ぼけと利他 村瀨孝生と伊藤亜紗の往復書簡

第1回

答えを手放す(村瀨孝生)

2020.09.03更新

 7月、ミシマ社が主催するオンラインイベントMSLive!にて、「ぼけと利他」というテーマで美学者の伊藤亜紗さんと、福岡で「宅老所よりあい」を運営されている村瀨孝生さんにご対談いただきました(ご対談の一部はこちらからお読みいただけます)。
 白熱した内容に、視聴者の方々から大きな反響をいただき、そしてご対談いただいたお二人からも、まだ語り尽くせていないというお話をいただき、このたび、往復書簡という形で、お二人の対話が続くこととなりました。月の前半に村瀨さん、月の後半に伊藤さんからのお便りを更新していきます。どうぞお楽しみください。(編集部より)


 「利他」の問題を考えるときに、お年寄りとかかわることは究極な感じがしています。自分が働きかけてもフィードバックがいまいちわからなかったり、違う形で返ってきたり、本当にこれで良かったのかと確証が持てないまま時間が過ぎていくことがよくあると思います。その事実に付き合っていくことは、どんな感じですか?(伊藤さん)

 対談では「自分が働きかけてもフィードバックがわからない、本当にこれで良かったか」という問いに、「身体を媒介に意思を確認してきた」(生理的快適への配慮)という話をしました。その意思とは、考える「私」の意思とは違うものです。肉体としての脳を含む体の欲するところといえばよいのでしょうか。
 介護者は「本当に良かったのかという確証」がなくても、行為(特に生理的なことは)せざるをえないので、何とかして「これで良いのではないか」というレベルに自らを持っていかないと行為できないんですよね。その根拠を体に求めました。
 気持ちの良い時は、やっぱり気持ちの良い顔になる。気持ちの悪い時は、気持ちの悪い顔に、痛い時は痛い顔。そういう意味では、顔は口や目よりものを言います。言葉に依れない以上、そこに依るよりなくて、体を通して繋がれる(繋がる努力をする)という話をしたのだと思います。
 けれども「本当にこれで良かったのかと確証が持てないまま時間が過ぎていくことがよくあると思います。その事実に付き合っていくことは、どんな感じですか?」に触れなかったなぁと思いました。やはり、その、もやもやとした感じを言葉にしておきたい。じゃないと、もやもやするので。(笑)

 前置きが長くなりました。

 荒ぶるぼけのある人は、一般的に介護しにくいと思われています。昔は問題行動のある人と言われて忌み嫌われていました。今も、です。確かに介護する側の都合がことごとく通用しない、歩み寄らない。(当事者からすれば、歩み寄りたくても、寄れないのですが)よって共存が難しいと感じられてしまいます。
 けれど、見方を変えると介護しやすいのです。介護する私や家庭、社会の「都合」に対する抗いが、当事者の意思として浮き上がるからです。「今、その時間じゃない。ここじゃない」。「それは、私の時間じゃない。私の場所じゃない」と。その理由はわかりかねても、「抗い」という行動が意思であると思える。
 荒ぶるぼけには、介護する者が身を委ねることができます。「委ねる」とは具体的にいうと、介護者が荒ぶりに対して、ちゃんと恐れ慄いて引き下がること。かなと思います。委ねてしまえば、問題が問題じゃなくなるし、相手を尊重したことになる、と思える。そうすれば、改めて「今ならいいですか、ここでいいですか」と問い直せます。そのタイミングを一緒に見つける努力ができます。それは関係の始まりでもあります。

 一方で、荒ぶりのないぼけの人(老いの深まった人)は介護が難しい。言葉も発しない全介助。自分から歩かないけど、手を引けば歩く。歩けなくても車いすに乗れば、何処にでも連れて行ける。食べようとしないけど、口元に食事を運べば、だいたい食べる。排泄は介助したから出るというわけではありませんが、濡れたパットは替えさせてくれる。強い抵抗もない人がいます。介護者の思い通りになってしまいます。
 NOはないけど、OKもない。もし介護者が食事の手伝いをしなければ死んでしまうでしょう。それでも、恨まないだろうなぁと思います。たとえ献身的に食べる手伝いをしたとしても感謝はないでしょう。そんな「自意識的な要求の無さ」、「生きるも死ぬもあなた次第」という他人事のような無私的態度に途方に暮れます。伊藤さんの言う「これでよかったか確証の持てない」状況です。
 本当は介護する僕たちが「わかっていない」のですが、その状況に耐え切れずいつのまにか介護されるお年寄りを「わからない人」にすり替えてしまうのです。そうなると介護が作業になり、人が物になっていく。やっぱり、人を物のように扱うわけにはいかないよなぁと葛藤する。
 よって、自分を問い続けます。「いま、この人とどう過ごすのか」。「どう過ごしたらいいのか」。「どう過ごしたいのか」。悩むことになります。この無防備な付託に対して。
 自分が問われるというのは、あまり気持ちが良いものではありません。やっぱり、良い面より嫌な面が際立つのです。自分の嫌な面を知れば知るほど、独りよがりになれなくなる。なんとか「これでいいですよねぇ」と、手応えが欲しい。よってその模索に勤しみ続けることになります。
 モヤモヤし続ける。いつも、現在進行形で過去にならない感じです。それが、付き合っていくときの感じでしょうか。介護者も答えを手放して付き合い続けるよりほかないのですが、面白いのは、「答えを手放す」と楽になってくるのです。開放感が出てくる。

