民論民論

第3回

庶民感覚論――おでんを手がかりに

2026.03.13更新

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 庶民とは、世間一般の人びとのことを意味する。たとえば、庶務が「雑務」、庶事が「いろいろの事」、庶物が「いろいろの物」という意味であるように、庶民には「いろいろ雑多な人たち」という意味合いが込められている。きちんとした名前があるマグロやタイなどの魚に対して、その他大勢のことを雑魚ざこというが、雑魚と庶民は生物学的には異なるにしても言葉の使われ方としてはよく似ている。もともと、漢字の「庶」は、屋根の下で器に入れたいろいろなものを煮込む、という会意文字で、屋内を煙でいぶして害虫を駆除するという意味だったが、いつの間にか似た音を持つ「者」が部首の「れっか」の上で入れ替わって、「煮」という漢字が「庶」の本来の意味のかわりに用いられるようになった、と言われている。
 漢字「庶」の成り立ちからもわかるように、庶民とは、おでんの大根やちくわのように、それぞれ特筆すべき高級食材ではないけれども、一緒に煮込んでいると味が溶け合って、独特の味わいを醸すような、そんな湯気の立つ食卓の風景にぴったりの言葉だ。
 逆に、無数の食材から選抜されたエリートはおでんのなかには普通入れられない。たとえば高級なタイやマグロの刺身は、あざやかな緑色のわさびや大葉、白色の大根、黒色の醤油をしたがえつつ、以下のように考えているかもしれない。大根やちくわなど煮しまった色合いで、それに添える和がらしまで同系色の具材どもは、自分たちの利権を守るために、とっかえひっかえできる雑多な存在でなければならない。「兵士」や「農民」や「漁民」として自分の身一つを資本にして働かなければならないのだ。
 おでんの世界にいささか強引に読者を招き入れようとしているのは、単にわたしがおでん好きだからだけではない。政治家に「庶民感覚」があると人気が生じる現代の普遍的現象、好感度で政治家が選ばれるこの時代の空気、そして、使い捨て可能な大量の「庶民」を想定してしか営めない戦争というものについて、庶民派料理の代表格から考えてみたいからである。そもそも「庶民感覚」とは、どんな感覚なのだろうか。

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「庶民派」のエリートが好まれる国で、「庶民感覚」についてもっとも考えさせる素材を提供したのは麻生太郎である。2008年10月28日の参院外交防衛委員会で、当時の首相であった彼に対し、民主党の牧山弘惠議員がカップ麺はスーパーでいくらで売れているかを聞いた。ほとんど質問者の期待以上だったと思うが、麻生は「最初に出た時、えらく安かったと思うが、いまは400円くらいします?」と答弁した。牧山は「170円くらい」と返し、麻生の庶民感覚のなさを強調して、(ここからが実は重要なのだが)輸入小麦価格の高騰のなかで政府は輸入小麦の卸売価格を下げるように主張した。最近の物価高ならば、麻生の推定は現実から離れていなかっただろうが、当時は新聞のコラムを賑わすほどに高すぎた。私もこのニュースを読んで驚きつつも、そうだよな、と妙に納得したものだ。
 だが、この牧山の質問ではまだ十分ではない。そう指摘した人はあまりいないように思う。1971年9月18日、日清食品が満を持して売り出した世界初のカップ麺「カップヌードル」はなんと100円(フォーク付き)だったのである。これを「えらく安かった」と回想する首相に対して、牧山は以下のように問い詰めるべきだっただろう。「当時、チキンラーメンが一袋25円、卵一個で10円ちょっとでした。チキンラーメンの4倍もの高値で販売されたカップ麺を『えらく安かった』と振り返るとは、総理の庶民感覚の欠如も年季が入っていますね」。このやりとりを報道する大手新聞記者も、「400円」だけ取り上げて批判した気になっていたとすれば、庶民感覚に欠けるエリートにすぎなかったことを意味するのかもしれない。
 いずれにしても、データを見れば、麻生太郎の庶民からの離脱ぶりは国宝級である。2020年12月7日付の『朝日新聞』(夕刊)の記事によると、2018年から2019年までの「現職の閣僚と各政党の党首」合計28人の「代表の政党支部と資金管理団体の収支報告書」を調べたところ、当時財務相だった麻生は、335回外食をし、支出額も4551万7085円という天文学的数値をたたき出し1位、一回あたりの平均支出も約13万6000円で1位だった。立派な一軒家が建つほどの金額である。記事には「ホテルへの支出が101回を数えるが、東京・六本木の会員制クラブにも17回で約840万円を支払い、料亭にも頻繁に通うなど、活発な活動ぶりがうかがえる」とある。総務省の『全国家計構造調査』によると、2019年の二人世帯の一ヶ月あたりの平均外食費が1万3714円で、仮に一年間だと16万4568円である。日本国民の平均値を「庶民」とするならば、麻生太郎が一年の外食費用は、おおよそ庶民のそれの138倍ということになる。

