「観察映画」で見つめる「選挙」 想田和弘監督インタビュー

2018.05.08更新

 2007年に公開された『選挙』。続く『精神』(08年)、『Peace』(10年)、『演劇1・2』(12年)と、事前のリサーチを行わず、構成台本もつくらない「観察映画」という手法で映画をつくり続ける想田和弘監督の最新作『選挙2』が公開となりました。

 第一作目『選挙』の舞台は、2005年秋、小泉劇場まっただなかの川崎市議会補欠選挙。主人公は、東京で気ままに切手コイン商を営む「山さん」こと山内和彦さん(40歳)。ひょんなことから自民党公認として出馬することになった新人候補の「ドブ板選挙」をひとりの観察者の視点から映し出しています。

 本作『選挙2』では、その「山さん」が2011年4月の川崎市議会選挙に再出馬。かつて、小泉自民党の組織力と徹底的なドブ板戦で初当選した山さんが、完全無所属で選挙に挑む姿を映し撮っています。出馬の理由は「怒り」。スローガンは「脱原発」。山さんというひとりの候補者をとおして浮かび上がる日本の民主主義の姿は、何を語ろうとしていたのか。観ると色々なことを考えずにはいられない、参議院選挙前に必見の作品です。

 今回は想田和弘監督に、『選挙』『選挙2』について、実際の選挙や民主主義について、「観察映画」という手法について、お話をうかがいました。監督のお話が面白すぎて、予定時間を大幅に超えて3時間のロングインタビューに! たっぷりとお届けいたします!!

(聞き手:星野友里)

old73-5.jpg(C)2013 Laboratory X,Inc.
『選挙2』公式HP:http://senkyo2.com/

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―― 『選挙』『選挙2』共に、駅の改札から出てくる人たちを長く撮影し続けるシーンが印象的でした。何かそこに思うことがあればお伺いしたいと思います。

想田 基本的に僕は人ごみが苦手なんです。特に、あの通勤の感じがすごく苦手で、それが嫌でニューヨークに行ったところもあります(笑)。たくさん人がいるのにみんなが無言で、足音も全員が同じ、ザッザッザという感じに戦慄が走るといいますか。

 『選挙2』の撮影は、2011年4月3日から4月11日までの9日間でした。震災直後です。川崎にも放射能が降っている。ある意味それはSF的な状況ですよね。むしろSF映画ならば、「荷物をまとめて逃げる人たちで高速道路が渋滞する」という画を想像すると思うのですが、そうではなく、みんな粛々と通勤している。

 それにはやっぱり目がいきますよね。それを単なる風景として流したくない気持ちがあるんですね。ひとつのシーンとしてみたい。たとえばあの場面を6秒くらいで出すと、それは単に風景ショットとして脳内で処理されると思うのですが、それを僕はしつこく20秒くらいにするわけです。そうすると、ある意味日本社会を象徴するような風景ががひとつのシーンになるわけです。

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―― 改札口で監督が機材を持って撮影しているのに、目線をこちらに向ける人があまりいませんよね。それと対照的だったのが、公園でカメラを回していたときに子どもたちが集まってくる場面です。山さんの子ども悠喜くんもそうですが、映画を通して、子どもが出てくる場面が印象的でした。

想田 僕は基本、何も計画せずにどんどん撮るようにしています。対象についてのリサーチもしませんし、台本も書きません。とにかく目の前の現実をよく観察する。よく観て、よく聞いて、そこで観察したことを映像化していく手順で撮影します。

 ですから、最初に「子どもや公園のシーンが必要だ」などとは考えません。むしろ、山さんに張り付いてないときは街に出て、そこで出会った風景のなかで気になったものや、なんだかわからないけど響くものにどんどんカメラを向けていくわけです。

 当時は2011年の4月ですから、原発事故が起きてまだ1カ月も経たない時期です。けれど公園に行ったら子どもたちの声が聞こえるわけですよ。それはある意味、僕のなかでは衝撃でした。でもやっぱり、その状況をカメラに映しておきたい。そこでカメラを回していると、向こうから話しかけてきてくれたわけですね。この子たちにとって原発事故や震災とはどんな意味を持つのだろうかと複雑な気持ちで撮っているわけです。

 それは悠くんについても同じです。閉局間際の郵便局で、山さんと奥さんは一生懸命ハガキに有権者の宛名を書いている。悠くんは自分に注意を向けてくれないからぐずるわけですが、山さんと奥さんは、ある意味悠くんのためにあんな選挙運動をやっている。子どもに注意が向いていないわけではないんですよね。そして僕は、このシーンを悠くんが大人になったとき、どう見るのかなと思いながら撮ってました。

山さんの魅力

―― いろいろなことを考えさせられます。山さんは不思議な、なんとも言葉にしづらいキャラクターですが、監督から見た山さんの魅力はどのようなものですか?

