佐藤友亮さんは、「医者」であり「武道家」です

2018.05.15更新

 初の著書『身体知性』を上梓された佐藤友亮さん。

 本作は、医者と武道家というふたつの立場から、西洋的なものと東洋的なものを跨いだ身体の知性を探ろうとする、野心的、スリリングかつ知的な一冊に仕上がっています。

 そんな本を、最初の著作で書き上げた佐藤さんってどんな人なんでしょう? プロフィールを見ると、「1971年生まれ。岩手医科大学卒業」のあと、大阪に出てきたり、合気道を始めたり、などさまざまなことが書かれていて、「2017年現在、合気道凱風館(内田樹師範)の塾頭として道場運営に携わる」とあります。はて? 著者の佐藤友亮さんという「人物」とは? 著書のタイトルにもなっている「身体知性」とは? こんなことをうかがってきました。

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『身体知性』佐藤友亮(朝日新聞出版)

(聞き手、構成、写真:三島邦弘)

現場と「なぜ」をつなぐ役割

―― 佐藤さんが医者になろうとしたのはいつ、どういうきっかけですか?

佐藤 その辺はすごくネイティブというか、親が医者なんですよね。医者の家なので、自然にそのままなんとなく医者として働く人たちを見ていました。父は北海道の旭川出身で、父方の祖父は耳鼻科医でした。祖父は学生時代を京都で過ごしていて、生まれ育った盛岡には母の実家があったのですが、母方の祖父も祖母もやっぱり医者で。

―― 気づいたら「なろう」という、そういう感じかんじですか?

佐藤 そうですね。ただ、自分自身のことで残念、あるいは不思議だなぁと思うのは、多くのお医者さんは現場を大事にされていて。現場のなかでわからないこととか、矛盾とか、そういうものに日々葛藤されているんですよね。正直なことを言うと私はちょっと違うというか・・・。「なんでこういう難しいことが起こるんだろう」「矛盾が起こるんだろう」「これはどういうふうに考えられるんだろう」という問いが生まれると、立ち止まらずにいられないんですね(笑)。

―― なるほど。プロフィールにある、「初期研修後血液内科の診療に従事するも、白血病の治療成績に困難を感じ、云々」というのもそういうことと関係しているんでしょうか。

佐藤 正直、臨床医の方達にはなかなか理解してもらえません。医者の世界というのはベッドサイド、目の前の患者を助けるということが一番大事なことなので。矛盾を抱えつつも診療に向き合い続けるということを、お医者さんは大切にしているんですよね。ただ、私にはどうしてもそれだけを続けることができませんでした。こういう本を書いたというのは、その状況を考えてみるためでもありました。

―― いやぁ、すごく重要ですよね。あらゆる世界において、全員が現場ということはありえないわけで、そこをつなぐ役割がいま必要とされています。

佐藤 自分は、医者のなかでも辺縁の場所にいる存在、マイノリティという意識を強く持っています。辺縁にいるからこそ、医学について、その場所でしか考えられないことを考える。1章で引用したミシェル・フーコーはゲイでした。フーコーは社会において自分がマイノリティだという強い意識を持っていたようです。そのような意識を持っていたからこそ、あの人固有の仕事ができたのではないでしょうか。

―― それは、佐藤さんの"身体知性"の表現のひとつの形ですよね。

佐藤 社会生活を行う上では大変なこともありますが、自分の気持ちに対してはできるだけ誠実でありたいな、という思いは持っていますね。最近はあまり、人の目を気にしなくなってきました。よいことばかりではありませんが(笑)

合気道と出会って半年で訪れた大転換

―― 合気道に出会われたのはいつごろですか?

佐藤 プロフィールでも書いたんですけど、血液の研究をするために大阪(大学)に来たんですよね。それでたまたま内田先生の連載を『Meets regional』で読んでたんですけど、その後内田先生と知り合いになる機会があって、それがきっかけで合気道に入りました。

―― なるほど。それはいつでした?

佐藤 2002年です。

―― 「西洋医学」とは180度アプローチが違うといってもいい合気道と出会われたわけですが、どう受け止められたんですか?

