第3回
出版一年後のあとがき(伊原康隆)
2026.04.21更新
2025年4月にミシマ社より、数学者の伊原康隆さんと歴史学者の藤原辰史さんによる共著『学ぶとは 数学者と歴史学者の対話』を刊行しました。おかげさまで多くの方に手に取っていただき、読者の方からの熱い感想もたくさんいただきました。刊行から一周年を記念して「一年後のあとがき」を伊原康隆さんにご寄稿いただきました。(編集部)

昨年春、藤原辰史さんとの往復書簡(『学ぶとは 数学と歴史学の対話』)を出版していただき、お陰様で早々に二刷り、そして秋には京大でのブックトークに取り上げていただくなど、とても楽しく充実した日々を過ごさせていただきました。
藤原さんはもとより、変則的な原稿の出版を決断し多面的なお力添えを下さった三島社長、編集で大変お世話になった野崎さん、書店や新聞社への広報のご尽力の営業さんたち、そして読者の方々からのいくつかのありがたいお言葉、皆様方への深い感謝の気持ちは一生忘れません。本当にありがとうございました。
内容に関する一年後の感想、恥じらいや後悔はないのか?
後悔といえば「AIの能力と限界」に関する私の説明がやや雑で、ここは次の機会に訂正したく思っています。
恥じらいといえば、旧友に贈呈するのはやはり控えています。もともと若い方対象のものですし。ただX(旧ツイッター)などでエクサイティングな感想を下さった大学の文系の若手教授の方々もおられ、生徒さん達に勧めて下さったのでしょう、その方々の大学の図書館に入っていた! これもありがたかったです。
藤原さんはご書簡の中で「数学は条件付けが明確である『こうである、ただし x はこの範囲内とする』のように、だから面白い」と書いておられました。それがどうして面白いのかと以前はスルーしていた、がその後、成程、藤原さんはその面白さに自分より気がついておられるのだと感じました。数学の研究では、強い主張が成立するためには「対象の範囲がどう限定されればよいのか?」を模索します(「xの範囲」のようなのではなく、もっと構造的なものが対象です)。 表面的思考では複雑に見えても、洞察が進めば「これ」と思える簡明な切り口がみつかり、いろいろ見えてくる。一方、世間で「それはこうだ」と主張する際、「それ」はしばしば(恐ろしいほど)広範囲で、「こうだ」は矢のように強い主張、になりがちです。それでこそ「意外性引力」が生まれるから。でも「それ」を条件付ける切り口を真剣に模索しそれを表現できる言葉を作っていくことの方が、「こうだ」の強い表現にこだわるのより「ポイントをついている」のかなあと最近感じます。
もしそうなら、数学の方法の汎用性と面白さについて、より丁寧な広報活動が、長く数学研究に携わってきた誰かによってなされるといいな!
それなら自分もトライ? それはまだわかりません。現在30パーセントを切った感じの YI (ヤスタカ・イハラ)バッテリーの充電中で、コンセントは生活常用を含め3つしかありませんので。
藤原さんが提唱しておられる「縁学」の「縁」、この仏教用語の意味ですが、辞書によると、人生において原因から結果が導かれるためには、他の「何か」、たとえば「偶然の出会い」が必要であり、それを「縁」というのだそうですね。偶然のが役にたつ確率は低いので、目的に直行のため偶然の出会いのチャンスなど極少化するのが今流です。ブックトークの際に、私が数学者を目指すようになった縁の一つは、図書館の書庫で偶然、中学生文庫の「偉大な数学者達」を見つけ座り込んで読み耽ったことだった、と申しましたが、何か求めるものもあったのでしょう。ポイントは何かを求める気持ちが無意識領域をその気にさせるぐらい強くなっていると、藁の中から針を見つけられる可能性が信じられないほど高くなること。藤原さんがAIには動機がない、といみじくも書かれましたが、動機、問題意識を持つことは、無意識領域によい仕事をしてもらうため不可欠ですね。
私の言葉では、学びに於ける「探」。楽しく学ぶ、正確には、それを見つけるまでの忍耐、これらがあれば、「学ぶとは?」はそれぞれが自分で見つけるものといえるでしょう。ウェブ連載時代から付き合ってくれ、ブックトークにも来てくれたある旧友の方は、この本の価値は「それとは別のやり方もある」ことを見つけるための刺激になることだろ、と、旧友なので遠慮ないことを、言ってくれました。その通りかもしれないし、ややましかもしれないですね。
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何度でも、どこからでも、読み応えのある一冊。ぜひお手に取ってみていたければうれしいです。