想田 いつも話すことですが、山さんは5浪して東大に入り、僕が大学一年の頃すでに24歳でした。その時点からちょっと変わった人だなと思っていたわけです(笑)。よっぽど勉強したいのかと思いきや、まったく授業に出て来ない。でもコンパをやると必ず来る。酒は一滴も飲めず、いつもウーロン茶のくせに(笑)。しかも駒場寮に住んでいましたから、通学時間はゼロ。僕等が山さんの家に遊びに行っていました。そして彼は3回留年して、東大を出た後は切手コイン商をやり、ハネムーンは北朝鮮。僕のなかではそういう「ボヘミアンな山さん」がスタンダードです。だから、山さんが自民党から立候補すること自体がジョークかと思いました(笑)。キャラがすごく間違っている。なにかが間違っている。みたいな感じですね(笑)。

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(C)2013 Laboratory X,Inc.

―― なにかが間違っている。

想田 はい。自民党はものすごい勘違いをしているに違いないとは思いました。そういうミスマッチは、映画的には一番可能性を感じるんです。必ず摩擦が起きるはずなので、これは撮れたら絶対におもしろくなると思いました。

 撮りながらも編集しながらもすぐに気づきましたが、自民党という非常に伝統的な日本社会に、山さんというまったく縁もゆかりもなさそうな人が入ると、山さんのことよりも、自民党の価値観、あるいは日本社会の一番スタンダードな価値観があぶり出されてしまうんですね。『選挙』は、そういう映画だったと思います。

 これは少し失礼かもしれませんが、存在からいうと、山さんはトリックスターだと思います。この社会のなかで、人はそれぞれ役割のようなものを担わされてしまうところがあると思うのですが、そして、山さんは自分でそう望んでいるとは思いませんが、結果的にいわゆるトリックスター。日本語にすると少しきついですけどね。道化師。

―― そうですよね(笑)。悪い意味ではまったくなくて、すごくそんな感じがします。

想田 トリックスターが権力に近づくと、権力の本質みたいなものがあぶり出されます。つくづくそういうものだなと思います。昔の王様は自分の近くにわざと道化師を置いたと聞いたことがあります。道化師が一番本当のことを言う。黒澤明の『乱』なんかでも出てきます。ピーター扮する道化師(狂阿弥)だけはズケズケと本当のことを言う。山さん自身は道化師のつもりはなく、本気で真面目な気持ちでやっていると思いますが、でも、そんなふうに僕には見えました。

「笑い」は「引き」の構図

―― 『選挙2』のなかで、山さんも監督もよく笑っていましたよね。

想田 よく考えると本当に深刻な状況です。震災があり、原発事故が起き、おそらく放射線も今後30年くらいは下がらない。これからどうなるかわからない。ですが、実際そこで生活していると笑うしかないことがたくさん出てくる。僕もそうなのですが、ひどい状況になるほど笑えてくるところが人間にはある気がします。

 あと、笑えるということは、ある意味知的な行為でもある。冷静にその状況を外側から眺める自分がいるということですから。その状況に埋没してしまうと人間って笑えないんです。映画言語でいうと、クローズアップはどちらかというと怒りや喜びとか別の感情で、笑いは必ず引きになる。

 その頃、僕も「なんで想田さんは、福島や石巻に行かないのですか?」と聞かれました。自分でも「東北で大変なことが起きているのに、なんで川崎で何もしない山さん撮っているのかな?」とよく思いました。けれど不条理だなと思いながら、そのこと自体にも笑えてくる。映画『選挙』のポスターを勝手に流用してあんなものが選挙の掲示板に張られていることにも笑えてくるわけですよ。オフィシャルな選挙のポスターが「なんで俺の映画のパクりなわけ?」って(笑)。

―― すごいことですよね(笑)

想田 よく考えるとすごく変なことが起きているんです。だからやっぱりそれは笑えてきますよ。でも、笑えてくるところに、力の源があったりしますよね。

どんな題材でも映画になる

―― 監督の他の作品に『精神』『Peace』がありますが、目の前の状況をそのまま撮影するという監督のやり方であればどうやっても映画をつくれますよね。

想田 おっしゃるとおりです。そうなんです。「よく観て、よく聞きさえすれば必ずおもしろいことが見つかるはずだ」というのが「観察映画」の考え方です。だから、おもしろいと思えないのは自分がよく観てないからだと思っています。おそらく、どんな人でも映画の主人公になるし、どんな題材でも映画になる。もちろん、僕自身のなかでも興味の濃淡はありますよ。でも、「やるとなったらどんなものでも映画になるはずだ」という変な自信があります。映画はネタじゃない。

―― 映画はネタじゃない。

想田 そう。それは、テレビ番組をつくっていたときしょっちゅう言われた「ネタが弱い」ということに対する反発でもあります。企画を立てても「もっとキャッチーで活きのいいネタじゃないとダメだ」とか「もっとニュースバリューがないと」「派手じゃないと」「こんなの地味だ」と、よく言われました。でも、そのとき、いつも僕が反発したのが「本当にネタの問題なのか?」ということです。

 ネタそのものよりも、作り手がどう見るかが問題なのだと思います。地味に見えるものでも、よく観ると派手かもしれない。観察映画を自分で撮り始めたときは、まさにそこに挑戦したい気持ちがありました。『選挙』も、よく考えるとネタ的にはすごく地味です。川崎の市議選ですから。どうせ選挙を題材にするのであれば、天下分け目の戦いとかね。

