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第2回

開発の波間、荒廃の瀬戸際、にぎやかなみかん山――ヤマナシさんの生前葬

2026.08.06更新

1、みかん山で語る、囲炉裏端で語る

 イノイケさんと出会ったのは、ヤマナシさんの生前葬が行われた2025年12月のことだ。

 前日の夕方、長男と一緒に東海道線に乗ってみかん山のある静岡市の駅を目指した。途中の駅で、みかん山に通っているタバタ君が合流した。彼が買ってきたビールを飲みながら、さらに西へ向かった。駅につくと、小雨が降っていた。駅前のとんかつ屋に入り、みかん山に一緒に行く予定のマツウラ君を待った。マツウラ君は掛川市でコメとイチゴを作る農家であり、ヤマナシさんとは大学1年生の頃から付き合いである。マツウラ君の車に3人で乗り込み、まっくらな農道を上った。ミカンやお茶の作業をする人びとが行き来する急斜面の作業路は、右に左にくねくねと曲がる。街灯はない。マツウラ君のハンドルさばきはなれたもので、右往左往しながら進んだ。15分足らずでヤマナシさんのみかん畑に至る小道の入り口についた。小雨が降っていた。マツウラ君が駐車場に車を止めに行っている間、なんどもみかん山にきている長男は、真っ暗な道におびえることなくタバタ君とともにヤマナシさんのところに向かった。荷物をもってあとから追いかけ、マキの木に囲まれた小道を抜けると、ヤマナシさんの畑に入る。ミカンの木はたわわに実る。それを超えて歩いていくと、ガハハハという陽気な笑い声が聞こえ、そして小屋の灯りが見えた。

 中に入ると、囲炉裏の周りにはいつものように酒と肴と、知った顔と知らない顔があった。わたしたちも持ち込んだ飲み物や食べ物も差し出し、宴に加わった。網の上でははんぺんフライが焼かれていた。小さい頃からみかん山に通っている長男は、けん玉を出して腕前を披露し、先客のクラリネットを吹かせてもらって上機嫌だった。

 囲炉裏の角に座った私の隣に、マツウラ君が座り、その隣にヤマナシさんが胡坐をかいて座っていた。ヤマナシさんは、マツウラ君を隣にいた、ヤマナシさんと同年代の白髪頭の男性に紹介した。続いてわたしを「文化人類学をやっているコウヘイ」と紹介すると、その男性は「文化人類学ってなんだ?」と怪訝そうに尋ねた。わたしは「まあ体育会系の哲学みたいなもんですよ」と答えた。その答えに軽く笑って応じてくれた男性が、イノイケさんだった。隣にいたのは、イノイケさんの集落に草刈りのボランティアに通っている人。なんとなくできあがったイノイケさんと、本格的にできあがっているヤマナシさんとボランティアの男性と、まったく酒を呑んでいないマツウラ君とで乾杯をした。しばらくたって、イノイケさんが、あれ、あんたNHK出ていなかったかと言った。はい、出ていましたよと私は答えた。「あの農園、俺も行ってみたいと思っていたんだよ」とイノイケさんは語った。わたしは2月に仕事で能登に行くことを語った。その会話のなかで、イノイケさんが暮らす集落に宮本常一や網野義彦が通っていたことなどを伺った。

 そうやって、わたしたちは雨のみかん山で出会い、距離を縮めた。

2、小さいおうち

 翌朝起きると、雨は止んでいた。長男と一緒に自分がオーナーをしているみかんの木までいき、何個か収穫した。たくさん実っていたが、残りは一週間後に今度は今日来ない家族も一緒にやってきて、収穫することにしていた。

 やがて、また小雨が降り始めた。


 ヤマナシさんの生前葬は、例年行っている冬のみかんの収穫祭の第二部として準備されていた。もともと収穫祭は、みかん山の斜面につくられた特設ステージでやるのが恒例だが、前日の雨の影響で、山小屋で行うことになっていた。雨が降ってしまうと、葉っぱに水がたまり、みかんが濡れ、地面がすべりやすくなる。


 ヤマナシさんは死んではいない。特に病気になっているわけでもない。元気である。それでも72歳の年に生前葬をすることを決めていた。「自分の葬式に自分が出られないのは残念だよな。酒飲みながら、俺の死をダシに笑い話しているのに加わることができない」。自分が加われる生前葬になった。親族は、最後に遺族代表として挨拶をする長男だけで、妻も他の子どもたちも参加していない。古くからの仲間の一人も、神社の総代の仕事を優先したそうだ。ヤマナシさんも元気なので、葬儀の深刻さはない。ヤマナシさん本人からもあんまり人が来ると、周りのみかん畑の人たちの作業に支障をきたすからあんまり誘うなと釘をさされていたのだが、それでも圧倒的にたくさんの人たちがやってきた。少年時代や青年時代からの付き合いの人も入れば、そんなに長い付き合いではない人も、今日があうのが2回目だという人もいた。赤ん坊から老人までいた。収穫祭と生前葬に参加するミュージシャンのファンで、ヤマナシさんの生前葬にはあまり思い入れもない人もいた。

