野生のしっそう

第23回

春と修羅

2023.03.13更新

物語の終わりに

 以上が、兄が描いた線をめぐる物語だ。

 兄はわたしの家から、父の暮らす家までしっそうし、そしてまた父の暮らす家から千葉の町までしっそうした。兄が旅したその線のすべてを、わたしはたどることができない。始点と終点を知っているだけだ。その点と点との間の兄の経験がどんなものだったのかを想像するため、わたしと兄が生きてきた経験を、ずいぶん遠回りしながら描いた。

 兄のしっそうを、ただ「知的障害者の失踪」と捉えてしまった時、彼が本来いるべき場所からいなくなってしまったことだけが問題になるだろう。障害のある兄が家からいなくなった。障害のある兄は警察に保護された。困った。困ったでしょう。心配だったでしょう。いろんな人に迷惑をかけたでしょう。そういうことがもう起こらないように、しっかり管理しましょう......。以上。

 このとき、兄はその世界を攪乱するだけの存在になる。兄がいなくなる前にいた場所も、兄が出かけていった場所も、「本来いるべき場所」/「本来いるべきではない場所」というように、抽象化された点となる。そしてその点と点が、直線で結ばれる。彼がどういう道のりを旅したのか、その道のりのなかで何と出会い、どんな世界をつくっていったのかは問題にならない。点と点とが無機質にむすばれ、そこにあった兄自身や兄と出会った人びとの生々しい経験は見落とされる 。

 しかし、ほんとうに重要なのは始点と終点ではない。その途中にあることだ。兄が世界を攪乱しているのではない。兄は<誰か>や<何か>と世界を制作し続けている。その制作の力を、たとえば「障害者アート」という形で限定して理解するべきではない。むしろ障害がないと自覚している人たちも、本来手にしている力――そしてそのことを自覚してない力――として理解する必要がある。わたしが兄のしっそうに、日本ボランティア学会の設立趣意書への根源的批判をよみとったのは、まさにその点である(第12回参照)。障害のある人がボランティアをされる存在でも、ボランティアする人とされる人の相互関係でもない。今までボランティアという言葉で語られ、考えられていたことの先端を、障害のある人が行っているのかもしれないと想起する先の創造力を問う。

 しっそうする兄を追いかけながら、弟はキーボードを打ち、文章をつづる。子どもの頃のわたしが、走り去る兄においつくはずがないと思いながら、それでもあとをおいかけ、見失ったあとも、街のあちこちを右往左往したように。兄のしっそうが描く、途切れることがなく様々なものが絡まったラインと、わたしが打ち込みながら描く文章は、質的に違うものだ 。

 それでも、わたしは言葉を打ち込み続けた。気づけば、書き始めた時には想定していなかったことに話は広がり、時空もさまざまに行き来した。そうやって、わたしは兄と共に、地図のない旅をした。

 そして、今、この文章を結ぶにあたって、はじめてわたしたちが何をしていたのかを理解する。

兄を追いかけてはしる

 小学3年生のわたしは兄を迎えにいき、やがていなくなってしまった兄をおいかけながら、あちらの駅やこちらの駅、そしてその途中の思いつくところを様々に自転車でかけまわった(第14回参照)。その道のりは、兄が走っていった道のりと、部分的に重なるところはあったかもしれないけれど、ほとんど重なっていない。わたしは通学路の脇にある池やどぶ川、神社の境内を走り回り、そこに兄がいないことを確認した。すれ違った人々は、はあはあと息をつきながら走り回るわたしのことなど、だれも気にも留めていないように見えた。

 兄をみつけることはできなかった。わたしは兄がどういうふうにこの町を生きてきたのか、この世界を生きているのかを考え、そしてそれを確かめるために自分自身がこの町と、この世界を生きた。そもそも、兄を迎えに行く途中、わたしは兄の同級生の女の子たちに、兄に似ていると声をかけられたのを恥ずかしがり、少し距離をおいて帰ることにしたのが、あのとき彼が旅立つきっかけだった(第14回参照)。だとすれば、兄のしっそうは、兄がシャイな弟であるわたしとともに生きているなかで、生まれたことでもある。

 この物語を綴っていくということも、同じことだ。小学3年生の頃、自転車で兄を追いかけたわたしは、パソコンの前に座り、かつてわたしが書いたことや、わたしたちをめぐって誰かが書いたものを読み返し、写真や動画を見返しながら、兄を追いかけた。