―― 「橋下vs平松」とか。

想田 そうそう。そういうふうに思いますよね。山さんの出馬は、ニュースバリュー的には地元の神奈川新聞でも2段くらいの記事にしかならないネタです。ですが、そこにカメラを向ければきっとおもしろいものがあるはずだと僕は思っていました。

 そういう意味で『選挙2』は、本当にその方法論が試される映画でした。というのも、山さん、本当に何もしないじゃないですか(笑)。最初「本当に何もしない」と聞いたとき、「大丈夫かな、俺?」って思いましたから(笑)。

―― ハードル高いですよね(笑)。

想田 山さんが2011年4月の川崎市議選に再出馬することを香港でブログをみて知り、驚いて山さんに電話を掛けたわけですよ。そのときは「いや、前回みたいなドブ板はやらないよ。今回、脱原発で出るんだ」というところまで聞いていて、「そうか、じゃぁ撮らなくちゃな」と思い、機材をわざわざ東京で揃えて川崎に行き「さあて、何撮ろうか」と思って、「山さん、演説もしないの?」と聞いたら「しないよ」って(笑)。「マジで? じゃぁ、何すんの?」と思いまして。

 普通の作家ならそこでやめていると思います。ただ、僕はそれまで「映画はネタじゃない」「自分の視線が大事で、それをどう料理するかが問題なのだ。映画にならないのならそれは作家の力量不足だ」と偉そうなことをさんざん言ってきたので、ここで引き下がっては観察映画の理論が崩壊してしまう(笑)。

―― 突きつけられたわけですね(笑)。

想田 そうなのです。極限まで僕を追い詰めましたよ、あの男は(笑)。だから、そこで「よし、基本に立ち返ろう」と切り替えて、とにかくよく観る。密着して、おもしろいと思ったことにカメラを向けていく。映画になるかどうかは後で判断すればよいことで、とにかく山さんに密着し、その過程で目についたことをどんどん記録していく。そういう手法をとったわけです。そうしたら、やっぱり変なことが起きてくるわけですよね。カメラの前でも。

選挙費用総額8万4720円

―― 2005年秋の川崎市議会議員補欠選挙では、自民党公認のバックアップのもと当選した山さんですが、『選挙2』では一転、独立系完全無所属という、組織をつくらないやり方で出馬していますよね。それは山さん自身のなかですごくしっくりくる選挙活動だったように思います。

想田 山さんも半分だけ気づいたのだと思います。要するに、みんな、選挙というものは決まったやり方があり「こうしなくてはいけないのだ」と思い込んでいると。それは、右も左も関係なく、みんなそう思っている。自民党も共産党も選挙運動のやり方だけ見ていると似ていますからね。お金がかかる。組織力が必要。中には田畑を売り背水の陣をひいて、死ぬか生きるかの意気込みで臨まなくてはいけないと思い込んでいる人もいる。

 だけど山さんはふと「あれ? 事務所とか借りなきゃ安くできるじゃん」「ポスターも自分で作れるじゃん」と思ったんですよね。それでもたしかにできるんですよ、選挙。それに、候補者の誰も脱原発の主張をしようとしない。それに山さんは違和感があった。そうしたときに、「じゃぁ、おれが出ればいいじゃん」と思ったのだと思います。ふとね。軽くそう思った。そこがトリックスターのすごいところで、おそらく自民党から出たときも深く考えていないと思います(笑)。だって、山さん、普通に自民党嫌いだと思いますし。

―― ですよね(笑)。あの映画を見ているみんながそう思っていますよね(笑)。

想田 だけど「カネかけずに俺が出ればいいじゃん」っていうのは、けっこうすごいところに気づいてしまった気がしています。よく考えるとあるべき姿ですよね。選挙のとき、投票しない理由として「入れたい人がいない」とよく聞きますよね。入れたい人がいないから投票しない。あるいは白票を投じる。でも選択肢はそれだけじゃない。自分が出る。それもありなんです。

―― 選挙費用の総額が8万4720円ですもんね。

想田 日本の場合、供託金が不当に高いという問題はありますが、一定の得票数に達すれば落選しても返還されます。地方選なら普通の市民でも本気で出る気があれば、なんとかできない額ではない。破産もしないと思います。仕事も辞める必要はないですしね。これは、実は「あるべき姿」だと思います。

 山さん以外でも、同じような考え方で出馬している人もいます。当時「みんなの党」の竹田のぶひろさんは実は4万322円しか使っていません。彼は、事務所は間借りで選挙カーも使わず、ポスターは自分でデザインしたらしいです。それでトップ当選しています。彼は映画『選挙』を見て「あんな選挙をやってはダメだ」と思ったらしいんですね。まだ若いですが、自分が出るときは真逆のことをやろうと思い、しかも成功している。

 お金をかけないと何が違うかといいますと、たとえば、竹田さんはみんなの党から出ていましたが政党に属していても党に頼る必要がなくなるのです。山さんの場合は一回目の選挙のとき、市民派として出馬したはずですよね。「市民の目線で改革を進めます。しがらみはありません」と何度も言っています。だけど選挙運動の内実を知ってしまうと、「あんた、しがらみあるじゃない(笑)」と。いくら市民出身でも、党の枠組みに入った瞬間に新入社員のように組織に従うしかなくなってしまう。そこでは独自性や独立性は望めないですよね。

