料理と利他

第3回

中島岳志先生による「土井善晴論」(2)

2021.01.18更新

 1月9日(土)、『料理と利他』の発刊を記念した土井善晴先生と中島岳志先生による対談イベント「料理はうれしい、おいしいはごほうび。」がオンラインで開催されました。

 『料理と利他』は、不安だけが先行する昨年のステイホーム下に行われ、圧倒的な支持を受けたお二人の2度のオンライン対談を再現した本です。はからずも、2度目の緊急事態宣言の発令翌日に開催された今回のイベント。冒頭の30分は、中島岳志先生があらためて、いまなぜ土井先生の思想が大切なのかという「土井善晴論」をお話くださいました。その内容を、多くの方にお届けしたく、昨日と本日の2日間にわたり、掲載させていただいています。

 そのあとに続いたお二人の対談では、「無力から生まれる祈りのお話」「お屠蘇やおはぎづくりの実演をしながら、和食にある生死循環という世界観のお話」「大切なものは事後的にやってくるというお話」などなど、心が洗われるような対話が続きました。そちらにご興味のある方は、ぜひアーカイブのほうより、ご覧ください。

構成:角 智春

(前半の記事はこちら

9784909394453.jpg土井善晴・中島岳志(著)『料理と利他』

私が「器」になる、与格的料理

 「与格」は、インドのヒンディー語にある文法構造です。私たちはふつう「主格」を使って話します。「私はご飯を食べます」、「私は今日〇〇をしています」というふうに。「〜は」「〜が」ではじまるのが主格の構文です。これに対して、与格は「〜に」ではじまります。たとえば、これは「私はとてもうれしかった」というヒンディー語の文章です(写真)。直訳すると、「私に大きなうれしさがやってきて、とどまっている」となります。

doiron2.png  私はヒンディー語を習ったときに、与格は「行為が自分の意志に還元されない場合」に使われると教わりました。たとえば、「私は風邪を引いた」という文は、ヒンディー語では与格で表されます。風邪を引こうとみずから思う人はあまりいませんよね。私たちの意志とは違うものによって私たちの行為がなされているので、与格が使われるのです。
 私はインドで暮らしながら、与格って重要だなと思っていました。近代人はどうも、「私が」という主格的な世界観のなかにいますが、与格の構文では「私に」なにかがやってきてとどまっている。私が「器」のような存在になっています。
 じつは、与格はヒンディー語だけではなくて、世界中の言語の古い文法によく含まれていた構造です。日本語にも残っています。たとえば、「私には〇〇だと思える」という言い方。「私は思う I think」と「私には思える」とでは、ニュアンスが違います。私に思いが宿ったり、私のなかを思いが駆け巡ったりするところが重要です。
 私は、土井さんの料理は「与格」的なものだと思っています。主格は自力の世界なのに対し、与格は他力の世界です。自分の力を超えたところからやってくるものを受けとめる「器」のような存在として、私があり、そこから料理や民藝が出てくる。

人間業ではない料理ーー「塩むすび」に込めた思い

 土井さんは、味噌造りのマイスターの雲田實さんについて、こう言っています。

 「良き酒、良き味噌は人間が作るものではない、俺が作ったなどと思い上がる心は強く戒めなければならない」と口癖のように言う実直な人柄

 味噌作りのプロが「味噌は自分がつくったものではない」とおっしゃるわけです。私は、発酵というものは思想的にとても重要だと思っていますが、土井さんは最近もこう発言しています。

 「このうまい酒をつくったのは俺だ」という思い上がった考えは強く戒めなければならない。

 まずは、人が手を加える以前の料理を、たくさん体験するべきですね。それが一汁一菜です。ご飯とみそ汁とつけもんが基本です。そこにあるおいしさは、人間業ではないのです。人の力ではおいしくすることのできない世界です。みそなどの発酵食品は微生物がおいしさをつくっています。ですから、みそ汁は濃くても、薄くても、熱くても、冷たくても全部おいしい。人間にはまずくすることさえできません。そういった毎日の要になる食生活が、感性を豊かにしてくれると、私は考えています。

 人間業ではない料理。この究極的なあらわれのひとつが、2014年10月30日に放送された、NHKのきょうの料理の「塩むすび」の回です。土井さんファンのなかでは「神回」とも言われた放送です。ふつうは、料理番組で塩むすびの作り方は紹介しないですよね。土井さんは、この回に強い思いを込めていたのではないでしょうか。手で米に触れる。ほどよい大きさ、固さに整える。塩加減を整える。私たちにできることは、この「整える」ということだけであると、土井さんは言います。そこに、おいしさがおのずからあらわれる。そのことによって、心が落ち着く。

 本当のおいしさは安心感を伴うのです。

これが、今日の対談のタイトルである「料理はうれしい、おいしいはごほうび」につながります。料理は、私が喜ぼうとしてやるものではなく、私に「うれしさ」が宿る与格的なものです。そして、おいしさはごほうびとしてやってくるものであって、私がつくりだしたものではない。

念仏とはなにか?

