野生のしっそう

第21回

旋回としっそう

2023.01.07更新

束の間に共用する

 沈黙を無意味にするのは、暴力である。

 沈黙する人に対し、その人と意思疎通などできないとおもって、存在を無視する。あるいは、ある人の発する声や言葉が耳慣れないことに当惑し、自分自身が沈黙する。その決まりの悪さの中で、自分と意思疎通ができないその人の存在を意味のないものと断じる。その人と声やまなざしを交わして、その人に触れながらお互いに何かを確かめ合うこと、そういう世界との向き合い方を拒否する。

 他者とのまなざしの交換を通して、自己はつくりだされる。わたしは相見える他者にもなり、わたしが能動的にやったことと受動していることはりあわされる。狩人は獲物のまなざしと自分のまなざしを重ねる。重ねながら、獲物を狩る。シャーマンは神霊に呑み込まれながら、呑み込まれまいと踏みとどまる。このとき、狩ることと誘惑は同義になる、と人類学者の石井美保は書く(石井2019:106)。

 その一方で、石井はまなざしの交換のない状況についても触れる。石井のフィールドワークの途中、インドの長距離バスの休憩地点の路傍で、6人の男たちが一列に並び、凍りついたように自分を凝視している。見返しても、表情を変えることなく凝視し続けている。その、まるで理解できない、人ではないものをみているような凝視について、石井は「生きている人間の顔を奪い、<物=対象>と化す視線こそが、相手を物として消し去りもするのだろう」と書く(石井2019:101)。

 小学校の高学年になって、兄と二人で電車に乗って母方祖父母の家に向かう途中、一緒に電車にのっていた高校生が兄にむけていたまなざしは、それと同じ種類のものだ。一見、障害のある人を理解しているつもりの人間が、障害のある人の予期せぬ振る舞いをしたとき――たとえば個性的で面白いと思っていた人が、面白いでは片づけられない言動をしたときに――見せるのも、同じだ。

 この一連の文章では、誰かを人でないものとして扱う思考に対して、抗うための思考をずっと探してきた。そしてそれは、わたしの内側ではなく、兄とわたし、そしてそこから広がる世界のなかに現れていた。

 それは、石井の言葉をつかえばまなざしの交錯をめぐるものである。わたしたちは経験を共有しているのではない。そんなことは多分できない。そうではなく、互いの身体を束の間に共用している。まなざしの交錯とは、他者のまなざしを束の間に共用することである。同じように兄の叫びやはしりに揺さぶられることは、他者の叫びやはしりを束の間に共用することである。共用しながら、こすれながら、摩耗しながら、わたしたちは他者の断片を身にまとい、変転していく。そして変転する、切ない存在であるわたしたちが、世界を形成する 。

フライデイの旋回

 沈黙を意味で満たしてしまうこともまた、暴力である

 「蟹の虚ろなまなざし、あるいはフライデイの旋回」と題された文章を読んだのは、わたしが大学3年の頃だ。映画『セブン』のラスト、ブラッド・ピットが演じる若い刑事が物語の最後に駆り立てられる暴力と、その根拠の不確かさ故の圧倒的な後味の悪さから、「他者が感じたであろう苦痛」をめぐって説き起こされたその論文は、二十歳を過ぎて一年がたつ頃のわたしに強い影響を与えた。

 この論文で、著者の岡真理は、南アフリカの作家J. M. クッツェーの『敵あるいはフォー』に言及する(岡2019;クッツェー1992)。イギリス人女性のスーザンが漂着した島で、彼女は老いたロビンソン・クルーソーと、黒人の元奴隷のフライデイと出会う。フライデイは舌が抜かれ、しゃべることができなくなっている。彼と共に暮らしていたロビンソン・クルーソーは、島からイギリスに向かう途中の船で亡くなる。二人と島を出たスーザンは、フライデイとともにロンドンで暮らすことになる。

 舌が抜かれたフライデイの口に、スーザンは彼がかつて経験した暴力を読み取る。しかし、その経験がどんなものなのか、フライデイ自身が語ることはない。彼女はフライデイにペンを持たせるが、彼が描くのは彼の口のような、意味を欠いた穴だ。そのほかにも様々方法をためしてみるが、フライデイに何があったのかはわからない。

 ときにフライデイは、日の当たる部屋で踊り出す。両腕を差し出し、目を閉じて、何時間もぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐると。その部屋に日が入らなくなれば、日の当たる部屋に移動する。スーザンがはなしかけても、それに応えることはない。フライデイのその旋回は、スーザンにとっては彼の舌を抜かれた口のような不可解な行為であり続ける。

 ある日、スーザンはフライデイと同じように回ってみて気づく。南国育ちのフライデイにとって、ロンドンは寒かった。だから、フライデイは旋回しながら体を温めていたのだ。イギリス生まれのスーザンは、そのことに気付かず、ただ彼の空洞の口になかに、彼が受けた暴力の痕跡のみ見出そうとしていた。

