親指が行方不明

第8回

幸福の目録

2020.12.10更新

 意志の力というものは、世間が言うほどあてにならないとわりと早くに知った。これを口にすれば、「そう言うこと自体が意志の力が弱い証拠だ」と謗られるかもしれない。そうして詰る人は自らの精神力を誇りにしているのだろう。なおのこと聞いてみたいのは、以前に記した自転車のハンドルから手を離して転倒するとかチック症だとかに、果たして意志の力で立ち向かえるものなのか? ということだ。

 ハンドルから手を離そうとするのも、離すまいとするのもどちらも意志なのだが、そこで意志はどう発揮されるべきなのだろう。「何が何でも手を離す」というのは意志の強さと評価されず、奇矯な振る舞いと判断されるだろう。「まとも」や「普通」、そしてそれらを体現した精神という存在があるのだと強く信じている人にとっては、奇体な行いはきっと克服されるべき症状として扱われるはずだ。

言葉ではかなわないコミュニケーション

 僕は以前、鹿児島にある知的障害者支援施設「しょうぶ学園」の取材で3ヶ月間滞在し、職員の仕事の手伝いをしたことがある。重度の自閉症の人や四肢がうまく動かない人と接して、最初は戸惑ったものの、いつしかホッとする心持ちになった。

 言葉で意思疎通を図ることが難しい人との言葉のやり取りがあった。コミュニケーションに苦心したとか悪戦苦闘したのではなく、言葉を使えば必然的にすれ違う「やり取り」があった。

 「言葉の理解が困難であれば、言葉を使わなければいいではないか」と思うかもしれない。そんなふうに「AだからBだ」と言葉で結びつけて考えたことを現実に当てはめるのが健常者の特徴であり、病なのだと思う。

 言葉が伝わらないかもしれない。それでも言葉を用いるのは、健常者の文化の尾を引きずったまま、彼らの世界になんとか入ろうとするからで、それだけ僕は言葉に頼り切った暮らしをしている。

「こんなふうに話したところで伝わるかどうかはわからないけれど」と思ってはいても、「今から風呂に入りますよ」とか「明日は土曜だから作業は休みです」といった言葉がどうしても口を吐いて出てしまうのは、僕が健常者の文化に完全に馴染んではいないけれど、それなりに生きてきた経験が長いからだ。

 でも、ただ習慣で行っているだけではないのは、言葉を口にしながら必ず並行してオリジナルの手旗信号のような身振り手振りが伴っているからだ。それはその時の気分や状況次第で変わる動きで、何か一貫性のあるものとして相手に伝わっているかどうかわからない。わからなさで言えば、言葉も身振り手振りも同じくらいにしか役に立たなかった。彼や彼女たちの前では言葉の価値はグッと下がる。というより、本来の位置付けに戻るといったほうがいいのかもしれない。そこに気付くと僕は「わかる」ということを非常に狭い範囲で捉えていたのだな、とわからされる。

 健常者の世界では言葉を発すれば相手に向かってそれが伸びていき、こちらと相手が線で結ばれる。そうして言葉に含まれた意味や思い、考えが行ったり来たりして理解や誤解が生まれたりする。

 けれども重度の障害というものを持っているとされる人とのコミュニケーションにおいて、言葉は彼や彼女の前で失速し、逸れたり、曲がったりする。含ませたはずの意味は宙空で雲散霧消する。おまけに、こちらの思いは期待通りに返ってこなくて、それに悲しんだり、腹立たしくなったりする。でも、その時に気付くのは、期待の根底には見返りを要求するといった粘着と湿気を含んだ思いがあるのだなということだ。

いったい誰が健常なのか?

 しょうぶ学園で過ごすうちに、僕は「知的障害者」と短絡した言い方を口にすることがだんだんと困難になってきた。だから「障害というものを持っているとされる人」という言い方をするようになった。もって回った言い方をするのは、誰にとっての「障害」なのか? と疑問に思い始めたからだ。かと言って障害は個性と言いたいのではない。

 服が上手に着られない。時計が読めない。労働ができない。社会生活を送る上で生きづらいことは多々ある。生きていく上では困難なことはあっても、本質的にそれが問題なのか? と思うと、次第に見えてくることがある。それは健常者の設定している「まともさ」が彼らにとっての生き難さを招いているということだ。健常者のような暮らしができる。それがきっと彼らにとっても幸せなはずという思い込みを僕らは知らず持っている。だから社会復帰といった言葉で彼や彼女の能力を向上させようとする。

 健常者の世界では言葉が猛威を奮っている。荷物の届く時間を指定すれば、必ずその言葉が現実になるはずだと思っている。そうならなければ怠慢とみなすし、サービスの遅滞は働き手の人格に結びつけて非難されるだろう。

 未来は言葉で次々と確定されていくもので、「~すべき」だとか「~でなければならない」と現実と概念は直線的で短絡した関係以外の結びつきがないように思われている。その発想は明日を憂い、過去を悔い、現在を疎かにして生きることと根を同じくしている。

 健常者の世界になんとか留まっている僕であっても、そんな考えを持っている。この社会を生きる上で欠かせない「まとも」な世界観なのだ。このまともさを疑いもせずにすっかり馴染んでいるとすれば、どうして病んでいないと言えるだろうか。