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 そもそも、このような政治家への批判は紋切り型である、という批判もある。2017年7月16日付の『産經新聞』のコラムで、安倍晋三元首相が総裁選前の決起集会で3500円のカツカレーを食べたことなどが「テレビのワイドショーなどで散々いじられていたが、そこに、政治の何の本質があるというのか。/会合場所が安居酒屋だったり、食事がカップめんだったりすれば、政権運営はうまくいくのか。苦い肝をなめ、固い薪の上に寝れば国民の暮らしはよくなるのか。そんな道理はない」と断じている。返す刀で、ラーメン店に通うところから庶民派と言われた菅直人元首相が、2011年6月29日に赤坂の寿司屋から六本木の焼肉屋にはしごし、そのあとイタリア料理店で過ごしていた事例を挙げ、「メディアは切り取った部分によって、その政治家を庶民派ともどうとでも描ける」と結んでいる。
 もちろん、このコラムは一年間の支出費で比較していないから菅直人にとってみれば公平ではないし、麻生太郎の乱費を批判する人たちも政治家に毎日カップ麺を食べてほしいなどとは思っていないのだから極論である。ただ、私が興味深いのは、このコラムの書き手もまた、庶民感覚から大きくずれていることだ。食品の値段がわかる人が政治をしなければ「国民の暮らし」はやはりよくならないのである。外食の有無や格差は、そのまま貧富の格差にほかならない。それは政治が取り扱うべき本質的問題である。庶民が、限られた給料と少ない余暇と極度の疲労の中でも良質なものを食べられるための整備は、憲法25条と深く関わるがゆえに、国会で議論すべき重要課題にほかならない。この点で、牧山の批判の仕方はそれほど的外れではなかった。
 政治感覚は庶民感覚から遊離してはならない理由のもう一つは、国会は億や兆を単位とする予算案を使って国民の生をどう厚くしていくかを審議する場所だからである。財布に残された柴三郎や梅子や栄一たちをバランスよく用いる感覚が議員になければ、国は狂う。たとえば、1941年には、日本は国家予算(一般会計および特別会計)のうち4分の3を超える金銭を軍事費に振り向けたのだが、そんなふうな、暴力夫の酒代に妻の裁縫の賃金が注ぎ込まれるような財布の感覚は、もう二度と復活してはならない。

