小さき者たちの生活誌小さき者たちの生活誌

第3回

いのち

2018.06.18更新

「チッソってどなたさんですか」と尋ねても、決して「私がチッソです」という人はいないし、国を訪ねて行っても「私が国です」という人はいないわけです。そこに県知事や大臣や組織はあっても、その中心が見えない。そして水俣病の問題が、認定や補償に焦点が当てられて、それで終わらされていくような気がしていましたし、チッソから本当の詫びの言葉をついに聞くこともなかったわけです。
(緒方正人『チッソは私であった』葦書房、40頁)

 水俣病患者への認定と補償を求める運動に身を投じ、のちにその訴訟から身を引き、独自の運動をはじめた緒方正人の著書から。

 緒方は、6歳のとき、漁師だった父親を水俣病で失う。自身もめまいや痺れに悩まされながら、父親の仇を討とうと、水俣病患者の運動に加わる。チッソに責任をとらせるため、国や熊本県にチッソに荷担した責任を認めさせるために、県庁や環境庁、裁判所などを何度も訪ねるうちに、疑問がわいてきた。そこにあるのは、ただ手続きとして制度化され、金銭に換算された「責任」だけだった。もっとも大切なはずの「人間の責任」はどこにもなかった。

 緒方は、そのときの心境を「自分が目に見えないシステムと空回りしてけんかしているような気がしてきました」と吐露する。チッソの社長や役所の担当者もころころと替わり、訴訟のなかで裁判官も入れ替わっていく。そこには問いを受けとめてくれる相手も、責任をとるべき人間もいなかった。その問いかけは、むなしく自分自身に跳ね返ってくる。

 商品を作れば作るほど売れて儲かるチッソという会社で自分が働いていたとしたら、「加害者」として責任を追及してきた相手と同じことをしたのではないか。絶対にしないとは断言できない。

 気がつけば、自分も車を買って運転し、家には家電製品があり、仕事でプラスチック製の船に乗っている。チッソのような化学工場で生産する材料で作られたものに囲まれた生活をしている。近代化し、豊かさを求めるこの社会に、自分も生きている。そうして緒方は「チッソというのは、もう一人の自分ではなかったか」と自問する。

 水俣病の認定申請をする協議会から離脱し、自身の認定申請も取り下げてひとりになったあと、緒方は3ヵ月ほど「狂いに狂っていた」。テレビの画面を見るだけで耐えられなくなり、外に放り投げて壊す。信号機や道路標識を見ても抑えがたい嫌悪感を覚える。

 テレビを見ていると「あれを買いなさい、これを買いなさい、観光にはハワイに行きなさい」と一方的に言ってくる。信号や道路標識は「ここは右に行くな」「何キロで走りなさい」と決まりを押しつけてくる。あらゆる一方的に指示してくるものに、強烈な拒絶感を抱くようになった。

 それは巨大な「システム社会」への拒絶反応だった。法律や制度だけでなく、時代の価値観が構造的に組み込まれている世界の恐ろしさ。このままいけば、システムが生み出す空虚な「責任」の仕組みのなかに自分も取り込まれてしまう。

 水俣病事件が提起したのは普遍的な問いだ。いまも同じことが繰り返されている。では、どうしたらいいのか。緒方が手がかりにしたのは「命の記憶」だった。

 不知火海の漁師たちは、「奇病」や「伝染病」が騒がれながらも、魚を食べつづけてきた。チッソを恨むことはあっても、魚や海を恨むことはなかった。子どもが水俣病にかかっても、子を産むのをやめる者はいなかった。毒を背負って生まれてくる子も受けとめ、同じように抱き、育てた。水俣病の患者は何人も殺されたにもかかわらず、被害者・漁民は加害者を一人も殺さなかった。緒方は、そこに自分の命の源を見つめてきた記憶があったのではないかと問いかける。

魚を毎日たくさん獲って、それで自分たちが生き長らえる。魚によって養われ、海によって養われている。一年に、二、三遍は鶏も絞めて食って、あるいは何年かに一遍は山兎でも捕まえて食っている。そういう、生き物を殺して食べて生きている。生かされているという暮らしの中で、殺生の罪深さを知っていたんじゃないかと思います。(62頁)

 かつて漁民たちは海の潮の満ち引きとともに生きていた。満ち潮になると人が生まれ、引き潮になると人が亡くなると言われていた。そこには海と人とが心を通わせ、ことばを交わし合う世界があった。

家の下のところの、満ち潮のときは海水がひたってきて、引き潮のときに洗うように帰っていくのを見ていると、"元の海のところまで行きたいんだ"という潮の意志、海の意志みたいなものを感じるんです。"ここまでは人間たちのものじゃなくて、海のものだったんだ"という、何か意志めいたもの。これはすごいなあと思うんですね。(167頁)