 朝から本当にたくさんの人がきた。収穫祭と生前葬で使われる楽器が運び込まれ、生前葬の香典代わりの酒が持ち込まれた。雨に濡れた、みかん山の粘土質の土は、人が歩くとつるつる滑る。最年長参加者で、自身も生前葬をしており、ヤマナシさんに引導を渡す役割で参加したコマツさんは、トイレの帰りに派手に転んだ。


 2023年に刊行した『野生のしっそう』にはヤマナシさんも出てくる。献本して最初にあったのがその年の4月の夏みかんの収穫祭のときだ。その時も夜にみかん山について、宴会をしている人たちに混じった。そのときに、生前葬では基調講演をやってくれと言われた。本心はわからないが、『野生のしっそう』がそれなりに受け入れてもらったと感じることはできた。そのうえで付け足されたのが、「5分な」という言葉だった。さてどうするかを考えながら2年余りの時が流れた。

3、海と山の戦後

 山小屋につくと、皆さん酒と魚、風呂と囲炉裏に、そして何よりヤマナシさんの存在に目を奪われますが、実はヤマナシさんが大切にしている何冊かの本があります。その一冊に、宮沢賢治の『虔十公園林』があります。けんじゆうは知恵遅れの農家の次男坊です。家族とともに畑仕事や水運びをする虔十が、ある日家族にねだったのが、何も植えていない家の裏の野原に杉の木700本を植えるということでした。底が固い粘土だから、植えても育たないと近所の人たちは笑います。それでも虔十は兄とともに杉を植えます。実際にその杉はいちじよう約3メートルの高さにしかなりませんでしたが、そのまっすぐに生えそろった姿が並木道のように魅力的で、近所の子どもたちを引き寄せました。子どもたちは喜んで毎日毎日遊びにやってきました。やがて、虔十は病気になって死にます。それでも子どもたちは、虔十の森に毎日やってきます。

 「ここが町になってからみんなで売れ売れと申したそうですが年よりの方がここは虔十のただ一つのかたみだからいくら困っても、これをなくすことはどうしてもできないと答えるそうです。」
 「ああそうそう、ありました、ありました。その虔十という人は少し足りないと私らは思っていたのです。いつでもはあはあ笑っている人でした。毎日丁度この辺に立って私らの遊ぶのを見ていたのです。この杉もみんなその人が植えたのだそうです。ああ全くたれがかしこくたれが賢くないかはわかりません。ただどこまでもじゆうりきの作用は不思議です。ここはもういつまでも子供たちの美しい公園地です。どうでしょう。ここに虔十公園林と名をつけていつまでもこの通り保存するようにしては。」
 「これは全くお考えつきです。そうなれば子供らもどんなにしあはせか知れません。」
 さてみんなその通りになりました。

宮沢賢治『虔十公園林』

 この文章をよむと、杉がみかんに、舞台は興津の町のように、そして虔十がヤマナシさんのようにも感じます。興津の町は、東海道、港、バイパス、新幹線、高圧線といった、日本列島の隅々を結んでいくロジスティックスのかなめの位置にされて、この70年でも大きく風景を変えていきました。最近は、高齢化が進む中で荒れ地になっていく畑も多くありますが、このみかん山は今もみかんが育ち、そして子どもから老人まで多くの人々が集まっています。ヤマナシさんの生前葬の後も、ここには様々な人たちが集まります。


 ヤマナシさんは、1953(昭和28)年に興津町清見寺町に専業農家の次男として生まれました。家には父親のきょうだいたちが住んでおり、にぎやかだったといいます。家の目の前には街道を隔てて、海が広がっていました。夏の頃は、海の子として過ごしました。

 1960(昭和35)年に計画された清水港の整備拡充計画は、1966年に完成します。高度経済成長のただなかで、興津の渚は失われます。相前後して、1961年に興津町は、清水市に吸収されます。

 同じころ、農業基本法によってすすめられた選択的拡大のなか、みかん山では増産に向けた取り組みが始まります。農道が整備され、天秤棒をつかったみかんの運搬作業はなくなりました。同時に農薬や除草剤使用が本格化します。都会の消費者にきれいなみかんを届けるための薬は、生産した農家の体を傷つけ、そしてみかん山に暮らす生き物の住処を奪いました。

