ちぐはぐなつながりちぐはぐなつながり

第3回

道々のともがら、猿まわしがつなぐ

2026.09.09更新

1、猿まわしの復活

 1977年4月、宮本常一は郷里の周防大島に帰省しているときに、同じ山口県の光市に住む青年の訪問を受けた[1]。村崎修二と名乗るその青年は、山口県が猿まわしの基地ともいうべきことを、小沢昭一に教えられたことを伝えた。そして、小沢昭一の勧めを受けて行った周防猿まわしについての聞き取り調査の記録を渡した。宮本は青年のまとめた記録に感激し、猿まわしが山口に多いことが、公領(国衙領)が中世末期まで残っていたことと関係している可能性(後白河天皇により周防国が、官寺である東大寺の知行地であり、そこを拠点に重源が必要な木材を集めつつ、各地に勧進してまわったことが門付芸の発展に影響しているのではないか)や、猿が人間の訓練によってどのように直立歩行し、そしてそれによって手がどのように発達するのかを考えるべき問いとして示した。そして、文化運動として猿まわしの復活を図るよう、青年を焚きつけた。猿まわしは、対象の世代を分けてしまう商業的な芸能文化とは違う。親子三代が老若男女を超えて楽しむことができる。猿を囲んだ輪の中で、みなの心が一つになる生活文化を地域の中に創り出していくことができる――。

 青年は宮本の指導のもと、「周防猿まわしの会」をつくった。猿とともに各地を渡り歩いた先人を師と仰ぎ、会員と寄付を集めて猿まわし復活のための活動を始めた。宮本の紹介で、記録映像の制作には民族文化映像研究所の姫田忠義らが参加した。宮本を介して、京都大学の霊長類研究グループと出会い、生態学の大家である今西錦司の自宅を訪ねた。今西は、猿回しの復活が世間に認められることなのか、否か、青年がもともと何をしてきたのかを、面接試験のようにたて続けに聞いた。青年がその威容にたじろぐと、今西は途端に機嫌が悪くなった。しかしすぐに気を取り直し、猿回しの技術をもつ年寄りが本当に健在ならば、その伝統技術を最優先で残さねばならないと語った。そして自然保護の機運が高くなるなかで、猿まわしの復活に水をさす人もいること、それから守ための後ろ盾が必要で、宮本とともに今西がその後ろ盾になることを語った。さらに、後に猿の提供をうける犬山モンキー・センターを紹介してくれることになった。青年は、今西の圧倒的な語りに飲み込まれるようだったという。

 宮本は猿まわしを復活させる意味を、青年に次のように語った。

 日本はあの戦争のあと、これからは、世界の平和に貢献してゆくんだと全世界に約束したんだ。日本の国民は、誰しもそのことを忘れている者はいない。だが、国民の知らないところでまた戦争が準備され、国民はそのことが本意でないのに、抵抗する力がなければ、ズルズルと巻き込まれていってしまう。今、一番大切なことは戦争反対を叫ぶことと合わせて、自分たちが自主的に物をつかみ、物を考え、創り出してゆくことだ。本当の文化の力、インテリヂェンスを育てることだ。そしてどんなことがあっても、社会の中に文化の画一化を許してはならない。そうして文化を売りにくる者に用心すると同時に、いつの時代でも文化の敵は官僚主義、実績主義だから、我々はそれにも侵されないようにせんといかん。(村崎1986:221)

 日々の出来事、国内政治を想いながら、宮本のこの言葉を、今こそ受け止めなければならないと感じる。とともに、受け止めた先にすべきことを考えようとする。大それたことではない。大それたことではいけない。「本当の文化の力、本当のインテリヂェンス」を、狭いインテリの専有物として、あるいは学校教育の中ではぐくまれるものとして、考えてはならない。

2、10年目の猿まわし

 ヤマナシさんから猿まわしの話を聞いたのは、2015年2月のことだ。ヤマナシさんは、この頃、今までやっていた内装業を終業し、自宅をみかん山の山小屋に移した。作業小屋の延長だった山小屋は、ヤマナシさんが住所を置くことによって電気が通るようになった。これまではランタンで明かりをとっていたのだが、電灯が灯されるようになった。郵便ポストも設置されるようになった。郵便局員はヤマナシさんのためだけにバイクで山を登り、郵便物を配達し、そして郵便物を受け取っていくようになった。