 障害のある兄が、健常者のように思考していることを確かめるのではない。健常者とはちがって、自閉症者としての特殊な思考の仕方を理解するのでもない。兄の経験や、兄の思考の仕方を追いかけながら、わたし自身の思考の仕方が何かを問い直す。兄について思考するのではなく、兄とともに思考しながら――それは兄が私とともに思考することでもある――、兄についてのイメージだけでなく、自分自身についてのイメージ、そして人間であるということや、生きるということのイメージを揺さぶり、より不確かなものに感性の運動をひらきながら、あとからおずおずとついてくる思考をも導いていく。

 人類学とは、わたしにとって誰かの歩いた踏み跡をたどる営みである。踏み跡の先にある目的地を見出すことではない。踏み跡をつけながら歩くその人と経験を重ねながら、その人の世界をかろうじて理解することであり、その人の世界とわたしの世界の重なりとずれを理解することであり、そしてその人とわたし以外の存在もふくめた世界をより嵩張りのあるものとして理解することである。

 インゴルドは踏み跡の追跡や徒歩旅行と、地図を与えられた航海との違いを次のように語る。

踏み跡の追跡や徒歩旅行と、あらかじめ地図が与えられた航海との区別は決定的に重要である。航海士は地図という領海の完全な表示を眼の前に持っていて、出発前に辿るべきコースを設定プロットすることができる。したがって旅はその筋書きをなぞるものに過ぎない。それと対照的に、徒歩旅行では、以前に通ったことのある道を誰かと一緒に、あるいは誰かの足跡を追って辿り、進むにつれてその行程を組み立て直す。この場合、旅行者は目的地に到着したときに初めて自分の経路を把握したと言える。[インゴルド2014:39-40]。

 兄の世界を、たとえば兄が自閉症者であることのみを手掛かりにして、自閉症をめぐる専門知識を手掛かりにその理解を進めていくということは、地図が与えられた航海である。それは自閉症に対する理解を深めることであり、それ自体には意味があることかもしれないが、兄の世界を理解することではない。さらにいえば、自閉症者ではないとされる人びとのことを理解することともずれている。わたしがしたいのは、兄を部分的に理解することで、わたしを部分的に理解することであり、そして兄とわたしがいる世界を前よりも理解することである。

この世界のただなかで:修羅ということ

 「春と修羅」という宮沢賢治の詩句を想う。

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し、はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の眼路(めぢ)をかぎり
 れいろうの天の海には
  聖玻璃の風が行き交ひ
   ZYPRESSEN 春のいちれつ
    くろぐろと光素を吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげろふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
                   宮沢賢治「春と修羅」

 「おれはひとりの修羅なのだ」という言葉は、兄の内側にあるもののようにも、わたしの内側にあるものでもある。春と修羅とは、まさに桜の満開になり、桜が散った中で、燕のようにしっそうしていった兄と世界のことである。そして、そのしっそうのただなかにわたしも確実に存在している。かろうじてつながった兄の世界と、わたしの世界の結び目を確認し、そして結び目を増やしながら網細工を広げていく 。そこから延びる糸が、兄とわたし以外の存在に広がり、からまり、そしてそれが微かに世界を揺らす。

 2021年の春に、兄は2回しっそうした。それはコロナウイルスが世界中で蔓延するなかでのことであり、延期された東京オリンピックの聖火リレーが走り始めたころであり、香港では選挙制度が変更され、ミャンマーでの国軍の民衆弾圧は激しさを増す頃だった。

 しっそうに先立つ3月23日、神奈川県相模原市は東京パラリンピックの聖火の採火を、同市内にある津久井やまゆり園で行う方針であることが報道され、同月31日に相模原市は2016年7月26日に起こった殺傷事件の風化を防ぐためとして、この方針を正式決定した。しかし、遺族や障害当事者団体から中止を求める声が相次ぎ、市長は5月にやまゆり園での採火中止を表明した。

 そのようなことが起こる世界で、兄はあらかじめ決められていない道を、2度しっそうした。

 そのことについて、いまのところ、困ったことだという以上の意味を見出されることはない。オリンピックやパラリンピックのメダリストが、メダルをとったことと整合的な経験のみに光を当てられるように。津久井やまゆり園で殺されてしまった人が、施設で暮らしていたことや、殺されてしまったということにのみ意味を見出されるのと同じように。

 この世界で起きている、別の文脈にあるようなこと兄のしっそうをつなぎ合わせると、そこにこの世界の全体像のようなものがぼんやりと浮かぶ。オリンピックの聖火リレーと、兄のしっそう。相模原市長の頭にあった、津久井やまゆり園からはじまるパラリンピックの聖火リレーと、兄のしっそう。コロナパンデミックで静まりかえった町と、兄のしっそう。桜の花が満開のなかでの、兄のしっそう......