 それでも「わからない」「モヤモヤ」「葛藤」「これでいいよね」と問い続ける感情のループは、不安定であり続けることなのですが・・・、それを手放さないことが大切なのかなぁと感じます。不安定であり続けることで、安定が孕まれるように感じます。

 2年ほど働いて、介護する意味を見失った新人職員がいます。「老い」が不在の文化を育んだ社会に「老い」の反映された制度が生まれるはずもありません。そのあおりもあって介護することに疲れ切った彼女は、ぼけや全介助のお年寄りを「ただ食べて出すだけの存在」として負担に感じるようになりました。生きる意味、存在する価値を見出せない。そんな自分も嫌になってしまった。頭で思考し行動することが「人」であるという人間像だと、食べて出すだけの存在に思えてしまい意思を感じることは難しくなる。本当は彼女の問題に収まらない社会の問題でもあるのですが・・・。
 (分解という生命全体の営みから人間を俯瞰してみれば、人は死ぬまで、死んで躯となってからもその営みの中で生きます。その文脈からすれば、「食べて出すこと」は全ての命の使命であり、全ての命が協力し合わないと達成できない生産活動であると考えることもできます。しかし、それは「しなければならない」「しなくてもよい」といった判断の余地を許さないただの「する」です。あえて意味づけするならば、その営みを邪魔しない(阻害するものを遠ざける)のが介護の本質かもしれない・・・。生き物は種の保存のために生殖しているのではなく、分解という命全体の営みのために生殖していると感じてしまいます。すみません。飛びすぎました。これは余談ですね。ナウシカで盛り上がったところです。)

 生理的な現象にも他者が関わることで明確な主張を孕みます。食べたくなければ口が開かない。たとえ無理に口の中に含ませたとしても喉は飲み込まない。排泄は頼んで出るものじゃないし、かと思えばところ構わず出るときは出ます。睡眠も同様です。食事、排泄、睡眠には、他者がどんなに頑張っても、代わることのできない主体(営み)があります。それは意識でコントロールしきれるものでもありません。よって一般的には反応と呼ばれてしまいますが・・・。手で触りながら、体の営みに触れることで、体の意思に手応えをえる。これが、対談で飛び出した生理へと繋がる話です。

 最後にもう一つ。
 介護の現場では優先事項の選択に迫られることが、多々あります。荒ぶらないぼけのあるお年寄りにとって「今、トイレに行った方がいいな」と思って入室すると同時に荒ぶりやすいぼけのお年寄りが荒ぶり始める。そうなると、やはり、荒ぶるお年寄りを優先せざるを得ない。危機の回避が優先されてしまう。
 後回しになる荒ぶらないぼけのお年寄りに、後ろめたい気持ちになる。そんな時、祈っていました。内実は言い訳です。「本当は今、あなたの元に行くべきなのですが、荒ぶるぼけが僕を呼んでいます。お許しを」。言葉にすればこんな感じです。ちょっとだけ、目をつむりそのような気持ちで許しを請う祈り、協力を請う祈り。そして、部屋を出る。
 同時に「これは僕の都合ではありません。荒ぶるぼけにみまわれたお年寄りに成り代わりお願いしているのです。」と言い訳の言い訳をする。信仰とはほど遠く、宗教的とも言い難い単なる心のつぶやきでしたが、僕の生活に初めて息づいた、声なき人に対する現実的な祈りでした。少なくとも僕にとっては。「私」を手放したかのように見えるお年寄りは、そんな力を発揮しました。そもそも、僕は祈りをささげるような人間じゃないのです。改めて考えてみれば、荒ぶるぼけに出くわした僕が荒ぶりのないぼけの力を借りて、自分の気持ちを鎮めるために行ったのかもしれません。

 お付き合いありがとうございました。
 伊藤さん、気分転換になれば幸いです。改めて『どもる体』、最高に面白かったです。驚きながら、そうかと思いながら、読み進み、終盤では涙がでました。うれし涙です。

 伊藤さんのおっしゃる「利他の問題を考えるときに、お年寄りとかかわることは究極な感じ」。改めて面白いと思いました。なぜ、究極なのか。対談の流れでは、伊藤さんのお考えを聞けなかったことが残念でした。厚かましいお願いですが、知りたいです。

村瀨 孝生/伊藤 亜紗

村瀨 孝生/伊藤 亜紗
(むらせ・たかお/いとう・あさ)

村瀨 孝生

1964年、福岡県飯塚市生まれ。東北福祉大学を卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として勤務。1996年から、「第2宅老所よりあい」所長を務める。2015年4月より特別養護老人ホーム「よりあいの森」施設長。著書に『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『看取りケアの作法』(雲母書房)、『おばあちゃんが、ぼけた。』(新曜社)など多数。

伊藤 亜紗

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター、リベラルアーツ研究教育院准教授。マサチューセッツ工科大学(MIT)客員研究員。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。東京大学大学院人文社会系研究科美学芸術学専門分野博士課程修了(文学博士)。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など多数。

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