土井善晴先生×中島岳志先生「一汁一菜と利他」(2)

第1回

土井善晴先生×中島岳志先生「一汁一菜と利他」(2)

2020.07.28更新

 2020年6月20日、MSLive!にて、土井善晴先生と中島岳志先生のオンライン対談が行われました。料理研究家と政治学者、そんなお二人のあいだでどんなお話が繰り広げられるのか、一見、想像がつきづらいかと思います。ですが、自分たちの足元からの地続きの未来を考えるとき、中島先生が最近研究のテーマに据えられている『利他』と料理・食事のあいだには、大切なつながりがあることが、対話を通して明らかになっていったのでした。

 今回の特集では前半と後半の2回にわけて、そんなお二人のお話の一部をお届けします。

前半はこちら

料理を作るという愛情と「利他」

中島 「利他」と「料理」はどのような関係にあるでしょうか。ふたたび浄土教の世界から考えてみます。『歎異抄(たんにしょう)』のなかで親鸞は、慈悲には「聖道(しょうどう)の慈悲」と「浄土の慈悲」の二つがあるといいます。「聖道の慈悲」とは、困った人を助けたいとか、良いことをしようといった人間のはからいによる慈悲で、ここにはわずかに「自力」が残る。これに対する「浄土の慈悲」は、阿弥陀様の力による慈悲で、彼方からやってくる「他力」におされて何かをおこなうことです。浄土教では、利他のおこないに際して、いい人間になろうという作為に囚われることが大きな問題になります。自力とかはからいには、真の利他を邪魔するものがあるのではないでしょうか。
 ひとからありがとうと言われて満足することは、本当の利他ではないかもしれません。土井さんは家族に料理をすることに利他を見出しておられますが、たとえば、自分の家族に料理をして、ありがとうといつも言われると、何か釈然としないものが残る気がするんです。料理をすることと、「ありがとう」という言葉が等価交換になってしまうからだと思っています。それは贈与の本質からずれる。「ありがとう」と言ってもらいたいというはからいの世界に取り込まれてしまう。利他は「ありがとう」と言われて満足する世界を超えているはずです。

土井 料理する行為そのものが愛情です。料理する=すでに愛している、料理を食べる=すでに愛されている、という関係性がある。すべての美しいものは、たったひとつでは美しく輝きません。美は関係性に生まれる。こういうふうに(「人間♡物♡自然♡人間・・・」と書いたメモを見せながら)、人間と道具と自然の間にある「〜と〜」の所に、情緒が生まれます。現代では、食べることばかりが重要だと思われがちですが、実は食材の周辺や食べるまでのプロセスに、情緒の豊かさがあります。家庭料理のなかには、人と自然と道具と人といった複雑なものが常に関わる。そうしたことを感じながら、子どもたちは手料理を食べるという無限の経験をしていきます。それは日常的予測を積み重ねる訓練(教育・学習)であり、経験を統合して、未来への想像力や、「この人はええ人かどうか」を判断できるような直観力を育みます。それを、人間のなんでもない食事に織り込まれているのです。食事は誰にとっても身近なものですから、そこに気づかない、忘れてしまっているんです。利他は無意識ですが、日常の食事に行われるものと思います。

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中島 利他の核心には、「人間は器である」という考え方があると思います。仏教では、「私」は絶対的な実体ではなくて、常に変容する現象として存在していると考えます。自然と関わってものをつくる職人さんの多くは、自分で何かをつくっているという感覚がないとおっしゃいます。私は、土井さんもそのように、「器」として料理をされているのではないかと思います。

土井 仕事において、手というものは本当に正直だと思うんです。食材に反応して動く手は心とつながっています。私は、自分の頭で考えたことはあまり信じていなくて、小さな違いの発見のような何かが起こったとき、自分の五感とこれまでの経験とをあわせて、反応するようにしています。昨日の自分に頼らないで、心を自由にしていること、今日初めて料理するような気分で、一所懸命素材に接して、対話する。それは力みではなく、なんかお芋が気持ちよさそうにしているなぁ、というようなものです。強引に「はやく柔らかくなれ」と思って火を強めても、おいしくなるどころか、崩れてなくなってしまう。優しく対話し、感覚と経験に照らして判断をくりかえしながら、視覚的、嗅覚的、聴覚的、触覚的に現れる「きれい」に導かれて調理することで、(結果として)おいしさはついてきます。

レシピを疑い、心を使って料理する

中島 料理番組を拝見していても、土井さんはいつもレシピを越えようとされていますよね。そこがとても面白い。たとえばこういうふうにおっしゃっています。

「まあ、レシピは設計図ではありませんから。記載された分量とか時間に頼らないで、自分でどうかなって判断することです。自然の食材を扱う料理は、自然がそうであるようにいつも変化するし、正解はない。」