 その頃、わたしはヤマナシさんのみかん山に興味をもった学生や研究仲間とともに、極寒のみかん山を訪ねた。電気が通って夜でも明るくなった山小屋で、囲炉裏を囲み、焼き鳥などをあぶりながら語らった。外にあるトイレに行くためにたちあがったとき、わたしはヤマナシさんのデスクの上に村崎修二編『愛猿奇縁――猿まわし復活の旅』という本が置いてあるのに気付いた。なんでこの本を読んでいるのかと聞くと、ヤマナシさんは著者であるムラサキさんがサルとともにみかん山にやってくるのだと語った。サルは山小屋に入るのかを聞くと、車の中で待機するのだという。ヤマナシさんに猿まわし師の知り合いがいることを知って驚いたが、考えてみるとヤマナシさんにはタイのスリン県に象使いをしている友人もいる。この時わたしはすでに酒に酔っぱらっていたこともあり、それ以上、深く考えることはなく、10年の月日が流れた。

***

 次に猿まわしの話を聞いたのは、2025年の12月、ヤマナシさんの生前葬の時のことだ。石川の輪島のイノイケさんにヤマナシさんとの出会いについて話していると、「猿まわしがなければ、ヤマナシさんと会ってないよ」と語った。ヤマナシさんも「そうだよなあ」と答えた。

 イノイケさんの地元には、2000年頃からムラサキさんが率いる猿舞座が4年に一回やってくるようになった。最初、猿まわしの話をきいたときはピンとは来なかった。実際に芸を見ると、猿の動きよりも、それに花を添えるような、猿まわし師の話術に惹かれた。やがて、イノイケさんは猿まわしが門付けをするための場所をロケハンした。地元の神社や、祭り、老人ホームなど、一週間まわってそれなりの稼ぎになるような場所を探した。そうやって定期的に猿舞座の人たちがやってきて、イノイケさんの家の離れを拠点に輪島や珠洲をまわっていくなかで、あるとき、ヤマナシさんの話を聞いた。この前、静岡の興津にいった。そのとき、転べばそのまま太平洋に落ちるような斜面でみかんを育てているヤマナシさんという人のところに泊まった――。その話に興味をもったイノイケさんは、なんとなく行ってみたいなあと思ったそうだ。

 それからほどなくして、猿舞座の前座を務めるミュージシャンとともに、ヤマナシさんがイノイケさんのもとに現れた。

***

 ヤマナシさんのみかん山に、ムラサキさんら猿舞座の人びとが最初に来たのは、2012年10月のことだ。ヤマナシさんが長年交流する国際NGOにかかわる寺が浜松にあり、その住職に猿舞座を紹介された。猿舞座の人びとは、まだ電気の通っていない山小屋に泊まり、地元の幼稚園や神社の祭りで公演した。翌2013年、ヤマナシさんは能登半島を訪れた。毎年、ヤマナシさんの畑で採れる夏ミカンを配達するツアーをやっているが、この年は能登半島が目的地だった。そして、イノイケさんの集落の中のゲストハウスに泊まったことをきっかけに、ヤマナシさんとイノイケさんは出会った。二人は意気投合した。この年の秋には、猿舞座の人びとが再び興津へやってきた。地元のボランティア協会の関係で老人ホームを紹介され、ヤマナシさんは公演を実現するために挨拶をした。みかん山通信によれば、この時、イノイケさんは猿舞座の人とともにみかん山を訪れているようだ。ヤマナシさんは夏ミカンを配達する場所を、みかん山の出張所とするのだが、猿舞座の訪問を伝えるみかん山通信には「新出張所開設のお知らせ」があり、「奥能登金蔵出張所長」に就任したイノイケさんのメッセージが寄せられている。イノイケさんは、「本州の一番太いところ能登と、清水、たくさん人が行き来できれば、何かが産まれそうな感じがします」と書いている[2]

3、下張から広がる世界:宮本常一、網野善彦、時国家文書

 イノイケさんが猿まわしを呼ぶのには、間接的に宮本常一がかかわっている。

 宮本のパトロンである渋沢敬三が中心になり、九学会連合による地域調査が行われた。能登半島は、対馬に次ぐ二回目の調査の対象となった。歴史部門を担当したのが日本常民文化研究所であり、その非常勤の研究員として宮本も参加した。宮本はイノイケさんが生まれ育った集落に近い、代々の庄屋である時国家の古文書を借り受けた。能登だけでなく、常民文化研究所が水産庁から委託されて行った各地の漁村から集められた膨大な資料は東京に送られた。目録がつくられるとともに、重要な文書は手書きで筆写したのち、もとあった場所に返却されることになっていた。リンゴ箱数百個にぎゅうぎゅうに詰められた100万点を超える古文書は、10人たらずの研究員の手で筆写するには追い付かず、やがて水産庁は予算を打ち切った。時国家文書を含め、集められた古文書の多くは返却されなかった。

 この時の研究員の一人が、網野善彦である。1980年に神奈川大学に着任した網野善彦は、1982年に常民文化研究所を神奈川大学に招致し、そして古文書の返却のために全国を回った。1984年に時国家文書を返すため、網野は奥能登をはじめて訪れた。このとき、網野は時国家(上時国家と下時国家の二つの家がある)にまだ未発掘の古文書があること教えられた。網野は常民文化研究所の同僚とともに、能登に通い始めた。