 その人がどう経済的、組織的に独立しているのか。自由の問題を考えるとき、実はそこがすごく重大なことで、誰にも依存しないで当選できる道筋ができれば、日本の政治にも相当違う状況が生まれてくると思います。

山さんが飛んだハードル

―― でも、あれだけ何もせずに1306人が山内さんに投票されていたのは、ある意味すごいといいますか。

想田 ですよね。僕もそう思います。山さんの選挙活動って、選挙のポスター貼りと選挙運動用の法定ハガキの宛名書き、そして最終日に駅の前で防護服とガスマスクをつけて演説しただけですからね。あれだけ怠けに怠けて、選挙ハガキくらいちゃんと出せよと思いますよね(笑)。

old73-3.jpg(C)2013 Laboratory X,Inc.

―― 夏休みの宿題みたいでしたよね(笑)。

想田 映画を見た人のなかには「山さんは本当に真面目なのか?」と怒る人もいます。もっと「真面目にやれ」と。だけど、それでも僕は、山さんは相当のハードルを飛んだと思います。山さんに不満を感じた人は、自分が立候補すればよいのです。条件は同じなのです。

 だから、山さんがいくら不真面目にみえても、僕はすごく評価しています。軽いけれど、実際に思いつきを実行してしまうところが山さんのいいところだと思っています。逆にいうと、彼は自分の問題として政治を考えている。主体的に政治に関わっている。

 本来、われわれ主権者は、政治の主体であるべきなんですよね。消費者ではないわけです。これは最近気がついたことですが、山さんに対する批判は、消費者としての立場から発言している感じがするのです。批判している人も出馬していいわけです。それなのに「自分は出なかった・・・」という発想になるのではなく、「山さんもっとしっかりやれよ」と思っている。それはまさに、消費者として自分をイメージしているということです。

主権者は消費者ではない

想田 政治家や選挙に出る人は、政治サービスを提供する人たちで、自分たちはそれを買っているのだ。投票や税金でサービスを買うのがわれわれ有権者なのだ。そういう誤解がいますごく蔓延している気がします。おそらく低投票率というのは「買いたい物がないから買わない」という態度なのだと思います。「俺に買ってほしいならもっといいもの出してこい」というわけです。自分はお客さんだと思っている。

 政治家も有権者のことをお客さんだと思っている。だから「国民の皆様は」とやけに慇懃無礼に扱い、そして軽蔑している。消費者として扱うということは、誇大広告やイメージで騙せると思っているわけです。広告の打ち方でなんとでもなるという発想です。消費者とは、自分で何も努力する必要はないし、責任もないという存在ですよね。だから簡単に騙されてしまうのです。

 たとえば、政治の問題を考えることは難しいことです。TPPや憲法の問題も理解するには勉強が必要です。憲法の問題でいま起きていることを理解するには、「立憲主義とは何か?」とか、「公共の福祉と公益及び公の秩序の違いは何か?」といった憲法論や法律論の基礎くらいは、勉強しないとわからない。

 自分を消費者としてイメージしていると「お客様にそんな勉強させるな」と言いたくなるわけですね。だから「政治家の言葉はわかりにくい」「政策がわかりにくい」ということをすぐに言う。政策がわかりにくいのは当り前なのです。実は本来民主主義というものは、われわれ有権者が自分たちも勉強して、政治家の発言に対しても反論できるくらい政治に精通していかないと成り立たないものなのです。

 民主主義というものは本質的に消費モデルでは語れないもので、主権者というものは、判断し、決定し、責任をとる主体のことであり、主権者と消費者というものは、決定的に違うものなのです。しかし、その違うものを混同し、消費モデルで我々は政治を見てしまっている。その部分でボタンが掛け違っている。最初の段階でボタンの掛け違いをしているから、あらゆることがおかしな方向に向かっている感じがします。

無意識の消費者感覚

―― 「何をしてくれるんですか?」という感じですよね。

想田 先日、大阪で『選挙2』のキャンペーンを兼ねたイベントをやったとき、会場から「政治はハードル高いんですよ。すごく難しすぎる。もっとわかりやすくしてもらわないとわからない」という発言があったんですね。若い人でした。でも、そのとき「あれ?」と思って、すごく気になった。

 その会場で「わかりにくいから、もっと勉強が必要ですね」とその人が言うならわかりますが、そうではなく、登壇者である僕らに対してすら「政治をもっとわかりやすくしろ」と要求しているように聞こえたんですね。その人は、僕らのこともサービスの提供者と思っているように聞こえたのです。

 もちろん僕は、映画は提供していますが、政治に関しては会場にいる人たちと同等なつもりです。「あなたと僕は同じですよ」とすごく思ったのです。同時に「この人の感覚は、実は世間一般の普通の意識なのだ」ということに気がついた。まさにあらゆるものに対して、現代日本人のマジョリティは消費者なのです。だから政治家も物事を単純化する。それこそわかりやすい対立軸をつくって「◯◯が悪い」とやると一番売れると思っている。票をもらうということは売れるということですから。