佐藤 いまでもときどき思うんですけど、合気道の稽古をずっといままでやってきたなかで、一番大きな変化が、最初の半年くらいのところであったんですよ。それは、かなり言語化できるものです。何かと言いますと、「合気道は試合をしないから、ごまかしちゃいけない」。

―― 試合しないから・・・

佐藤 こそ。ごまかしても意味がない。稽古の場面で、一緒に手を取り合う人に対して取り繕ったり、身体運用の精度に意識を払わずに、パフォーマンス(技)のスピードでごまかしてしまうようなことをしても、合気道ではなんの価値も意味もない。

―― なるほどなるほど。

佐藤 私自身の身体を通した考えでは、合気道は、自分の中での気づきや理解を得るための体系なんだ、ということに尽きる。これが、いままで合気道の稽古をしてきたなかで学んだ最も大切なことです。そして、そのことを学んだのが、合気道を始めて最初の半年くらいのときに起こったんです。

―― でもそれが大転換なんですよね。

佐藤 そうですね。

―― そこに、半年でバーンと気づかれたというのはおもしろいですね。

佐藤 たまたま、なんかそういうことがあったんですよね。

―― 逆にそのときは、「取り繕っていた」という感じでしょうか?

佐藤 取り繕うというか、いわゆる主流的な社会のなかでの必要とされる、競争力みたいな感じを求めていたところはありますね。その頃、僕は大阪大学にいたんですが、すごく恵まれてたんです。上司にも同僚にも。同時にそういうなかでちゃんと、競争力もっていかなきゃいけないという意識はすごくあったんですよね。岩手の盛岡から大阪に来て、「ちゃんとやらなきゃいけない」。あるいは岩手の人に対しても恥ずかしくないことをしないといけない。そんな気持ちもありました。

―― なるほど。

佐藤 それはそれで絶対捨てられないことなんですけどね。やっぱり緊張もしていたんでしょうね。まぁ、どこか取り繕うというか。

―― やっぱり地元を背負ってたんでしょうか。

佐藤 地元というより、むしろ勝手に僕がやりたいと言って阪大に来たので、背負ってというより、恥ずかしくないことしないといけないというような感じでした。自分が大阪に来たことで、だれにも迷惑をかけたくない、という気持ちでした。まぁそういう意味では自分のなかで背負っているんですが。

―― そういう意味では佐藤さんにとって、合気道を始めての半年というのはひとつ新たな身体知性をもつに至る・・・

佐藤 というか、むしろイニシエーション。合気道がきっかけかもしれないですね。そしてそれは、自分の内面だけで起こったことというのともちょっと違うんですよね。今振り返っても、このことが大きな転換だと言える理由はやっぱりあります。それは、「動きが変わったね」ってすごく言われたんですよ。

―― おぉ〜。

佐藤 稽古の後の更衣室で、「急に動きが変わったんだけど、どうしたの?」とか。ある日突然言われたんですよ。何人にも、いきなり。周りの人達から「何があったの?」と言われて、でも実は、僕の中ではその変化の原因がはっきりあったんですよ。それはマインドセットが変わったんです。逆に言うと、それだけなんだけど。

 そのことがやっぱり自分の体の動きをはっきり変えた。とても有り難かったのは、自分の内面が変化したことで、パフォーマンスにも変化が出てきたときに、それを周りから言ってもらえる、そういうフィードバックがある環境だったんですよね。

 稽古を行う環境ということについては、今関わっている凱風館道場でも、神戸松蔭の合気道部でも、個々の人が大きな気づきを持てる場所を整えてあげたい、という気持ちを強くもっています。

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身体を通して感情を穏やかにする

―― タイトルにもなっている「身体知性」ですが、ぜひ、その意味を教えてください。

佐藤 "身体知性"って四字熟語のような言葉って、ありそうでありませんよね。ちょっとだけこの本について言うと、全体の構成が「西洋と東洋を結ぶ」というなかで、簡単にいうと「分析性と非分析性」がいかに結ばれるかというような話になっています。ひとことで言うならば、人間に不可欠な非分析的な判断を担っているのが身体です。その身体が非分析的判断に対して働かせるのが、"身体知性"と考えています。

―― いま、「非分析的判断」が人間に不可欠だとおっしゃいましたけど、ここをもう少し説明していただけますか?