 網野らが注目したのは、時国家の襖紙、特にその下張である。誰もが目に付く表紙に対して、下張の紙は反故にした紙が使われる。だからこそ、公式な歴史には残さない、人びとの暮らしの記録が残る。そして時国家に越された襖紙文書には、大庄屋である時国家が、水飲み百姓であるはずの「あたまふり」の家から金を借りていた記録があった。とともに、時国家の口承伝承として伝えられてきたが、古文書に記されていなかったため、歴史学者には無視されていた、時国家が北海道からサハリンまで往復する北前船を五艘持っていたことが確かめられた。とともに、時国家が鉱山開発にもかかわり、製塩を行い、山で炭を焼き、金融業にも手を広げていたことが分かった。半島の先端で、田畑も少ない、だから水呑み百姓ばかりのまずしい地域だという奥能登の村に抱いた先入観は崩れ、海の世界の広がりのなかで、田畑以外の多様な資源にかかわり、様々な地域とつながった豊かな地域として奥能登が見えてきた。それはまた稲作定住民を中心とする歴史観に対して、非農業民・非定住民に注目する網野の歴史学にもつながっていく[3]

 そのような網野らの調査は、イノイケさんの実家の下張文書にもおよび、そこに廻船関係の文書があることも確かめられた(田島2009:150)。研究者としての網野の誠実さの延長で、歴史学的な発見が生まれた。とともに、その縁がつづくなかで、イノイケさんの地元の人びとと、研究者との交流が続いた。イノイケさんは地元の地域づくりのために動き始めていた。その姿を見ていた、網野を引き継いだ研究者が「そろそろ猿まわしでもよびますかね」とイノイケさんに語った。その縁で、奥能登での猿舞座の公演がはじまり、それがやがてヤマナシさんとの縁を導いた。


 宮本が果たせなかったことを引き継ぐ網野や、それにつらなる継承研究者たちが、民衆像を大きく変えていく。それだけでも大きなことである。それ以上に重要だとわたしが考えるのは、調査対象に対して誠実であろうとしたら彼らのたゆまぬ営みによって、研究が想定するとは別の形で人と人、地域と地域がつながっていくことだ[4]。そしてそうやってつながっていく姿は、あたかも網野自身が描いたような、思いもよらぬ人とひととのつながりを、現在に蘇らせたように見える。東京などの大都市を書いているわけではない。学者やマスメディアの情報を介しているわけでもない。誰かに言われてやっているわけでもない。猿まわしという芸能を介して、人と人、地域と地域がちぐはぐにつながっていく[5]

4、旅芸人として歴史に登場する

 猿まわしを始めたムラサキさんたちに、宮本は次のように呼びかけた。

 君らは全国を股にかけて歩くから、その土地、その土地の事情や情報に詳しくなる。すると、本当に、その土地土地に必要な情報や文化、そのことを担っている仲間を紹介することができる。つまり、自分らが演じるだけでなく、その土地の仲間の話をじっくり聞く旅もいっしょにやれる。その時聞いた話はその話が、どこか他の土地に良い経験としてまた君らが種を蒔く結果になる。伝書鳩のような役を負うことになるわけだ。そうした地域が一つ一つできて、地域の生活文化を担う仲間の輪が全国的に横につながっていった時、日本は今よりは、いい国になると思う。それを二十年、四十年とやってみろ、それだけで大変な力になると思う。君らは、新しい遊行芸人、つまり、旅芸人として再び歴史に登場してくる。(村崎1986:221)

 宮本の言葉は、30年以上の時を経て、本州の太いところの片隅と片隅に生きる人びとを結ぶ。ヤマナシさんは2014年の5月にも夏ミカンとともに能登半島を旅し、イノイケさんと再会した。そして、酒と魚を囲み、車座になって語り合う。

 大道芸の面白さは舞台を持たないことである。観客は輪になって囲む。芸は裏も表もない。自分のすべての姿を見せる。考えてみると、私の幼少の頃までは、人が集まると輪になることが多かった。輪になって話し合ったのである。すると余程無口な者でないかぎり発言した。座席にも発言にも上下はなかった。人が向かいあって話すような機会は少なかった。しかし教壇で生徒を教えるときは向かいあい、いろいろの演劇や芸能も舞台でおこなうのを客席で見るというようになって演者と見物の間に一線が画されるようになった。(宮本1993:228)

 ガハガハとわらいながら、あちらこちらの世間の話や、世界の話をするヤマナシさんの宴は、あたかも宮本が語る大道芸のようである。そしてその輪の一部にわたしもなっている。