 問題の本質は、認定や補償ではない。世界に生かされて生きている。命がさまざまな命とつながって生きている。それを身近に感じられる世界が壊され、命のつながりが断ち切られた。水俣の漁民や被害者たちの「闘い」は、この尊い命のつらなる世界に一緒に生きていこうという、あらゆる者たちへの呼びかけだったのだ。

 空虚な制度化された「責任」が垂れ流される時代に、緒方が投げかける言葉は私たちの胸を鋭くえぐる。

0615-1.jpg

松村 圭一郎

松村 圭一郎
(まつむら・けいいちろう)

1975年、熊本生まれ。岡山大学准教授。専門は文化人類学。エチオピアの農村や中東の都市でフィールドワークを続け、富の所有や分配、貧困と開発援助、海外出稼ぎなどについて研究。著書に『所有と分配の人類学』(世界思想社)、『文化人類学 ブックガイドシリーズ基本の30冊』(人文書院)、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)、『これからの大学』(春秋社)がある。

編集部からのお知らせ

書籍化決定!!

9784909394811.jpg

松村圭一郎さんによる連載「小さき者たちの生活誌」が『小さき者たちの』というタイトルで書籍になりました! 続きが気になる方、ぜひチェックいただけたら幸いです!

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

  • いしいしんじが三崎に帰ってくる! 次の土日はいしいしんじ祭(1)

    いしいしんじが三崎に帰ってくる! 次の土日はいしいしんじ祭(1)

    ミシマガ編集部

    週末の土日はぜひミシマガ読者のみなさまにお伝えしたいイベントが開催されます。三崎いしいしんじ祭、5年ぶりの開催が決定しました!

  • 『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』ついに発売!

    『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』ついに発売!

    ミシマガ編集部

    『時代劇聖地巡礼 関西ディープ編』が、ついに書店先行発売日を迎えました!  時代劇研究家の春日太一さんが、時代劇のロケ地=聖地を巡り綴った、まったく新しい、時代劇+旅のガイドブックです。そのおもしろさを、たくさんの写真・動画とともにお伝えします!

  • 藤原辰史さんより 『小さき者たちの』を読んで

    藤原辰史さんより 『小さき者たちの』を読んで

    ミシマガ編集部

    『小さき者たちの』の刊行を記念して、著者の松村圭一郎さんと歴史学者の藤原辰史さんによる対談が行われました。 開始早々、「話したいことがたくさんあるので、話していいですか?」と切り出した藤原さん。『小さき者たちの』から感じたこと、考えたことを、一気に語っていただきました。その内容を余すところなくお届けします。

  • ひとひの21球(中)

    ひとひの21球(中)

    いしいしんじ

    初登板の試合で右手首骨折、全治三週間。が、しかし、日々着実に成長をつづける小学生のからだの、どこが生育するかといえば、それは骨だ。しかも末端だ。指先や手首の骨は、ほっておいてもぐんぐん伸びる。折れた箇所も、呆れるほど早くつながってしまう。

  • 春と修羅

    春と修羅

    猪瀬 浩平

    以上が、兄が描いた線をめぐる物語だ。兄はわたしの家から、父の暮らす家までしっそうし、そしてまた父の暮らす家から千葉の町までしっそうした。兄が旅したその線のすべてを、わたしはたどることができない。始点と終点を知っているだけだ。その点と点との間の兄の経験がどんなものだったのか

  • GEZANマヒトゥ・ザ・ピーポー&荒井良二の絵本『みんなたいぽ』が発売!

    GEZANマヒトゥ・ザ・ピーポー&荒井良二の絵本『みんなたいぽ』が発売!

    ミシマガ編集部

     GEZANのフロントマン、マヒトゥ・ザ・ピーポーがはじめて手がけた絵本『みんなたいぽ』を2023年2月22日にミシマ社より刊行します。絵は、国内外で活躍する絵本作家、荒井良二によるもの。本日2月17日からは、リアル書店での先行発売が開始しました。3月以降、各地で原画展やイベントを開催予定です。

  • 『おそるおそる育休』、大阪で大盛り上がり!

    『おそるおそる育休』、大阪で大盛り上がり!

    ミシマガ編集部

     こんにちは! 京都オフィスの角です。『おそるおそる育休』の発売を記念して、著者の西靖さんと、大阪・梅田の本屋さんを訪問してきました!

この記事のバックナンバー

06月18日
第3回 いのち 松村 圭一郎
05月11日
第2回 おそれる 松村 圭一郎
04月16日
第1回 はたらく 松村 圭一郎
ページトップへ