 しょうぶ学園では毎朝、ラジオ体操を職員と施設の利用者が行う。スピーカーからは伴奏と「腕を横に振りながら足の曲げ伸ばし」と告げる声が聞こえても、彼らは僕らが体育で教わったように真っ直ぐに足を伸ばしたりしない。真っ直ぐにならない、強張って屈曲した身体をしている人もいれば、言葉を額面通り受け取って、真っ直ぐという言葉に統御されてしまう感性を持っていない人もいる。

 言われた通りのことをしない。できない。そもそも言われている言葉の意味が理解できない。だとしたら、彼や彼女らにそれをちゃんと理解してもらうことに意味があるのだろうか。意味という健常者が用意した範囲で生きなければならない意味がどこにあるのだろう。

 学園の中では大きな声を出し続けないと落ち着かない人がいる。そういう大きな声が苦手で耳を押さえている人がいて、時折、我慢できずにわーっと叫ぶ。ここの生活空間は、「大声を出してはいけない」というひとつの言葉で統御できない。なぜなら、その人は大きな声を出したいからだ。なぜ出したいのか本当のところはわからない。声の響きに快感があるのか。それとも鬱屈があるからなのか。僕にはわからなかった。ただ、出したいから出したい時に出しているのかもしれないと思いはした。

 その人に「シー!静かにしてください」と言っても黙りはしない。彼は自身の行為が「静かにしてください」という音の羅列に意味を持たせた表現と交換可能だと思ってもいない。でも、こちらはその期待がある。期待はただの期待でしかなく、ほとんど裏切られる。というより見返りがあると思うのは、こちらの幻想でしかない。

 こうすればこうなるという未来への予測を言葉で行う世界からすれば、言葉は現実をもたらして当たり前だが、それは健常者の世界だけで通じる約束事だ。そう気付いて、「なるほど」と思いはしても、施設には彼の大声に不穏な気分になる人がいる。だから大きな声を禁止しなくてはならないとしたら、彼の「出したい」という意志は尊重されなくなる。

 僕はすべての感性を受け入れられるような器になりたいと願ってはいる。けれども大きな声を出したい人とそれを嫌がる人の互いの意志を尊重すれば、矛盾が生じる。明快な答えを出すとは、言葉で現実を規定していくということで、それは矛盾を排除していくことだ。

 この事態に対し、あの方法をあてがう。その出来事について、これらの考えで解決する。こんなふうに概念と現実とを一対一の関係で結んでいくことが言葉は得意だ。それを伸ばしていくのが健常者の能力の特徴のひとつなのだろう。

 矛盾が矛盾のまま矛盾として成り立てばいいなと思っている。大きな声を出したい人とそれが嫌な人。どちらが正しいとか、この事態の正しい解決策とは何か? に答えを求めても、そこに幸福はあるだろうかと思う。幸福とはせめぎ合いの中にほんの一瞬生じるものではないか。

 互いの相容れなさがある。相容れない両者が出会い、衝突が起き、すれ違っていく。すれ違うことは不幸なことだろうか。

すれ違いがもたらす幸福感

 大声を出す。それを厭う。互いが全力で本分を尽くす。それはまともな考えからすれば、幸福の目録には加えられないことかもしれない。けれども縁のなかった人たちがそのような関係性を築き、すれ違っていくとは、両者が一歩も譲らないからこそ生まれた結果なのではないかと思う。それは好敵手と巡り合うことにも似た、形容し難い多幸感をもたらしはしないだろうか。そうなのですか? と彼らに聞いても答えてはくれないだろうけれど。

 僕は一応、健常者ということになっているけれど、健常者の世界で生きることはなかなか難儀した。健常者の身体観のなせる業なのか。それが設定する「まとも」さの範囲が狭かったせいだと思う。

 ラジオ体操のように「真っ直ぐ」と言われたら、腕や指を真っ直ぐにする。それが正しい理解だという。しかしながら人間の身体には直線などない。それを直線に揃えるとは限りなく不自然なことなのだが、不自然にしないとまともではないと言われる。

 真っ直ぐという言葉の方が現実や自然よりも優先される。「真っ直ぐ」には様々な概念を代入することができる。精神だったり意志だったり自由だったり。とても異様なことではあるが、僕らが言葉を偏重している限り、この態度が根本から改められることはないだろう。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」と悔いたところで太古に帰れはしない。覚えてしまった言葉の罪深さに慄きながら、それを用いて罪を贖うほかないだろう。

 大きい声を出す人とそれを嫌う人。行動の異なる同士を無理に握手させることは共生とは言わない。すれ違うことを許す空間の広さを共生と呼びたい。その時、矛盾が矛盾のまま矛盾として成り立つのかもしれない。なぜ、そのようなことに自分の関心が自然と向いてしまうのか。おそらく誰の耳にも届く予定のない決して語られはしない、言葉の葉ずれのような音が聞こえてしまうからだろう。

尹 雄大

尹 雄大
(ゆん・うんで)

1970年4月16日生まれ。フリーランサーのインタビュアー&ライター。これまでに学術研究者や文化人、アーティスト、アスリート、政治家など、約1000人にインタビューをおこなう。主な著書に『やわらかな言葉と体のレッスン』『脇道にそれる <正しさ>を手放すということ』(以上、春秋社)、『体の知性を取り戻す』(講談社現代新書)、『FLOW 韓氏意拳の哲学』『異聞風土記』(以上、晶文社)、『モヤモヤの正体 迷惑とワガママの呪いを解く』(ミシマ社)など。
プロフィール写真:田中良子

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