 そして、兄がこれまで生きてきた世界や、ともに生きていた人びとと、兄のしっそうをつなぎ合わせる。たとえば、卒業した後の進路がきまっていないなかでの中学校の卒業式、アイスを欲しがる姪と出かけた動物園、祖父の家で飲む三ツ矢サイダーののどを打つ感覚、ニシさんとともにウクレレ工房や農園ではたらいた経験、夏みかんとともにしっそうするヤマナシさんとの出会い、体がだんだん動かなくなっていく父との邂逅......。そうやって様々な出来事や人びととつなぎあわせることで、兄の生きている世界の全体がぼんやりと浮かぶ。そしてその作業を、わたしは兄とともにに行った。だからそうやってつなぎ合わされたのは、兄とわたしがただ中を生きている世界のスケッチである。

 2021年の4月、兄と共に千葉の警察から埼玉に帰る途中、首都高速を走った。

 視界はぼんやりとしていて、ただ前の車のテールライトをおいかけて走った。わたしと兄は無言だった。カーステレオから流れる曲は、やがてブルーハーツの『EAST WEST SIDE STORY』になり、わたしは音量を上げた。川の向こう側には東京の夜景がけぶり、正面にはテールライトが光る。それに連動してハンドルをにぎり、アクセルを踏む自分の運動と、車の中を流れる音楽と、無言で座っている兄と。己の頼りなさと、世界のなかにわたしがあることと、これほど感じる時間はなく。明滅する世界のなかに、明滅するわたしたちがいて、それでも何かを世界に託そうとしている。ステレオから流れてくる曲の歌詞を、わたしは口ずさむ。兄のハミングが聴こえる。

(完)


[1]ティム・インゴルドは、このような地点と地点との関係を、ハブ・スポーク・モデルと呼ぶ。このモデルにおいて、ハブはある場所を示し、円として表される。そこで生活する人々は、その円の中の点として表される。そして場所(=円)と場所(=円)を結ぶ直線は輸送ネットワークの連結器を表す[インゴルド2014:157]。ここにおいて、生の容器としてのハブは、それが収容している個人、およびネットワーク上の別のハブに接続する直線から、はっきり区別される[161]。

[2]インゴルドは、「タイプを打ち印刷する行為においては、手の動きと刻み込まれる軌跡との密接な関係が断ち切られている。著者は、ラインの表現力ではなく語の選択によって感情を伝える」と書いている[インゴルド2014:21]。

[3]インゴルドは結び目とメッシュワーク(網細工)について、次のように書く。

結び目は、そのなかに生を収容するものではなく、それに沿って生が生まれるラインそのものから形成されている。これらのラインは結び目のかたちに結ばれ合っているが、結び目によって結ばれているわけではない。それどころか、ラインたちは結び目を超えて踏み跡を延ばし、かならず他の結び目のなかで他のラインといっしょになる。こうしたライン全体を私は網細工と呼びたいのである。一つひとつの場所は網細工の結び目であり、そこから延びる糸は徒歩旅行のラインである。[インゴルド2014:161]

 彼は、ネットワーク(ハブ・スポーク・モデル)と、メッシュワークを明確に区別する。たとえばSNSでフォロワーや「友達」、「いいね」を増やすことは、ネットワークを増やすことである。それはシンプルに数や量で把握できる。メッシュワークは、そうやって資本やテクノロジーシステムによって明示的に把握される数/量ではない。一見つながっていないように見える人と人、人とものとのかすかなつながりや絡まり合いに目を凝らしながら、そこから意味を紡ぎ出すための手掛かりである。

猪瀬 浩平

猪瀬 浩平
(いのせ・こうへい)

1978年埼玉県生まれ。明治学院大学教養教育センター教員。1999年の開園以来、見沼田んぼ福祉農園の活動に巻き込まれ、様々な役割を背負いながら今に至る。著書に、『むらと原発ーー窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』(農山漁村文化協会)、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)、『ボランティアってなんだっけ?』(岩波書店)など。

写真:森田友希

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