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 しかしながら、『産經新聞』のコラムにも傾聴に値するところがある。もっと庶民感覚に根差した政治が切望されるとしても、政治とは原則として庶民の人気取り、自身の好感度アップとは違う次元にあるのであり、政治感覚と庶民感覚は近づきすぎてはならない、という指摘である。平均的庶民の138倍も外食費用を政治資金として支出できる政治家への非難はやがて、カップ麺をよく食べます、朝は卵かけご飯と味噌汁を食べています、漫画が大好きです、安くてかわいいボールペンを使っています、という庶民感覚の守り手を演じる政治家、つまりポピュリストに票が集まる土台を築き上げる。右派ポピュリストが花盛りの現在、ほぼ例外なく彼らは移民排斥を訴え、自国のすばらしさを他国の歴史を歪めてまで強調し、ひどい場合は外国を威嚇または攻撃して、内政の失敗や自己の不都合な弱点から庶民の目を逸らそうとする。
 実際、永田町の政治家たちは、プロレスラーやオリンピック選手を政治家にしたり、「キャプツバ(キャプテン翼)が好き」と言ってみたり(麻生太郎)、エルヴィスのギターをもってアメリカ大統領のまえでポーズをとってみたり(小泉純一郎)、記者たちをパンケーキ朝食会に招いてみたり(菅義偉)、韓国の大統領と一緒にドラムを叩いてみたり(高市早苗)してきた。有権者たちは政治家たちの意図的な、涙ぐましい「庶民感覚」風な演出に、意外にも簡単に籠絡されてきた。選挙とは本来「推し活」ではないが、とくに日本では「推し活」と変わらなくなった。
 問題は、そういった安易な「庶民感覚」の演出に忙しい政治家というよりは、「庶民感覚」に見事にだまされる庶民である。大根、卵、ちくわやこんにゃくがまずいおでん屋は、いくら牛すじやタコがおいしくても、おでん屋として失格であると庶民自身が言わなくなった。庶民の世界を庶民があなどってはならない。そもそも庶民感覚をもつのはエリートだけだ。「庶民感覚のある庶民」とは言わない。庶民は、エリートにも自分にも存在する庶民性の深淵から、エリート文化の「だし」でもある庶民文化を醸成するのである。