 私たちは、自分にとっていちばん苦痛だと思うことが、他者にとってもそうなのだと思いこんでしまう。それを他者に投影し、他者自身の声として、それを聴き取るのである。そして、ことばなき他者に代わって、私たちがその声を語り出す。彼/女の苦痛として。だが、それは結局のところ、私たち自身の苦痛、私たち自身の声にすぎない。もしかしたら、彼/女にとって目下、最大の苦痛とは、私が彼/女に一枚のセーターをやらないこと、なのかもしれない。私自身が彼/女の、苦痛の原因であるかもしれないのだ。フライデイの旋回のように、「それ」の声とは、実は、私たちが思いもよらない方法で、語られているかもしれないのだ。[岡2019:218]

 植民地支配する側とされる側、人種、性差といった違いの中で、他者の沈黙の口に言葉を与えてしまうこと――そしてそれは、多くの場合善意によってなされる――の暴力にふれたこの論文を読みながら、たとえばわたしは兄の言葉を代弁できるのかということを考えた。

読み取れた意思と、その外部

 中学時代兄が学生服のままどぶ川に入っていたこと(第16回参照)や、2013年の正月の関西への旅の後、右足のひざにすり傷を負っていたこと(第15回参照)は、兄にとっての苦痛があったことを、それをみるわたし達に想起させる。しかしそれは兄にとっての苦痛であり、その苦痛がいかなるものであったのかを、兄が語ることはない。

 兄が受けた暴力を、わたしはわたしが受けた暴力から想像していた。たとえば、兄と二人で電車に乗って出かけた時、兄に対して向けられた眼差しや、「なんでこんなやつが、ここにいるんだろうね」という言葉を、わたしはわたしへの暴力と受け止めた。そしてその自分の痛みと、兄の受けてきた、わたしの知らない痛みを、同じものだと考えた。

 しかし、それは同じではない。わたしの経験を兄の経験と重ねること、兄の経験をわたしの言葉で重ねること、そのことに何の疑いをもたなくなってしまったときに、わたしは兄を代弁するようでいながら、兄の言葉を奪うことになる。

 言葉を奪うことなく、ともにあることができるのかということを、わたしはそれから考え続けていたのだと、いま、思う 。わたしが感じた苦痛と、兄が感じた苦痛は別のものであるが、しかしどこかでつながっている。つながっているところと、ずれているところと、その両方が重要である。

 しかし、それは苦痛だけのことではない。
 思うように動けなくなった父が、ある時、兄の意思をめぐって次のように語った。長男が、本当に何を考えているのかはよくわからない。彼は、自分の気持ちを言葉でしゃべらないから。でも毎日嫌がらずに農園に通っている。だから農園が嫌いでないことはわかる。同じように学校も嫌がらずに毎日通っていた。だから学校が嫌いではないことはわかった。

 父は、兄の振る舞いから、日々の身体の現われから、兄の意思を読み取る。そこで読み取られる意思は、「学校に行きたいのだ」という言葉で明確に表されるものとは違う。もっとおずおずとしたものであり、聞き手にもその言葉で語られる事柄の余白が想起される。思うように動けた頃の父は、もっと断定的に兄の気持ちを代弁していたように、わたしは記憶している。だから、老いた父の言葉にわたしは驚くとともに、そこで語られる兄の意思も、そうやって語る父の気持ちにも共感した。そして、わたしは言葉で意思を表明されたりしたとき、そこに本人の純粋な意思をよみとってしまうのだが、そんなことが本当にありえるのかということを、二人に教えられたように感じた。

 重要なのは、読み取れた意思とともに、意思として読み取れたことの外部である。

 フライデイは旋回し、兄は直線的にしっそうする。
 兄がわたしの家から走り去り、そして父の家に走っていったその振る舞いと、身体の現われは、新型コロナウイルス感染症の感染が拡大していくこと、その傍らでオリンピックが開催されていること、わたしや家族の状況の変化といった事柄を背景にしながら、強烈な意味を持つように感じた。それは、中村寛が1930年代の吉野源三郎の経験に見出したものとも、ジョアオ・ビールがビータで暮らすカタリナの生の軌跡に見出したもの(第3回参照)とも重なっている。そしてわたしは、兄は、なんとしてでも実家に帰りたかったのだと思った。

 兄が実家に帰ったことをめぐって話し合い、兄が毎週末実家で父と過ごすことになった。兄がしっそうした翌日のことだ。父はカレーを用意し、兄の来訪をまった。介助者の人を伴いながら、兄は実家に帰った。

 父から、兄がいなくなってしまったと電話があったのは、その翌日のことだ。



参考文献
石井美保2019『めぐりながれるものの人類学』青土社
猪瀬浩平2019『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』生活書院
――――2020「すれ違う、こすれ合う。かけがえのなさと切なさ――『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』を書いた先に」『福音と世界』75(2):30-35
岡真理2019『彼女の「正しい」名前とは何か』――第三世界フェミニズムの思想(新装版)』青土社
クッツェー , J. M. 1992『敵あるいはフォー』本橋哲也訳、白水社

猪瀬 浩平

猪瀬 浩平
(いのせ・こうへい)

1978年埼玉県生まれ。明治学院大学教養教育センター教員。1999年の開園以来、見沼田んぼ福祉農園の活動に巻き込まれ、様々な役割を背負いながら今に至る。著書に、『むらと原発ーー窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』(農山漁村文化協会)、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)、『ボランティアってなんだっけ?』(岩波書店)など。

写真:森田友希

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