 レシピという考え方自体が、きわめて近代的な概念だと思います。政治学では「設計主義」とも呼びますが、人間がコントロールすればすべてうまくいくという発想です。

土井 前提条件をいつも同じにすることは不可能です。鍋も違えば、食材の状態も違うのに、レシピだけいつも人間が都合よく「大さじ一杯」というのはありえないですよね。レシピを意識した途端に、五感を使わなくなるんです。何かに依存すると感性は休んでしまうようです。「さあ、どうなるかわからない」というところに、心を使って料理することになります。

中島 土井先生の本は、「分量が何cc」ということが重要なのではなく、ベーシックな何かの作り方を覚えれば、それをいろいろな素材に汎用可能だと教えてくださる。そういうものは、自分自身が作ったものというよりは、無名の死者たちがこれまでずっと積み上げてきたものですよね。人びとがつながってきて、私がいて、またつながっていく。家庭料理とは、そうした時間の流れのなかに身をおくことなのかなと思います。

土井 日本の歴史や気候風土によって和食の食文化ができました。その食文化とともに生きるなかで、ベーシックな調理法は「あぶる(焼く)」、「蒸(ふか)す」、「炊く」、「炒る(揚げる)」、「なます」です。関西で「菜っ葉の炊いたん(煮る)」や「キャベツのけったん(油で炒める)」と言うように、まずは素材が一番主役で、それを五つの調理方法と組み合わせるんです。
 それから、和食では混ぜるではなく「和える」といいます。素材を混ぜず、それぞれの存在感を尊重する。西洋には、ケーキのように液体と粉を混ぜあわせて、まったく別のものをつくりだす食文化があります。これは科学的とも呼べるかもしれませんが、和食の場合は違います。

中島 土井さんは料理番組でよく「あんまり混ぜんほうがいい」とおっしゃいますね。味にムラがあることがおいしさなんだと。

土井 混ぜたら大抵のものは汚くなります。絵具を何色も混ぜたらグレーになるように。たとえばポテトサラダでも、むやみに混ぜないで、「あ、いま美しい」という瞬間で止めるのが一番おいしい。混ぜすぎると雑味になったり、浸透圧がはたらいて水が出てきて、雑菌によって味を落としたりする。和食はとくに、いつも変化する最中の「この瞬間」を食べているんです。

「きれい」という直観

中島 土井さんは「きれい」という言葉をキーワードにされます。料理の最中の判断も、食材選びも、きれいかどうかを基準にすると。

土井 「きれい」は、お料理の健全性を保つとても大切なものです。「そこ、きれいにしときや」「あの人はきれいな仕事しはる」とか、「あの人は誤魔化すことはない、正直できれいな心を持った人や」というふうに。嘘偽りのない真実。善良な心、そして美しいという、人間にとって大切な真善美と常に関わります。日本人は「きれい」という一言で、真善美をいつもはかっているんです。「きれい」「きたない」はまさしく日本人の倫理観そのものです。そういう意味で、和食も民藝も、すべて美の問題です。

中島 それは、政治学が取りくむ民主主義のテーマにもつながるかもしれません。大正デモクラシーの時期に、吉野作造は普通選挙を実施するべきだと主張し、批判されます。無学な人たちや文字が読めない人たちが政策判断できるのか、と。すると吉野は、「政策判断はできないでしょう。しかし、辻説法をしている政治家を何分間か見ていたら、この政治家がどういう人かを判断できます」と。つまり、この人だったら大丈夫かどうかを、顔で判断しろと言っているんですね。こういうものが、ひいては料理の面構え(つらがまえ)とも関わる、倫理の問題なのかなと思います。

土井 あるとき私は、佃煮を食べて「これを作った人に会いたい!」と思ったんです。そして実際に会ってみると、私の想像したとおりの人がきれいな仕事をしていた。そのご家族のお顔はまさに、お店の看板になるような、きれいな顔をされていました。人の作ったものに、その人の生き方とかきれいなところが現れる。私は、そういう人間の直観を信じています。結果としてある佃煮の清々しさにその全てが見えていたのです。複雑なあらゆる工程を健全な感覚で解決しているのが料理です。きれいだなぁ、という瞬間を見極めて、手を止めれば、間違いなくおいしいんですよ。この感覚で素材と対話する気持ちになれば、料理は面白い。レストランで食べる「人為的な料理のおいしさ」と、いま私が言っている、「自ずから生まれるおいしさ」はまったく別ものです。話がややこしいのですが、西洋料理やレストランの料理では人工的な仕事に、無作為の仕事は隠れてしまいます。その隠れているものは、誤魔化しようのないものです。自然なおいしさと人工的なおいしさの違いや調和性(調和美)を思いやり、気づくことが、時々のそれぞれの料理を楽しむ方法だとも言えます。

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ミシマガ編集部
(みしまがへんしゅうぶ)

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この対談が書籍化! 『料理と利他』刊行しました!

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