 このことをかなり詳しくツイッターやブログに書いたんです。ところが、ここまで言っても、ツイッターなどの反応で面白かったのは、「もっと賢い消費者にならなくてはいけませんね」という反応があったことです。すごい。消費者意識が、本当に身体化されている。消費モデル以外のモデルを経験したことがないのだと思います。というか、意識化したことがないのだと思います。他のモデルで考えられなくなっている。

「観察眼」が起動する

―― 私は普段ハリウッドの映画などを観ると「おもしろかった」ということとは別に何かダメージを受ける感じがします。今回、想田監督の映画を見て、いままで私が見てきた映画はジェットコースターのような映画だったのかなと。つまり、乗ってしまったら最後まで一気に連れていかれる。監督の映画は、レールの上を歩いているのだけれど、よそ見をしてもいい。そんな印象を受けました。その体験はある種、本に近い。本は途中で読むことをやめられるし、止まれるし、戻れる。そう考えると映画ってやはりある種の強制的な部分がありますよね。

想田 そうですね。すごく強制的です。作り手が時間をコントロールするわけですからね。監督が勝手にカットの長さを決めて「よし、このカットは20秒見ろ」ということを毎回やっているわけです。なかには3秒で通り過ぎたい人もいるでしょうし、1時間観ていたい人もいると思います。そこを一律にコントロールしている。しかも、目と耳を使いますよね。本は目だけです。要するに、感覚器官的にもハードワークです。途中でやめることもできない。

 僕の映画もある意味暴力的です。といいますか、あらゆる映画が暴力的なのですが、僕の映画は観ることを強いています。能動的に観ることを強いるといいますか。ジェットコースターの映画はそれとは逆で、受動的にいろいろな刺激を消費する感じです。刺激のオンパレードです。いかに刺激を絶えさせないか。でもこれを続けていくと、見観る側はどんどん受け身になっていくのです。

 観察映画の場合は、こちらからあまり「これを見ろ」とか、「これはこうだ」という説明的なことを提示しません。ナレーションやテロップ、音楽は使いませんので、映像に対する解釈は観客に委ねられています。ですから、観客が自分から情報を取りにいかないといけない。

 普通のドキュメンタリーだと、例えば山さんが登場してきたら、「山内和彦 ◯歳 立候補者」という肩書きが出ると思うんですね。でも、それも出さないので、観客はどのように観るかというと、「あれ、この人誰だろう?」「何やっている人なのかな?」というところから始まりますよね。そうすると、その山さんの発言や立ち振る舞いや、人との関係をよく見て「あぁ、たぶん、この人は市議選に立候補しているんだな。どうも自民党から出ているらしい」というふうになっていくのです。

 僕はそれを「観察眼が起動する」と呼んでいるのですが、観察眼が起動することによって、その人は受け身の消費者ではなく、能動的な鑑賞者になるのです。そういうことがたぶん僕の観察映画のなかでは起きている。そして、そういう関係をつくりたいと思っています。

 さきほどの話と通じるのですが、消費者としての観客というものを僕は想定していません。映像を消費してほしいとは思ってないのです。むしろすごくそこから遠いところにいます。鑑賞と消費はまったく違うのです。

 その人の血とか肉になるようなものをつくりたい。ただの気晴らしといいますか、一瞬で忘れてしまうようなものではなく、願わくば30年、40年後に「あ、あのシーンはああいう意味だったのかな?」と、ふと思い出したりする。「『選挙』でのあのシーンは実はこういうことだったんじゃないかな」と思ってくれるくらいのものを目指しています。

 そのためには、観客に相当仕事をしてもらう必要があるのです。だから、観察映画を見たら、別の意味でヘタヘタになると思うのですが(笑)、でもヘタヘタになるようにつくられているのです。お客さんとしては扱っていないので。

空振りでもいいので振ってほしい

―― 見終わった後、他の人と話したくなりました。他の人は「どこをどう見たんだろう?」と。

想田 そうですよね。僕もいろいろな人がツイートしてくれるのを見ながら「へー」と思うことが多いんですよ。自分が気づいていないようなことに気づかれていたりする。それが楽しいですよね。僕は何かを主張するためにつくっているわけではないので。

 よく誤解されるのですが『選挙』は、政治がテーマですから、政治的な主張のために映画をつくっているのではないか? と思われます。ですが僕は映画作家としては、そこには興味がありません。ある種、自分が見た体験談を映像でやっている。そして、その体験談に接した人がどんな感想を持ち、どんなところに目を止めたのかは本当に人それぞれでよくて、人それぞれの反応を見るのが楽しいのです。

 よく例えるのが、僕がピッチャーであるのならば、観客はキャッチャーではなくバッターだと思っています。バッターとして打ち返してほしい。で、僕はけっこう全力投球をしているので、よく見ないと打てない(笑)。

―― そうですね(笑)。

想田 でも、空振りでもいいので振ってほしいんですね。そして、当ててほしいんです。当たると、けっこう変なところに飛ぶ球とかがあって、それがおもしろいといいますか。「うわぁ、あんなところに飛ばすか」みたいな(笑)。