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 たとえば、漫画コンテンツ輸出を目論む首相が「キャプツバ」を読んだと言ったあとに「好感度」が上昇したとき、漫画ファンも新聞記者も、「マンガ脳」だと首相を詰った人たちも、どんな作中人物が好きで、どんな場面が心に残っているのか、そして作者の世界からいかなる影響を受けたのか、首相に真摯に尋ねるべきだったのではないか。庶民性にも深度がある。庶民派を演じる政治家には庶民性の真偽を確かめる義務が庶民にはある。安易な気持ちでおでんのだし汁にドボドボ入り込むことに、庶民はもっと抗うべきだった。
 参考までに、小学生のときの私も『キャプテン翼』に熱狂した。静岡の南葛小学校と南葛中学校で主人公の大空翼のチームメイトだった井沢守のファンだった(そんな人は少ないだろう)。長身長髪のミッドフィルダー。彼のシュートするレアな姿を画用紙に何度も模写した。天才ミッドフィルダーでマークが厳しくなる翼とは異なり、彼は副次的にゲームメイクをせざるをえない、という立場に追い込まれていく。おいしいところは全部翼の「ドライブシュート」や「オーバーヘッドシュート」に持っていかれるなかで、漫画中の出番も少ない。彼がもっとも輝いたのは全国中学生大会準決勝、ふらの中学校との対決で、五メートルのダイビングヘッドを決めたシーンだろう。「ここは絶対に決める! とどけ!!」という珍しく自己露出が強い言葉に私は中学校編までの全巻の中でもっとも震えた。が、物語の中心は井沢の得点ではなく、ラストパスを送った翼の怪我に移行する。井沢は喜びも束の間翼を心配する。あくまで井沢は補助的な人物であることを改めて確認するつらい作業が私には待っていた。基本的に天才たちの物語に回収されがちななかで、二番手や三番手の人物に「たまに」光を当てるのが作者のずるいところだった。
 天賦の才能とは異なるアプローチはこの漫画に散りばめられていた。新聞配達をしながらきょうだいたちを育てた日向小次郎はヤングケアラーで庶民代表。沖縄でのすさまじい訓練で「タイガーショット」を生み出し翼のライバルとなったし、「才能のないやつは努力するしかない」というくさい台詞(ですが私の座右の銘です)で有名なふらの中学の松山光も、雪でぬかるむグランドで「イーグルショット」を鍛えた。面白いのが、翼のライバルたちと比べて、翼本人は、父が船長で母がワンオペという状況を覆うだけの不自由のない経済的境遇と才能が目立ち、道徳的すぎてあまり魅力が少ないことだ。実際、『少年ジャンプ』の人気投票でも翼よりも日向が人気だった。ここが『キャプテン翼』の肝心な点かもしれない。主人公よりも魅力的な二番手三番手四番手がつぎつぎに現れるがゆえに、あれだけ二次創作が盛り上がったのだと推測している。
 それにしてもヒロインたちの描かれ方は典型的な一歩下がるケア専従の女性たちばかりだ。もっと女性たちを魅力的に生き生きと描いてほしかった、と今となっては思う。せっかく等身バランスを崩し宇宙人のように足を長くした主人公たちの身体の躍動に対し、人間のセリフと実況が過多なのも、もったいないとも思う。強烈なシュートによってネットが破れ、壁が砕けるような過剰な演出はこのマンガの醍醐味だったとはいえ、シュートを腹部で受け止め、ボールがめり込むシーンが多いのには小学生ながら不満が多かった。人間は壁ではない。ただし、そういう数多の批判点をふまえたうえでも、「世界の主人公」が「私の主人公」である必要はない、というとても大切なことを、この庶民向けの、深い心理描写や政治や社会の文脈がほとんどない漫画から、私は学んだのだった。蛇足だが、作品および作者への愛とは、作品および作者への無批判によって成立するという今の風潮は危険であると思う。
 ナチスに学んだ方がいいと言って非難され、マンガ好きで、漢字の読みを間違えた麻生を「マンガ脳」とエリート風に上から非難する前に、どのように『キャプテン翼』という作品を考えているのか聞くべきだった。そのうえで、2年間で4551万円を飲食費に用いるほどのリッチさを庶民感覚のなさという問題に落とすだけではなく、どうしてその半分でも用いて、ヤングケアラーの日向小次郎のように飲食にさえ困る人びとの食堂施設を作り、庶民の中から未来のエースを育てようとしなかったのか、というふうに、庶民の財布の視点から麻生の支出の意味を問うべきだった。

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 二次的三次的で、取り替え可能な庶民だとエリートにみなされても、庶民はそれだけではまだ主人公の座を降りるわけにはいかない。庶民には庶民性を深掘りし、深めていくことで、エリート主義と対峙し、あわよくばそれを乗り越える、逆にエリートはどこかで馬脚が現れる可能性が残っているからだ。
 高級料理店の味わい深い皿に美しく盛られた刺身用のタイもマグロも、大根と同じだし汁に浸かれば立派なおでんの具である。おでん総体の味わいの一部にもなる。政治を担う人間の成否は、庶民出身だろうがなかろうが、庶民に寄り添って好感度をあげたかどうかではなく、おでんのだし汁、つまり土、川、海といった基本的自然と、言葉や絵画や音楽や舞踊など基本的文化によって自分を鍛え直すのかにかかっている。だし汁という庶民の公共性を汚染する人間は、庶民だろうがエリートだろうが、それを止めなければならない。大根ではないからという理由でこんにゃくを排除する大根主義者がいれば、それをやめさせなければならないのと同様である。
 他方でいま、世界中の政治家が庶民に近づきすぎて、そんな俗情にたっぷりつかっている。大根には大根なりの、ちくわにはちくわなりの、孤高で高貴で泰然とした暮らしの身振りがあってしかるべきなのである。おでんの出し汁につかっても、自分さえ保てば、大根は大根のままに、こんにゃくはこんにゃくのままに輝くことができる。
 大根やこんにゃくを使い捨て可能な労働者や兵士、または、そんな労働者や兵士を産む母親としてしかとらえられないような似非えせ エリートが地球上で増殖している。自分は大根や下働きとは関係はなく、庶民に血を流させ使い捨てできると思い込みつつも、おでんのなかで自分の境界を失っている似非エリートも増えている。本物のエリートはみずからの庶民性を理解している人だ。
 逆に、他国の内政を暴力によって変更したり、小さな島を所有し未成年に性的陵辱を加えたりすることは、「言葉の運用能力」をその選抜要件の一つとするはずのエリートとして、自分に誇りと自信がないことの証拠である。エプスタイン文書にあるビデオをみたが、島の家の作りはチープで、建築を学んだ形跡がなく、味わいも高貴さも知性も感じられない。メールの文面からは、カネの増殖や長寿に興味があることはわかっても、彼の知的な深みを感じることは、少なくとも調べたかぎりではなかった(ちなみに、日本の各新聞が他国の新聞と比べてあまりにもエプスタイン問題を扱わないことに恐怖さえ覚える)。
 このような21世紀の状況において、「エリート対庶民」という古びた図式はあまり意味がなくなりつつある。いまや世界を覆う図式は、「尊厳を保つもの」とそうでないものの対立構造にほかならない。エリートと庶民の共犯で成り立つ「庶民感覚」の偽善を暴き、庶民性を徹底して、誇りある人間にみずからを鍛えることが求められている。エプスタインとその友たちは、エリートであるまえに、尊厳と誇りを失った「ただの人」にすぎないのだ。彼らはもちろん、誇り高き庶民とも雲泥の差をつけられたのである。

