやれないよねと返された。まあずっと試行錯誤だろう。農園は狭くもないし、いろいろあるので、密にならなければなんとかなるだろう[1]。
[1] 大衆食堂の詩人とは、ライターの遠藤哲夫(エンテツ)さんのことである。エンテツさんは社会学者の五十嵐泰正さんがゼミ生を福祉農園につれてきたときに、たまたま同行していたことを縁に知り合い、その後、何度も農園に来てくれた。2015年8月の訪問については、連載第13回の脚注を参照。わたしは、エンテツさんと農園以外に東京やその近郊の様々な街に出かけ、そこで時に酒をのみながら話をした。授業にも、ゲスト主演してもらったこともあれば、長女が生まれる直前、近所の居酒屋で開かれたトークライブで対談したこともある。そういえば、エンテツさんとアメ横の居酒屋で、汁かけ飯について、エンテツさんの同年配の人や、エンテツさんファンの人と酒をのみながら語り合っていたことがある。そのとき、なぜか父がふらりとやってきて、話にくわわり、そして彼の生真面目さゆえに全く話が盛り上がらずに終わったこともあった。エンテツさんは、2022年の6月に亡くなった。