 工業高校を卒業したヤマナシさんは、工務店に就職。同時に青年団に入団しました。それ以降、年がら年中、寝ても覚めても青年団の仲間とつるんでいました。その頃の馬鹿話にはことかきませんが、今日は割愛します。やがて引退近づくと、「これから俺はどうなるの?」という不安を抱きます。その頃青年団の先輩の紹介で出会ったのが、しもむらじんの弟子ながすぎすけでした。永杉は、下村の言葉をヤマナシさんに次のように語ります。曰く、「青年団OBは、地域の良心となれ」「名前は売るな、コツコツやれ」「新しい組織をつくるな。地域のなかにきちんとした人がたくさんになっていけば、今のままの組織でも、良い社会ができる」。下村の思想は、ヤマナシさんをひきつけ、やがて青年団が生み出した濃密な地域共同体の外へ導きます。ヤマナシさんは青年団の仲間たちと、煙仲間というサークルを作り、そして日本各地、世界各地にどかどかと出かけていきます。

 日本がバブルを迎えるころ、清水市は興津の沿岸に人工島の建設を計画します。大人たちが勝手に進めて海を奪われてしまった思い出は、かつての海の子たちの心を奮い立たせます。思い出の写真展からはじまり、人工島通信を定期的に発行し、集落の人々に配布します。人工島計画はいつのまにかなくなりますが、今度は美保半島に東洋一と称される石炭火力発電所の建設が計画されます。しかしそれも、美保半島の地元農家を中心に、清水市の雑多な人々が集まって反対運動を展開し、やがて計画を頓挫させます。


 ヤマナシさんがみかんトラストファームをつくったのは、そんな出来事の先にあります。収穫祭のこの時期にはっきりしますが、このみかん山はヤマナシさんが興津の町や清水の町、そして日本のあちこちや世界のあちこちに、様々な出来事のなかでつくった人間関係のミニチュアがあります。本人が来ていなくても、その人の名前が付けられた木があり、その人が心を寄せたり、ときどき世話をするみかんの木があります。そしてガハガハとでかい声で笑う、ヤマナシさんの声がどこからか聞こえてきます。放っておけば、また原野にもどってしまうこのみかん山に、今も多くの人があつまり、初めてあった人でも、年齢や職業、国籍や思想、信条などを超えてともに汗をかき、ともに酒を飲み、飯をくい、語り合います。それはヤマナシさんたちが少年時代に失った、きよがたの夏の渚の風景を、今、山の上によみがえらせたようでもあります。

4、ちぐはぐさのなかで残されていく未来

 ヤマナシさんのミカン畑は、開発が進む村の中で、虔十が残し、子どもたちが継承していった公園の杉林と重なる。

 虔十が公園林を作ろうとしたかは定かではない。開発が進む中で、自然を残そうと思ったかもわからない。そして虔十の想いだけでは実現せず、彼が日々黙々と働く姿が、彼の家族の同意を生んだ。スギは思うように育たなかった。しかしその可愛らしく、そして奇妙なスギは子どもたちの好奇心を誘い遊び場になった。子どもたちの行進は、戦争ごっこにも通じたかもしれないし、兵隊になったときに役にたってしまったかもしれない。結局は命名した博士の功績になってしまったのかもしれない。それでも杉林は残る。


 ヤマナシさんのミカン畑がどうなるのかはわからない。ただそれがつづいていくことを、本人の生前葬で、本人とそのゆかりのある人たちのなかで祈る。年配の人や中年、そして若者たちがヤマナシさんに捧げる歌を歌う。生前葬の締めくくりには、青年時代からの仲間が指揮するラテツキー・マーチが流れ、囲炉裏端にみな集まって記念写真を撮る。ヤマナシさんの遺影を長男が持ち、そしてその後ろにヤマナシさん自身が立つ。ぶら下がったハエ取り紙をどかすべきか否かで、ひと悶着ありつつも、笑い声や歓声、拍手、そして雨の音や鳥の鳴き声が響いた。

 そしてミカンの木々は、雨の雫を葉や幹、実をつたってポタリポタリと短い草に落とし、太陽が時に輝いて、新しい空気をガハガハと吐き出す。

猪瀬 浩平

猪瀬 浩平
(いのせ・こうへい)

1978年埼玉県生まれ。明治学院大学教養教育センター教授。専門は文化人類学、ボランティア学。1999年の開園以来、見沼田んぼ福祉農園の活動に巻き込まれ、様々な役割を背負いながら今に至る。著書に、『野生のしっそう――障害、兄、そして人類学とともに』(ミシマ社)、『むらと原発――窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』(農山漁村文化協会)、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)、『ボランティアってなんだっけ?』(岩波ブックレット)などがある。

写真:森田友希

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