第2回
音楽賞を立ち上げたナルラーの夢と現実
2024.10.10更新
俺は何をやっているのだろうか。
何らかの熱意が湧き上がると、猪が突進するかのような勢いで駆け出してしまう。後先を考えていないわけではないが、引き返せない段階まで進んでから、最初に書いたような文言がため息と共に全身から漏れ出して、見通しの甘い自分の能力を呪い、方々で途方に暮れて続けているのが俺の人生なのではないかと感じる。
ここはひとつ、「恥の多い生涯を送ってきました」と告白し、自分は人間を失格した獣の類であることを認めて、入水はちょっと怖いので都会からも比較的近い六甲のあたりから入山、自然に帰って暗いとか明るいとかいう気持ちの外側で暮らしたい、でも時折街に繰り出して暴れたい、そういう破滅的な、退廃的な願望が湧き上がる。が、そうしたネガティブな願望を、静岡県中部民の特性、「なんとかなるらー」精神が恐ろしい速度で追い越してゆく。
はっきり言って、人生には何ともならないことが多い。その何ともならなさと対峙して、それらに一応の区切りというか踏ん切りをつけて、「なんとする」みたいな営みを積み重ねることが人生、生きるということではないかと思う。しかし、この「なんとかなるらー」精神は恐ろしいもので、対峙すべき問題を宙吊りにし、一旦旧国道沿いのレンタル・ルームに保管し、家族で熱海へ旅行に出かけるようなエネルギーに満ちている。熱海の温泉に浸かるうちにレンタル・ルームに預けたことを忘れてしまって、問題の重みでコンテナのドアが崩れ落ちて中身が露わになり、近隣の住民が騒ぎ出すまで放置してしまうことも間々ある。
静岡を飛び出してから30年。人間の何ともならなさを歌った暗い曲もいくつか書いて歌ってきたつもりだが、精神の地底では「なんとかなるらー」の水脈と通じており、絶望し切ってうっかり入水してしまいそうな局面でも、そうした精神が俺を助けてくれた。入山もせずに済んだ。しかし、それで問題が解決されるかといえばそういうわけではなく、コンテナの扉が崩れることは少なかったが、レンタル・ルームの前で凍りつき、立ち尽くすという機会が何度もあった。
悲しいことだと思う。
数年前に「アップルヴィネガー」という音楽の新人賞を作る夢を見た。なぜに「リンゴ酢」なのかは未だによくわからないが、自分の活動が音楽賞とは無縁だったことに対する怨念のような、逆恨みのような心情が深夜に爆発したのかもしれない。しかし、その夢には社会に対する前向きなメッセージも込められているような気がして、自費で音楽賞を作る夢を見たとTwitter(現X)にポストしたところ、思想家の内田樹先生が「絶対にやったほうがいいよ」と返信をくれた。内田先生がそう言うのだからやったほうがいいのだろう、そう思った俺は「なんとかなるらー」精神をカジュアルに発露するナルラーと化し、音楽賞を立ち上げることにしたのだった。
クラブやライブハウスなどを中心に活動しているインディのアーティストにとって、制作費は切実な問題だ。あと一握りの予算があれば、もう一日スタジオに篭れたり、優秀なエンジニアを雇ったり、新しい機材を試すことができたりするのに、という現場が無数にある。そうした経済的な苦境は、音楽性を問わず様々な場所で加速し続けてると感じていた。
己のバンドはメジャー・レーベルからの多大な制作費によって、希望すれば都内近郊の大きな録音スタジオを曲作りの段階から使用することができる。しかし、個人的に手伝っているインディの現場は予算が限られており、作曲からそのようなスタジオを使用すると3日くらいで予算を使い切って皆で入山するハメになってしまう。ゆえに、スタジオのランクを少し落としたり、あるいは俺が自作したスタジオに引き揚げるなどして、楽曲制作の工夫とは別に限られた予算でクオリティを落とさない努力が必要だった。そうした環境負荷や努力が音楽的に素晴らしい瞬間を作ることもあったけれど、しなくて良い努力もあるのではないかと感じることも多かった。
ただ、そうした工夫や努力はもっと誉められていいのではないか、音楽の裾野とでも呼ぶべきインディーズ音楽の現場に目を向けてもらうことが、多くのミュージシャンのみならず俺の入山を未然に防ぐのではないか、というような想いが心身のどこかで煮えていたのだと思う。ゆえに、普段の淫夢ではなく、音楽賞を作るという夢を見ることになったのだ。