―― 球は受け取るものではなく、打ち返すものなのですね。でも、そうやって意識するには、まず経験が必要になるのかなと思います。経験によって、自分も意識していなかった部分に気づくといいますか。

想田 そうですね。経験。僕がいつも言っていることは、観察映画、あるいはドキュメンタリーや映画というものは何かというと、作り手の体験を映画的に再構築し、観客に追体験してもらうということなんですね。つまり、共有するということです。

 ある意味それは、僕の中に入り、僕の内側から外を見ているようなものなのです。そうすると、僕が気づいたところや違和感をもったところを気付きやすいといいますか。しかも僕は「気づいてくださいよ〜」と説明的にやるのではなく、観客自ら自分で気づいてしまうといいますか。そういう効果があるのですね。

自分がおもしろいかどうか

―― 監督の映画は海外でも高く評価されていますが、つくる時点で海外の人を意識するところはありますか? 

想田 ないですね。つくっているときの基準はひとつで、自分がおもしろいかどうかです。それしか考えてないです。僕は海外に住んでいるので、そこに、海外に住んでいるものの視点が混じり込むということはあると思います。ただそれは、他人の視点を意識しているというよりは、自分自身の視点ですよね。

 編集しているときにもつい考えそうになるんですよ。例えば「BBCのあのプロデューサーはこれを見たらなんて思うかな?」とか。つい考えそうになる。だけど、考えたときはそれをシャットダウンします。なぜかというと、僕が想像していることは、たぶん間違っているから。

 というのは、かみさんに見せても、思ってもみない感想を言ってくる。ということは、BBCのプロデューサーの想像することを考えてもたぶん間違えているんですね。ましてや、自分の知らない人たちが映画を観るわけです。知らない人たちがどう反応するかなんて、予想がつくわけありません。予想をつけてしまうと、むしろそれが雑音になって、自分の判断を狂わせる要因になる。とにかく基準はひとつにしておく。自分がおもしろいかどうか。

 それだけでやっていくと、僕も人間なので、似たような人はいるだろうと思うわけです。僕が面白いと思う映画なら、誰かしら面白がってくれるはず。全員じゃないと思いますけどね。それはしょうがない。最初から無理ですから。全員が共感するなんて絶対にあり得ないわけです。もう映画館に来てくれるだけで、それは相当、ある意味特殊な人たちです(笑)。だから、その人たちの例えば、7割くらいが面白がって帰ってくれればいいと思っています。7割。いや、もう少し面白がって欲しいかな(笑)。

―― 海外の人たちに受ける要素がもし何かあるとしたら、想田監督自身が海外の目を持っているから。

想田 そうですね。そうじゃないと、たぶん満員電車とか撮らないですよね。選挙という風景もたぶん当り前すぎてカメラを向けようとしないと思います。カメラって、当り前のものには向かない習性があるんです。カメラを向ける対象というのは、必ずちょっと変わっているとか、ニュースバリューがあるとか、貴重なものです。僕等がカメラを使うときのことを考えてもそうですよね。

―― そうですね。

想田 誕生日や、旅行に行ったとき、誰か有名人に会ったとか、何か貴重な瞬間です。日常ではないときにカメラって使うものですよね。だから、日常にカメラを向けること自体、実はかなり不自然なことをやっているんですよ。だけど、不自然なことをやることで、無意識が暴かれていくといいますか。

 僕等の日常のほとんどは無意識のうちに行われています。僕自身もそうです。例えば、駅に行くときは、駅に向かうことしか考えてないですよね。じっくりじっくり毎日、駅に向かう道の途中であらゆるものに向き合うなんてことはないですよね。「おぉ・・・、ここに敷かれているのはアスファルトじゃないか・・・!」なんてですね(笑)、「おぉ・・・、ガードレールがず〜っと続いているじゃないか・・・!」、車が通りかかったら「うわっ、車だ・・・。どうやって動いてるんだろう・・・??」なんて、いちいち向き合わないですよね。ですが、そうやって撮っていくのが観察映画なんです。

作為をぐっと堪える

―― 『選挙』では、監督は自分から発話はされることはあまりありませんでしたが、『選挙2』では、わりと口も出されています。「観察する」とは、物理的に「何もしない」ということではなく、「できるだけ純粋な触媒になる」というようなことだと思いますが、これまで作品を撮られてきたことで思われたことや、今後自分の立ち位置はどうなっていきそうな感覚があるか、その辺の話を少しお聞きしたいと思います。

想田 そうですね。そこは非常に重要なところですね。いまおっしゃったことは、たぶん僕なりの言葉に翻訳すると「無作為の作為」ということです。これは、自分の本(『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』講談社現代新書)にも書いたことですが、無作為の作為とは、「自分の思いどおりにならないようなことをすることによっておもしろい作品をつくろうとする作為」です。

 観察映画も作品をつくるわけですから作り手の作為というものは必ずありますよね。「この作品をつくりたい」から、カメラを回しているわけです。そのときに「こういう作品にしたい」と思うのが普通の作為ですね。だけど、僕はその考えは持たないようにしています。「こういう作品にしたい」と思わない。ではどうするかというと、無作為に起きることを観察しながらそれを撮っていくということです。そういう、ある意味高度な作為です。