佐藤 これは簡単に言いますと、分析的な判断ができるということは要するに証拠を集めて、証拠をもとに何らかの判断を下す、ということなんですね。それは証拠さえ集まれば基本的に答えは決まってくるものです。それに対して、本のなかでも取りあげたんですけど、たとえば結婚とか、事業を興すとか、就職とか、根拠は集められても答えがあらかじめないものに対しても、人間は判断を行わなければならない。実はそちらの方が、人生において重要な判断であることが多いんですね。

―― なるほど(笑)。

佐藤 そこにこそ、身体というものを使わなきゃいけない。もう少しだけ補足しますと、当然それは根拠がない中で判断しなきゃいけないわけです。何が大事かというと、心が落ち着いた状態であること。身体を経由して形成される感情が穏やかで、良い判断ができる状態にあること。

 ごくごく簡単に言ってしまうと、身体を通して感情を良い状態に保つということが"身体知性"である。そういうふうにいえるんじゃないかなと思っています。逆にいうならば、非分析的な判断は人生においてとても重要なものだけれども、感情の変化の影響を受けやすいという弱点を持っています。

身体知性を高めると、生きやすくなる?

―― ちなみに、"身体知"と"身体知性"はどう違うんでしょう?

佐藤 率直に言うと私、"身体知"と"身体知性"が違うとか、そんなこだわりを持ってるわけじゃありません。行いたかったのは、"身体知性"という名前をつけることで、分析と非分析の橋渡しをする役割を身体が持っているということをキーワード化する、ということです。

―― なるほどなるほど。たしかに"身体知"っていったら別にそこを結ぶようなことではないですものね。暗黙知も含めた知識、メタナレッヂということですもんね。

佐藤 そうですね。たとえば吉本ばななさんの本に『体は全部知っている』がありますが、「体は全部知っている」というのは、暗黙知とかそういうことをすごく連想させますね。すでに身体が持っている知的財産をもとに何らかの判断を下す。それに対して、私が言いたかったことは、いまここでなにか判断をしなきゃいけないというときに、その判断をさせるのは身体を介した感情形成だと。身体と感情形成は、判断を行うための手段だということです。

―― なるほど。 "身体知性"を高めていくということは、言ってみればいい感情の状態を築いて、判断も間違わないようになる、ということでもあると。

佐藤 そうですね。合理的な判断ができる。だからといって、コミュニカティブな身体って、常にまちがわないとかそういうことが私は言いたいんじゃなくて、やっぱりまちがうじゃないですか(笑)。でもまちがっても、そのまちがったこととか、「まちがった」ということに気づいたりとか。そういうものに対しても対応しやすかったり。

―― そこが大切ですよね。

佐藤 謝るべきときに、すぐ謝るとか(笑)。すぐ方針転換したりとか(笑)。なんかそういう「知性」が機能すれば、生きやすいんじゃないかなっていう気がします。

"分析"を捨ててはいけない

―― 「なんとなくそうかな」と直感的に思っていたことが、とても丁寧に、西洋医学にも通じるかたちで書かれているのが、この本の特徴のひとつですよね。

佐藤 執筆中、自分自身でひとつ絶対したいと思っていたことは、論理性とか思考というものを放棄する形にしたくなかった。たとえば東洋的な"統合的な身体"というものであったとしても、それをできるだけ西洋の言葉だったり、過去の研究だったり、ある程度説明的に、丁寧に、先につながるように、あるいは次に同じようなことを考える人が、ここからつないでいけるようなものにしたかった。それは強く思っていました。

―― そこが本書のユニークなところです。

佐藤 ありがとうございます。あとはちょっと話が戻るんですけど私は西洋医学のお医者さんでも非常に能力の高い市井のお医者さんってたくさんいると思うんですよね。

―― そうですよね。

佐藤 ただ、本の中でも触れたんですが、お医者さん固有の素晴らしさや臨床能力って人に伝えにくいところがあると思うんですよ。個人が自分で自分の能力を発揮する、まさに身体性を発揮する形でしか医師としての能力って統合的には、分析と非分析という意味ですけど、全体的にはなかなか育ちにくい。それで、そういう能力について考えるためのプラットフォームを作りたかったんですね。