早速、賞を作ろう。そうしよう。瓜坊たちよ、お父さんはちょっと街に出て暴れてくる。なんかあの、売り上げランキング圏外は屁、何かの主題歌以外は無、有名じゃないのは糞だから、みたいな感じの雰囲気、ぶっ壊して来ます。的な気持ちでいろいろな音楽を聴き、もちろん網羅はできないけれど自分にできる範囲で優れた作品を選び、賞賛しようと考えた。
しかし、どうだろう。それは何と言うか、「俺の年間ベスト」的な、個人のブログでやっとけや的な、野暮の塊のような行いにならないだろうか。そういう不安が全身を駆け巡って背筋が冷えた。眼鏡のおじさんが通りすがりに、聞こえるかどうかよくわからない声量で「あんたはすごいよ」と言って去っていく。眼鏡のおじさんは満足そうだが、憤りの源泉である経済的な格差や機会の不平等みたいな問題はまったく解決せず、また周知もされず、おじさんのやってやった感だけが満たされていく。
これほど悲しいことはないと思った。
ちゃんと贈り物をせねばと思った。俺は一旦、猪の毛皮を脱いで、自分が出すとしたら一体どのくらいの賞金だと持続可能性があるのかということについて考えた。情けない話だが、100万円を毎年払うのは厳しいな、入山の可能性が高まるなと思った。そうした個人的な金銭感覚もあったが、何かこの、知らないおじさんが100万円を配っている風景の気味の悪さと、それをもらった側もいくらかの恐ろしさを感じるのではないか、と考えた。使ったりすると呪われそうなので交番に届けてしまうかもしれない。ということで、お互いの精神衛生の面を考慮して、賞金10万円を毎年誰かの作品に送ろうと決めた。
しかし、どうだろうか。音楽賞の賞金が10万円はショボくないか、という気持ちも隠せなかった。俺が吝嗇だと思われるかどうかはこの際端に置いたとしても、倍くらいあると、一日のスタジオ代やワンランク上のマイクや録音機材に手が届く可能性が広がるのになとも思った。やっぱり入山だなという気持ちがぶり返して、猪の毛皮に足を通し、袖を腰のあたりで括って机に座り、ギリ人間のままだった上半身を使って、賞金がもっとあったらな的な文言を世界に向かって俺はポストしたのだった。
「ゴッチ、俺も賞金出すよ」
反応してくれたのは坂本龍一さんであった。率直にとても嬉しかった。嬉しさの勢いで猪の毛皮の袖に腕を通し、俺はもはや山ではなく音楽賞に向かう猪として猛進をはじめていた。何かこの、夢に見たような偶然や、反応してくれた尊敬する人たちの言葉や態度、あるいは直感のようなものを信じて走ってみよう、そう思ったのだった。
で、いろいろあった。多くの人の協力によって、アップルヴィネガー賞は音楽賞らしくなった。
しかし、音楽賞への責任と、その権威的な性質に精神を焼かれたりもした。人の作品を評価することの難しさ、不遜さを考えると胸だけでなく胃も痛い。毎年きっちり痛い。重い。なんということをはじめてしまったのか、という気持ちで、毎年レンタルルームのコンテナの前で途方に暮れている。
もう少し身体を使って、誰かの助けになりたいなと思った。猪の衣装はコンテナにしまって、よく考えなければいけない。
冷たい風が吹き荒んでいた。
みるみると身体が冷えて、脳が凍っていった。
編集部からのお知らせ
音楽スタジオづくりのクラファン、始まりました!
滞在型音楽制作スタジオ「Music inn Fujieda」をつくるため、後藤正文さんを創立者とするNPO「アップルビネガー音楽支援機構」のクラウドファンディングがスタートしました。
クラウドファンディング「地域と音楽をつなぐ滞在型音楽スタジオを作る。」
期間:2024年12月15日(日)まで
URL:https://camp-fire.jp/projects/771536/preview?token=up4sjb3n
インディーで活躍する音楽家たちの活動の手伝いをしてきた後藤さんが、誰もが経済的制約を受けずに、自由に音楽を制作できるスタジオをつくりたいという思いから始めたプロジェクトです。
明治時代に建てられた土蔵をレコーディングスタジオに改修し、隣接するビルに宿泊施設とコミュニティスペースを整備する予定。文化を次世代につなぐための「共有地」づくりの試みを、応援いただけたら嬉しいです!