 ではなぜ、「一汁一菜は念仏」なのか。
 そもそも、念仏とはなんでしょうか。吉本隆明は『最後の親鸞』のなかで、念仏と親鸞の問題を考えました。さきほど私は「念仏を唱えれば浄土に行ける」という考え方に触れましたが、親鸞はこの考え方を否定したはずだと吉本は指摘します。「念仏を唱えれば、浄土に行ける。だからみなさん念仏を唱えましょう」という考え方は、「念仏」と「浄土に行くこと(往生)」に因果関係を認めてしまいます。すると、浄土真宗において一番大切なものである念仏は、他力ではなく自力の世界に取り込まれてしまう。だから、親鸞は「念仏を唱えれば浄土に行ける」という考え方を認めなかったというのです。吉本は、念仏とはなにかという問題が残ると言います。

涙と念仏

 この問題と、土井さんの「一汁一菜は念仏である」という考え方は強くつながっていると思います。私は、念仏と他力の関係について考えていたとき、こんな経験をしました。
 私には息子がいるのですが、息子は生後数カ月で迎えた初めての正月に高熱を出しました。大晦日の夜からとつぜん咳き込みはじめ、熱が39度まで上がってしまった。夜間救急に連れていくと、そこは急病の人で溢れる野戦病院のような状態で、私たちは1時間半ほど待ってからやっと診察を受けました。息子は入院しないといけないような容態でしたが、大晦日なのでできない。「薬を出すので家で様子をみて、急を要するときは救急車を呼んでください」と医者に言われ、帰されてしまったんです。不安に苛まれながら徹夜して、年が明けました。しかし、息子の熱は全然下がらない。お乳も全然飲みません。妻と私は、どうしようと狼狽えながら、息子を抱きかかえることしかできませんでした。
 数日間そのように過ごしたあと、1月4日の朝に、息子の熱がすーっと下がりました。咳も止まってきて、顔色がすこしよくなったのでお乳をあげてみると、ごくごくごくっと飲んだんです。ああよかった、なんとかなったと思いました。私はほっとして、部屋の窓を開けて新しい空気を入れました。朝の日差しがキラキラと家に入ってきました。
そのとき、私は張り詰めていた気持ちが解けたのか、ふと鼻歌を歌いました。無意識に選曲されたのは、天才バカボンの歌でした。「青空の梅干しにパパが祈るとき・・・」という詞です。これを口ずさんだとき、突然、私の目からザーッと涙が出てきて止まらなくなりました。しゃくりあげて泣く私に妻が驚いて、どうしたのと訊いてきたのですが、わからない。涙が止まりませんでした。
 あとから、私はこの涙の理由がふっとわかりました。私は数日間、沈黙のなかで祈っていたんだと気づいたんです。「青空の梅干しにパパが祈るとき」。私は、言葉にならない祈りをずっと発していました。そして、それに「祈り」という言葉が与えられたとき、私の目からザーッと涙が落ちてきた。私は、そうか、これが念仏の構造かと思いました。

無力に出会ったとき、他力がやってくる

 浄土真宗は「祈り」という言葉に自力が含まれると考えるので、この言葉を使いません。たしかに、「〇〇大学に合格させてください」とか「宝くじが当たりますように」という祈りは、自力的なものですよね。しかし、本当の祈りは言葉にすらならない。「息子を助けてください」と言うこともないまま、熱を出したかれを抱えておろおろしているとき、私は無力と出会っている。このときに私にやってきたものが、他力としての念仏でした。意思を超えて自分のなかからどんどん出てきてしまうもの、それが私の涙であり、おそらく親鸞が到達した念仏の境地は、その涙のような念仏だったんだろうと思います。念仏は目的のための手段ではありません。仏の力に促され、自ずから湧き出してくるものです。
 「一汁一菜は念仏である」とは、こうしたものではないでしょうか。鈴木大拙の『日本的霊性』には、妙好人の話が出てきます。妙好人は、名もなきふつうの庶民です。南無阿弥陀仏を唱えながら、ずっと畑を耕している庶民。鍬を動かすかれらのひとつひとつの動作は、南無阿弥陀仏そのものです。土井さんの菜箸を持つ手、そして、おにぎりを整える手は、妙好人の鍬のようなものだと思います。これは、自分の力でおいしいものを作るのではなく、おいしさが宿るように、自然に沿って整えていくことが料理であるという考え方につながります。決して「おいしいものを作ってやろう」という意思的なものではありません。料理をやっているとうれしさが宿り、おいしさがごほうびとしてやってくる。だから、「一汁一菜は念仏である」は、土井さんの料理論のエッセンスを捉えたとても重要な言葉だと私は思うのです。


イベント後半の対談部分を動画配信中!

当日のイベントの後半、中島岳志先生による「土井善晴論」を受けて、土井先生と中島先生の対談が繰り広げられました!

後半部分のアーカイブ動画を配信中ですので、ぜひご覧くださいませ。

対談部分の冒頭部分を動画でご覧いただけるようにしました!

0116oisiigohoubimovie.jpg

動画配信はこちらから

<対談の内容>

・本当の祈りは、無力を晒すこと
・生死の循環と料理――お屠蘇とおはぎ
・おいしいはごほうび――結果を求めず、大きなものに身を委ねる
・大切なものは事後的にやってくる
 など、大充実の1時間12分!

ミシマガ編集部
(みしまがへんしゅうぶ)

編集部からのお知らせ

『料理と利他』はやくも4刷り決定!

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土井善晴さんと中島岳志さんの『料理と利他』、はやくも4刷りが決定いたしました。「MSLive!の熱気や興奮がそのままに、一冊の書籍になっている」と喜びの声をすでにたくさんいただいております。ぜひ、お近くの書店さんで、外出が難しい場合は、ミシマ社のオンラインショップ「ミシマ社の本屋さんショップ」はじめ、オンラインストアでお買い求めくださいませ。

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