 撮影しているとやっぱり頭をもたげるんですよ。「この人、もう少しこういうことを言ってくれないかな?」とか「山さん、できるなら毎日街頭に立ってくれないかな?」とか「このままじゃ、さすがに何も起きない・・・」「映画にならない・・・」とかね。ですが、そういうときにぐっと堪えるわけですね。ぐっと堪える。

 どうやって堪えるかというと、ここでまた「観察」がキーワードになるわけです。だから「観察映画」なのですが、「目の前の現実をよく観察する。それを映画にする」ということです。そうすると不思議なことに「ああしたい、こうしてほしい」といういわゆる普通の作為はすーっと消えていくんです。やってみるとおもしろいですよ。雑念を消す最良の方法は「観察」することです。

old73-4.jpg(C)2013 Laboratory X,Inc.

人は未来のことも過去のことも観察できない

想田 これには理由があるんです。なぜかというと、雑念は必ず過去か未来にあるものだからです。「ああしてほしい、こうしてほしい」という欲求の関心は、未来にありますよね。いま目の前で話している人のことには関心を払っていないわけです。まだ起きていないことに関心を持っている。

 あるいは、撮影中も「いまのショットしくじったな、くそーっ!」と思うことはよくあります。そこにこだわることは、過去に縛られるということです。後悔は過去に存在し、期待は未来に存在する。どちらも現在にはないものです。雑念とは人を現在から引き剥がすものなのです。

 人は未来のことも、過去のことも観察できません。現在起きていることしか観察できない。逆説的ですが、観察とは現在起きている出来事を見つめるということです。だから観察することで意識が「いま」に降りてくる。これは瞑想と近い。仏陀は観察瞑想で悟ったといわれていますが、僕はそのことの意味はすごく大きいと思っています。

 もちろん僕はそんな境地にはいないのですが、わかる気がするんですよね。間違ったことにあまり惑わされなくなるといいますか。仏教的には「妄想」という言葉が使われますが、未来のことも過去のことも全部妄想ですよね。そこにはないものです。そういった概念を扱うのではなく、観察することで現実に直接触れることがすごく大事なことだと思います。

―― それは、相手がほしいものを考え、想像してそこに向けて投げ込むということとは違うものですね。

想田 そうですね。違いますね。僕は作品をつくっているとき、誰に向けてどうやって売るかはまったく考えません。作品ができてから考えます。だから、売りにくいものばかりつくってしまうのです(笑)。『選挙』や『精神』にしても、もともとはすごく売りにくい映画ですし、『演劇』に至っては5時間42分の大長編。誰が上映してくれるんだ? と思いました。『Peace』だって、それこそ地味な映画です。自分のなかでは、『Peace』が一番好きですけどね。ですが、つくっているときに、売り方まで考えるとまさにそれが雑念になる。つくるときはつくる。そして、できたときに「さぁ、どうやって売ろうか」と考える。

 ですが、本気でつくっているので、売る段階に至ったときには、作品に対して僕はある程度の自信があるというか、揺るぎないものを持っているのですね。世に出したい理由がある。必ず。「ここがおもしろいはずだ」というポイントがたくさんあるわけです。だからそれが、売るときの切り口になると思うのですね。自分の球に自信があれば、売るための切り口は必ず出てくるはずで、むしろ出てこない方がおかしいと思っている。

 5時間42分の『演劇』は、妥協しなかったこと自体がひとつの達成なのですね。それをアピールする。キャッチコピーは「珠玉の5時間42分! 大長編!」といった具合です。そうするとむしろ皆さんは大作としてみてくれる。けっこう驚いたのは、上映後の質疑応答で「今日は会社を休んで来ました」という人が多かったことです。

独立してやるということ

想田 よく考えるとそうですよね。会社を休まないと観に来られないわけですから。だけど、制作中に会社員の都合を考えていたら絶対に5時間42分にはできない。会社を休んでまで観にきてくれるとは思いませんからね。「観客がどう見るか?」と予測する内容は、おそらく間違いなく間違っている。

 だから、そんなことは予想せずにやりたいことをやりたいようにやればいいんじゃないか? と思っています。僕自身、つくり手が、つくることだけ、映画のことだけ、作品のことだけを考えてつくったものを見たいです。好き勝手にやっているもの。「9時間の映画かぁ。観客のことなんて、何も考えてねぇな、こいつ。じゃぁ、見てやる」みたいなね(笑)。そういう感じです。どうしたらそういう映画作りが可能になるかというと、やはり経済的に独立しているということが条件だと思います。

 忌野清志郎さんが亡くなる前に、『ロックで独立する方法』(太田出版)という本を残されています。これがすごくおもしろくて、忌野さんもいかに依存せず独立してやっていくかということを考えていたのだなと思いました。いかに自分の主体性を守れるかということです。僕の観察映画にしても、経済的独立性を背景にしなければ絶対にできないやり方です。

 というのも、観察映画ではリサーチしない。何も書かない。概要すら書かない。ということは、誰にも提案できないということですから。「いまこういうことを考えているのでお金くれませんか?」とは言えないんですよね。僕もどんな映画になるかわからないですし。もしかしたら、今後は製作前にお金を出してくれる人も現れてくれるかもしれませんが、それは相手が僕の独立性というものを尊重してくれた上でお金をくれるのであって、これまでの経済活動でいえばあり得ないことですよね。

―― そうですよね。

想田 では僕はどうやっているかというと、自己資金でやるわけです。自己資金でつくって公開し、興行の権利を日本や外国に売って制作費を回収するわけです。回収してそれを今度の映画に投入する。自己完結で資金の流れをつくる。大した資金ではありませんが、小さいからそれができるわけです。

―― そうやっていこうと思われたのはいつ頃ですか?