 2014年の年のお盆にはイノイケさんら地元で立ち上げたまんとうに出かけた。万燈会は、2002年にイノイケさんの集落のメンバー7人が始めた行事である。盆の送り火に合わせて、カップ酒の空き瓶にロウソクを立て、田んぼ畦道や寺の境内に並べる。集落内にいくつかあるお寺では、ミュージシャンによるライブも開かれる。ヤマナシさんはこの帰りに郡上八幡により、学生とともに現地に滞在していたわたしと合流した。


 俯瞰するのではない。観察するのでもない。わたしは世界の片隅に、世界の片隅として生きている。であれば、世界に関われるし、世界を変えられる。そのことを猿まわしがつないでくれた様々な人びとのことを思いながら考える。





注釈

[1] 宮本常一の著書では1977年の4月とあるが、より詳細な記述のある村崎の記録を採用した(宮本1993:222)。

[2] ちなみに通信のこの号では、ヤマナシさんは2013年9月の中国東北部の旅の記録を書いている。ハルピンの731部隊のボイラー棟の残骸の写真が掲載されている。その下には、「アウシュビッツもそうだけど、負けると判ったら、証拠隠滅の為爆破したのだが、残ってしまった。プノンペンの収容所もどこか雰囲気が似ていました」と書かれている。国内の果てと果てを結びながら、国境も超えてしまい、多くの人が目を向けない、そして一部の人が意図的に忘れさせようとしていることをしっかりと自分の足で歩き、目で見て、自分のメディアで伝えるヤマナシさんのすごみを想う。
 この中国東北の旅での出来事を、わたしは『野生のしっそう――障害、兄、そして人類学とともに』(ミシマ社)の「いくつもの死と」の章に書いている。

[3] 以上の記述については、網野や日本常民文化研究所にかかわる人びとの論文・文章を参照(網野1995; 泉1994ⅰ:泉1994ⅱ 窪田2009; 田島2009。またヤマナシさんを介して知り合った、記者のフジイさんとその著作や、ホームページにも多く教えらえた(藤井2024)。

[4] 網野は名古屋大学から、神奈川大学に移るに際して、名古屋大学に対して、「私はかつての日本常民文化研究所の古文書の整理・返却をする義務を負っており、生きているうちにそれだけはやらなくてはならないということを、決定的かつ唯一の理由にして教授会の了承」を得たことが伝えられる(窪田2009:175)。

[5] 非農業民、非定住民をめぐる網野の議論と、ヤマナシさん、イノイケさんを比較して、両方が似ているという判断を俯瞰的に行うのではない。宮本-網野の研究調査実践が、ヤマナシさんとイノイケさんの部分的なつながりを導き、その出会いの中で、改めて、宮本-網野の言葉の意味を確かめる。マリリン・ストラザーンが『部分的つながり』で語ったことは、そういうことなのだとわたしは理解する。そしてそう理解した時初めて、彼女が展開してきた難解な理論の意味が、わたしにとって初めて腑に落ちる。そして、この連載のタイトル「ちぐはぐなつながり」が、デヴィッド・グレーバーの「基盤的コミュニズム」という言葉を言い換えつつ、「部分的なつながり」につなげつつ、わたしの生きるための思想に変えていく企みのもとになっていることが明らかになる。


参考文献

網野善彦1995「中世の能登と日本海交通」神奈川大学日本常民文化研究所編『日本海世界と北陸――時国家調査10周年記念シンポジウム』中法公論社:11-46

泉雅博1994ⅰ「能登と北前交易――下張文書の整理作業のなかから」神奈川大学日本常民文化研究所奥能登調査研究会編『奥能登と時国家 研究篇Ⅰ』平凡社:277-318

泉雅博1994ⅱ「奥能登と時国家総合調査」『岩波講座 日本通史 別巻2 地域史研究の現状と課題』岩波書店:169-186

窪田涼子2009「「古文書返却の旅」を受け継ぐ」神奈川大学日本常民文化研究所編『海と非農業民――網野善彦の学問的軌跡をたどる』岩波書店:175-183

藤井満2024『能登のムラは死なない』農山漁村文化協会

田島住也2009「「海民的」企業家・時国左門の秘められた北方交易」神奈川大学常民文化研究所編前掲書:149-160

村崎修二編著1986『花猿誕生――道ゆく芸能をもとめて』清風堂書店出版部

宮本常一1993『民俗学の旅』講談社学術文庫

猪瀬 浩平

猪瀬 浩平
(いのせ・こうへい)

1978年埼玉県生まれ。明治学院大学教養教育センター教授。専門は文化人類学、ボランティア学。1999年の開園以来、見沼田んぼ福祉農園の活動に巻き込まれ、様々な役割を背負いながら今に至る。著書に、『野生のしっそう――障害、兄、そして人類学とともに』(ミシマ社)、『むらと原発――窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』(農山漁村文化協会)、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)、『ボランティアってなんだっけ?』(岩波ブックレット)などがある。

写真:森田友希

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