―― はい。

佐藤 ちょっとだけ大風呂敷を広げると、ここでは"医師の交換可能性と不可能性"というような形でも言ったんですが、医師が身につけるべき能力っていうもののプラットフォームみたいなものをできたらいいなぁというのはすごく思いました。

―― すごく必要なことだと思います。

佐藤 本の最後に、内田先生と対談をさせていただきました。実はこのなかで最終的に行き着いたところが時間の話でした。それが、私にとっての大きな喜びだったんですね。時間というものをどういうふうに尊重していくか、ということはコミュニケーションの根幹につながると思っています。そしてそれが、分析と非分析をつなげるときに、無くてはならない役割を担っているんです。

―― どういうことでしょう?

佐藤 もうちょっとわかりやすい言い方にすると、憧れる先輩に付いてそれを学ぶとか、後輩の姿を黙って辛抱強く見て、自分に振り返るとか。あるいは仲間に刺激を受ける、相談し合う、とかそういう、共有する時間が人を育てるんじゃないかなぁという気はしますけどねぇ。

―― いやぁ、本当にそうですよねぇ。

佐藤 今回の本では、医学のことを手段として使ったつもりだったんですけど、本当に言いたかったことはそういうことです。

―― これは「教育」にかかわることだと思うのですが、いまの学校教育の基本は、ある目標を設定してそれをクリアしていくという直線的になりがちです。その最たるものが受験教育かと思います。それをある意味、「まじめ」に取り組んできた人たちが、佐藤さんがここでおっしゃったようなことって、パッとは理解できないですよね。

佐藤 入ってこないですね。受験をはじめ、積み上げということだけに価値が置かれているような場所で何が起きてくるかというと、本質的な理解や成長よりも、「その場所を取り繕う」といったことが出てくると思うんですね。たとえば柔道だったら試合で勝つことだけを目指す、といったふうに。"勝敗"、"優劣"というものが本来の目的とすり変わってくるということがどうしてもでてくる。

 それはいい面もあるんですが、それだけだと抜け落ちてくるものがでてくる。先に述べた、"分析""非分析"のセットとある意味似た構図になっていると思っています。つまり、ここでも、分析的な営みって絶対になくしちゃいけないと。

―― そうですよね。

佐藤 絶対それを否定する気もないし、私は西洋医学の医師ですので。それはものすごく大事にしないといけないものです。学校教育においても、競技的な部分が強調されている面がある。そして、それはメリットもある。ただそのやり方の限界や問題というものは、意識してないといけないと思うんですよね。一方では、私は非分析的だったり、非競技的だっだりする活動を通して、あまり伸ばせない部分というものも意識しないといけないと思ってるんです。

―― いやぁ、そうですよねぇ。

佐藤 どこまでが分析で、どこからが非分析か、ということを考え出すと、混乱をきたしたり、最終的には分析が強くなりすぎるような気がするんです(笑)シンプルに言うと、分析を大事にしつつ、自分や他人とのコミュニケーションをそれと同じくらい大切にする、ということがよいのではないかと思います。私が知っている、非常に有能な医師や医学研究者は、自分の枠組みの外側から情報や概念を取り入れる能力に長けています。これが、「コミュニケーションを分析の力」にする、ということなんではないかと思うんですよ。

盛岡出身ですから

―― 佐藤さんにとって本屋さんと言って、まっさきに思い出すところは?

佐藤 私、盛岡出身ですので、やっぱり僕にとっての本屋さんってさわや書店なんですよ。

―― おぉ〜!

佐藤 むかし、大通商店街のさわや書店の向かいには第一書店というお店があったんです。そのふたつがずーっと向かい合っていたんですよね。

―― もう、ないですよね?

佐藤 第一書店はなくなっちゃったんですよね。僕にとっての本屋さんっていうと、そのふたつです。新刊書、雑誌、2階に上がると学校みたいに参考書があったり。それって、「街」のような存在ですよね。

―― あぁ〜。さわやさんと第一書店の両方行かれてたんですか?