藤原 辰史

藤原 辰史
(ふじはら・たつし)

1976年生まれ。島根県出身。京都大学人文科学研究所教授。専門は現代史、特に食と農の歴史。著書に『縁食論』『トラクターの世界史』『カブラの冬』『ナチスのキッチン』(河合隼雄学芸賞)、『給食の歴史』(辻静雄食文化賞)、『分解の哲学』(サントリー学芸賞)、『農の原理の史的研究』『植物考』『歴史の屑拾い』、共著に『中学生から知りたいウクライナのこと』『中学生から知りたいパレスチナのこと』『青い星、此処で僕らは何をしようか』『学ぶとは』など多数。ミシマ社の雑誌『ちゃぶ台』 でも「民」に関する論考を連載中。

編集部からのお知らせ

藤原辰史さんが編集長の「京大マガジン」創刊!

2026年3月19日、『京大マガジン 0号「失敗」』が発刊します。

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京都大学、発。
独創性ある異種交流の「実験室」が、ここに誕生。

大学内外の執筆陣による、本気の原稿が集うこの場が、
学生、研究者、読者がともに知の探求をすすめる拠点となることを目指してーー。

ノーベル化学賞・北川進氏への特別インタビューや、
サントリー学芸賞(思想・歴史部門)受賞の師田史子氏と本誌編集長・藤原辰史による対談、
三宅香帆×三島邦弘×藤原辰史による『京大マガジン』構想のための特別鼎談ほか、京都大学発の読みもの、続々。

「未来をまったく保証されていない雑誌を、私たちは『失敗』という不吉極まる言葉から始めてみたいと思う。」(本誌編集長 藤原辰史)

詳細・取扱店はこちら

『京大マガジン』創刊記念イベント「雑誌をつくること、雑誌で書くこと」

『京大マガジン』の創刊を記念してトークイベントを開催します。登壇者には、編集長の藤原辰史先生、本雑誌の発売元であり共同編集を務めるミシマ社の三島邦弘が登場。いま、雑誌がいちばんきびしいと言われる時代に、あえて大学と出版社が組んで雑誌をつくるとはどういうことか、また雑誌で書くとはいったいどのような行為を意味するのか、第0号の制作過程を振り返りつつ、あらためて考えます。

日時:2026年3月23日(月) 18:00〜19:30
場所:京都大学百周年時計台記念館 国際交流ホールⅡ
(後日アーカイブ動画配信あり)

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