クラフト・エヴィング商會と私ーー『京都で考えた』を考えた 岸本佐知子

2018.05.08更新

 京都で考えた、という文字並びをじっと見つめる。

 まず何といっても気になるのは、文に主語と目的語がないところだ。いったい誰が何を考えたというのか。

 いや、誰が、は実はわかっている。なぜならこれは吉田篤弘さんが書いた本のタイトルであって、だからきっと考えた主体は吉田篤弘さんであるにちがいないのだ。

 問題は、何を、だ。しかしそれこそがつまり本の内容なんであって、そんなの本を読めば一発解決じゃないですか、と目元涼やかな若サラリーマンが眼鏡をくいと押し上げながら言う。

 私もできることならそうしたい。が、できない。なぜなら本が手元にないからだ。本がないまま本について書くというミッションをうっかり拝命してしまったのだ。あんたそりゃ無茶だよ、と巣鴨のおばちゃんが孫の手で背中を掻きながら言う。お下げの幼稚園児はさめざめと泣きだす。

 待てみんな落ちつけ、と後藤先生がぱんぱんぱんと手を叩いて言う。後藤先生は小一の時の私の担任の先生だ。わからないときは問題を分けて考えなさいと、先生いつも言ってるだろう。

 そうだった。私は気を取り直し、設問を三つに分けてみた。「京都」「考えた」「吉田篤弘」。そしてあらためて眺める。

 まず「京都」。いきなりの強敵登場だ。

 京都に私はそれほど詳しくない。何度か旅行で訪れただけだ。が、その何度かの旅はすべて素敵な思い出で彩られている。素敵な古寺。素敵な町並み。素敵な喫茶店。素敵な河原。素敵な大文字焼。どこもかしこも素敵でないところがない。こんなころで暮らせたら、と憧れる。

 だが京都には恐ろしい噂もつきまとう。例のぶぶ漬け問題だ。ベタだと笑わないでほしい。私はただでさえ空気の読めない、不文律に対して盲目な、気の利かない、そしてそれらのために人生で数々のやらかしをしてきた人間だ。因習うずまく古の都のあちこちに埋設されている阿吽や行間やお約束の地雷をどかどか踏みまくり、爆死しまくるにちがいないのだ。ためしに京都出身の知り合いに「京都ってそういう街なんでしょ?」と訊くと、みんな一様に「まさかあ、そんなの都市伝説だよ」と言って笑う。でもなんだか目が笑っていない。恐ろしい。心の金玉がヒュッと縮む。

 そもそも私は古都と相性が悪い。パリでは犬のフンを踏みエッフェル塔でボラれ靴をなくした。コルドバでは食当たりし道に迷い土産物屋でボラれた。リスボンでは仲間割れし変な馬車に乗せられ馬車賃をボラれた。古都こわい。いつか古都に殺られる。

 「考えた」。これまた私の宿敵だ。この世で一番苦手なことと言っていい。今日は特にそうだ。今朝パソコンが壊れてブックマークがすべて消滅した。一瞬頭が真っ白になった。まだ真っ白なままだ。もう一生真っ白なままかもしれない。頭もブックマークも。長年コレクションしてきた面白ブログが。役立ちサイトが。お洒落インスタグラムが。が。

 「吉田篤弘」。これについてはちょっとばかし知っている。吉田さんはおいしいものが好き。吉田さんはビートルズのホワイトアルバムを何十枚も持っている。吉田さんは飛行機に乗れない。吉田さんは面白い小説を書き美しい装丁をする。吉田さんは私と小学校がいっしょ。でも担任はたぶん後藤先生じゃない。そして吉田さんはいつでもどこにいても東西南北がわかる。体内に磁石でもあるんだろうか。あ。これもしや京都では強力な武器じゃないか。京都の碁盤の目を地図なしにすいすい歩く吉田さん。歩きながら考える吉田さん。ときどきコーヒーを飲み金平糖を買う吉田さん。彼はきっと爆死しない。彼なら古都と渡りあえる――。

 さて。三つに分けて考えてみたけど、私はいったい『京都で考えた』について何かわかったんだろうか。振り返ると、後藤先生の姿はもうどこにもない。眼鏡の若サラリーマンも幼稚園児も巣鴨のおばちゃんも消えてしまった。なんだかすこし寂しい。私はいますこし寂しい気持ちで本の到着を心待ちにしている。早く本を手に取り、ページを開きたい。京都で吉田さんが何を考えたのか、とても知りたい。


岸本佐知子(きしもと・さちこ)
1960年生まれ。上智大学文学部英米文学科卒。翻訳家。訳書に『いちばんここに似合う人』(ミランダ・ジュライ著、新潮社)、『話の終わり』(リディア・デイヴィス著、河出文庫)など多数。著書『ねにもつタイプ』『なんらかの事情』(共に、ちくま文庫)をクラフト・エヴィング商會が手がけているほか、共著『「罪と罰」を読まない』(三浦しをん、吉田篤弘、吉田浩美、文藝春秋)も刊行している。

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