佐藤 はい。実は僕は第一書店派だったんですよ(笑)。

―― そうでしたか。

佐藤 本の置き方なんかも第一書店のほうがもうちょっと雑多で(笑)。照明も、さわや書店は蛍光灯のイメージで、第一書店は電球色のイメージです。まぁ、第一書店は老舗っぽっかったです。

―― 言ってみれば、ちょっと東洋的というか(笑)。

佐藤 まぁそうかもしれないです。

―― さわやさんや第一書店には何歳くらいまで行ってらっしゃったんですか?

佐藤高校のときはずっと行ってましたね。

―― けっこう、その大通の本屋さんに育ててもらったみたいな感じはありますか?

佐藤 あります。それはすごくあります。たとえば父親と弟と一緒に映画を観に行く前に、本屋さんで本を見て、マクドナルドでハンバーガー食べてから映画行くみたいな感じとか(笑)。

―― へぇ〜。

互いの人生が交差する場所として

―― 「身体知性の高まる本屋さん」みたいなのって考えられますか(笑)?

佐藤 「身体知性が高まる本屋さん」・・・、あぁ〜。三島さんもされてらっしゃると思うんですけど、ポップってあるじゃないですか。あれってやっぱりすごくいいと思うんですよね。やっぱり手描きのほうがいいし。本の背表紙と、あるいは表紙と、自分があるんじゃなくて、その間にはそれを勧める"人"がいると。

―― なるほど。

佐藤 だからポップだらけの本屋さんとかすごくいいなぁと思いますね。イベントもいいのですが、それよりももっと偶然の出会いみたいなのって、タイミングとかってすごく大事だと思うんですね。

―― はい。

佐藤 あとは書店員さんがいっぱいいる本屋さんがいいと思います。ポップがあって、人がたくさんいる本屋さん。それってなかなか難しいかもしれないけど。

―― そうですねぇ・・・。

佐藤 「人が関わっている」ということが感じられる本屋さんっていいと思いますよね。いま、アマゾンとかああいうものには無いものとして、本屋さんの身体性が求められていると思います。それは、そんな難しいことじゃなくて、どういう本を勧めるかとか。ポップ描くにも、一冊全部を読まなきゃとかじゃなくて、「こういうところがおもしろかった!」とかがいっぱいあったらすごくいいんじゃないかなぁと思いますね。

―― そうですよね。そこに、身体を介してしか生まれないものというのが、生成されるわけですもんね。

佐藤 場合によっては、「『これはおもしろかった!』佐藤」というPOPを見た人が、「この本のことちょっと佐藤さんに聞いてみたい」みたいな感じになればなぁと。いま、消費者と売り手の関係がどこかイビツですよね。

 「お客様は神様」みたいなのが強くなりすぎてる時代じゃないですか。お店が全部コンビニ化しちゃっているというか。買い物をすること自体が、お互いの人生が出会う場所だ、みたいな感じがもっとあるといいですよね。そもそも働くってそういうことですから。買い物もそういうふうに、人生同士が出合う場所だったらいいのになって思いますよね。

―― はい。

佐藤 話が戻りますけど、医者だって患者に育てられてるわけで。それはもう当然のことですからね。お互いの人生が交差している場所にあるのがお店であり、身体をもった働く場です。WEB書店に対する違いを出す場所なのかなという気がしますね。

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プロフィール

佐藤 友亮 (さとう・ゆうすけ)
1971年盛岡市生まれ。医学博士、日本内科学会認定内科医、血液専門医。1997年岩手医科大学医学部卒業。初期研修後、血液内科(貧血や血液がんを診る内科)の診療に従事するも、白血病の治療成績に大きな困難を感じ、2001年に大阪大学大学院医学系研究科入学。大学院修了後、阪大病院の血液・腫瘍内科で、血液学の臨床と研究を行う。2012年より神戸松蔭女子学院大学准教授。2002年に、東洋的身体運用に興味を持ち、神戸女学院大学合気道会(内田樹師範)に入会。2017年現在、合気道凱風館塾頭(会員代表)として道場運営に携わる。公益財団法人合気会四段。神戸松蔭女子学院大学合気道部顧問.

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