想田 『選挙』を撮ったときは、「たぶんこの映画は一銭にもならないだろう」と思っていました。実は。カメラを買った経費くらいは、もし入ってきたら万々歳、みたいな。なのでそのころは、他の仕事をやりながら観察映画もほそぼそとやっていけたらな、というくらいだったんですね。ところが『選挙』がヒットして、海外に売れたりして、「まてよ?」と。もしかして、これを動かしていったら回るんじゃないかと思うようになりまして。

 あと、映画を作って売る仕事がだんだん忙しくなってきて他の仕事ができなくなってきてしまったんですね。そして、やっているうちに、映画のことしかやってないな、ということになり、いまは本当に映画のことしかやっていません。『精神』をつくっている頃はすでに映画以外のことはやっていませんでしたね。

―― 『精神』の撮影は、いつ頃だったのですか? 

想田 2005年から2007年です。実は、最初『精神』を撮りたくて機材を揃えていたんですよ。で、『精神』を撮るために日本に行く荷造りをしているときに、山さんが出馬するという話を友達から聞いて、『選挙』を先に撮ることになったのです。

 映画のなかで、同級生の集まりのシーンがありますよね。あの中の一人が川崎に子供と遊びに行ったら、山さんの選挙の事前運動用ポスターが張ってあって、そのポスターの写真を撮って僕のところにメールしてきたんですよ。「こんなポスターが貼ってあったけど、山さんどうなってんの?」って(笑)。

 そんな、ニューヨークにいる僕が知ってるわけないじゃないですか(笑)。だけど、その写真がすごくおもしろくて。本当に情けない写真なんですよ。七五三みたいなスーツを着て、山さんが「にっ」と笑っている。それが民家の軒下にすごく情けない感じで貼ってある。で、「自民党」って横に大きく書いてあるんですよ。「この図はなんだ?」みたいな(笑)。それが映画の最初のインスピレーションですね。

 しかも、ちょうど僕が『精神』を撮るために日本に滞在する期間中に山さんの選挙運動と投開票がある。だから『精神』を撮るのを少しずらすことにしたのです。そして『選挙』については、2005年10月23日が投開票で、無事当選してバンザイバンザイとやるところまでを撮って。当選した山さんは「僕が初登庁するとこまで撮らないの?」って、もうノリノリだったんですけど、僕は「ダメだよ俺、次あるから」と言って、24日には岡山へ向かう新幹線に乗り、25日から『精神』を撮り始めました。山さんは「なんだよ、バッジをつけるとこ撮らないの?」と言って随分残念そうでしたけどね(笑)。

―― 山さんらしいですね(笑)。それでは『選挙』がきっかけで、映画だけで仕事が回る流れができていったのですね。

想田 最近はいわれなくなりましたが『選挙』を撮ったころは、「『選挙』が注目されたから、次はもっと大予算でやれるんじゃない?」と言われることがよくありました。そうじゃないんですよね。「俺はこのやり方でやりたいんだよ」って。

―― 予算がないからということではない。

想田 違います。違います。映画や会社を大きくしたいなんてちっとも思っていない。大きい予算をかけたいともまったく思いません。だって、どこまで大きくしたらいいのかわからないですよね。終わりがない。飽くなき欲望だけですよ。絶対に満たされない願望ですよね。むしろ追求すれば追求するほど、渇望感が高まる。それよりも、やりたいことを継続できる方法を考えていきたいですよね。

old73-6.jpg(C)2013 Laboratory X,Inc.

―― そう思います。ぜひまた「観察映画」について詳しくお聞きしたいです。今日はたくさんお伺いし、本当にありがとうございました!


想田和弘(そうだ・かずひろ)
1970年栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒。スクール・オブ・ビジュアルアーツ卒。93年からニューヨーク在住。NHKなどのドキュメンタリー番組を40本以上手がけた後、台本やナレーション、BGM等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。その第1弾『選挙』(07年)は世界200カ国近くでTV放映され、米国でピーボディ賞を受賞。ベルリン国際映画祭へ正式招待されたほか、ベオグラード国際ドキュメンタリー映画祭でグランプリを受賞した。第2弾『精神』(08年)も受賞多数。2010年9月には、『Peace』(観察映画番外編)を発表、2012年、劇作家・平田オリザ氏と青年団を映した最新作『演劇1』『演劇2』を劇場公開。著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇vs.映画ードキュメンタリーは「虚構」を映せるか』(岩波書店)等。

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