ちぐはぐなつながりちぐはぐなつながり

第4回

凸凹の芝生広場で

2026.10.12更新

1、すれ違う

 2025年2月、NHK・Eテレ「こころの時代」で、わたしや兄、そして見沼田んぼ福祉農園のことを描いた番組が放映された。その回のタイトルは、「すれ違う こすれ合う」だった。タイトルは、わたしが2020年に寄稿した雑誌の原稿からとられている。

 その原稿で、わたしはさいたま国際芸術祭と福祉農園をめぐる、あるすれ違いについて書いた(猪瀬2020)。

 2020年のさいたま国際芸術祭には、NPO法人こえとことばとこころの部屋(以下、ココルーム)が主催するプロジェクトである釜ヶ崎芸術大学が招待されていた。2019年に、ココルーム代表のカナヨさんに一緒に何かしないかと誘われて、思い浮かんだのは福祉農園にかかわるある男性のことだった。彼は還暦を迎えるころまで日雇い労働で全国を回っており、釜ヶ崎でも暮らしたことがあった。年をとって仕事がなくなっていくなかで、彼は福祉農園と出会い、農作業をするようになっていた。

 2019年の夏にカナヨさんは福祉農園にやってきて、芝生広場で詩のワークショップをした。福祉農園にかかわる人たちが集まり、それぞれの描いた絵について聴き取りをし、詩作し、発表し合った。ワークショップのあと、カナヨさんは、参加した人びとに国際芸術祭を手伝ってほしいと語った。わたしが参加してほしいと思った男性も参加してくれた。

 私の住むさいたま市はいわゆるベットタウンであり、日雇い労働者の街、釜ヶ崎と一見何もつながらないように見える。ただそれはあくまで表面的なイメージだ。日雇い労働をする人もいるし、ホームレス状態にある人もいる。そして、釜ヶ崎などのドヤ街で働いていた人がいる。その一人が、見沼田んぼで畑仕事をし、そしてワークショップにも参加した。さいたま市に釜ヶ崎芸術大学を呼ぶ意味が、私にはなかなか腑に落ちなかったのだけれども、その人の存在がはじめて部分的なつながりを与えてくれるように思った。

 しかし、私の目論見はあわくもすれ違った。その人は、カナヨさんがやってきた数日後に仕事を探しに行くといって、農園を去っていった。ワークショップのときはとても楽しそうにしていたので、原因はわからない。農園にきてから数年がたち、彼を頼りにする人は私だけでなく何人もいた。その人が年とっても農園にかかわれるためにはどうするのかとも話し始めていた。そんな周りの想いをよそに、その人は旅立っていった。

 私がこの街にもってきたイメージの一つは、すれ違いである。近くにたくさんの人がいるのに、すれ違って出会うことができない。そのさみしさと言ってもいいかもしれない。
(中略)
 その人のことを国際芸術祭という枠で捉えようとした私の思惑をよそに、その人が旅立ってしまったそのことに、生というものの本源的なかけがえのなさがあるように想う。運動や芸術によって意味づけられるのを、誰かによって自分の生が意味づけられるのをすり抜ける。そして、すり抜けるという行為自体が意識的なのか、無意識的なのかという問いすらも拒む。その人を代弁する言葉は浮かんでこない。その人がいなくなって途方にくれ、そしてその不在を強く感じる。

 切なさとは、かけがえのなさと表裏である。

 当時の文章を思い返してみると、『野生のしっそう』のプロットタイプは、この時にあらわれていたようだ。

2、人類学をする、人類学をされる

 2024年10月に「こころの時代」のディレクターのウラベさんにメールをいただき、週末に福祉農園で会うことになった。彼女は、わたしが書いた『野生のしっそう』や『分解者たち』を読み、興味をもってくれたという。彼女への返信で、この日、子どももつれてきたらいいのではないですかと言った。そんなことを言われたことはなかったと、ウラベさんにあとで言われた。

 彼女は農園から少し離れたバス停で降りて、見沼田んぼの中をずいぶんと歩いてやってきた。そこで農園を案内し、そしてそこにいた私の家族や農園の仲間と一緒に作業をした。その後、わたしの勤務する大学のボランティアセンターや、近くの喫茶店で取材を受けて、これまで自分がどんな風に生きて、どんなことを考えていたのかを話した。とともに、文化人類学を学部時代に学び、様々な地域や人物をめぐって番組をつくってきた彼女が、人間をどのように見てきたのかということを伺った。彼女は、わたしが書いたことを読み込んでくれていて、余白にしていた部分も慎重に、丁寧に質問をしてくれた。すぐに答えられない問いも多くあったが、それについてかんがえていくなかで、わたし自身がこれまで何をしてきたのか、初めて言葉にできた瞬間もあった。

 振り返ってみると、わたしがこんなに集中して人に話を聞かれたことはない。わたしは誰かの話を聞くことの方が多くあり、聞かれることはあまりない。やがてカメラマンのタケウチさんや、音声のエンドウさんも加わって撮影が始まった。そういう風にわたしが何を考えているのかを聴かれる立場になって、気づいたことがある。

 文化人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ(以下、VDC)が、『食人の形而上学』(洛北出版)という本のなかで、人類学者のみが人類学をしているという視点を批判する。彼は他者を人類学するのではなく、他者が人類学していると考えることによって、自分自身の世界観を揺さぶる。そして、(子どもの時や、病になった時に日々出会っているような)自分の知らない自分のイメージに、自らを立ち戻らせる。そうすることによって、他者の表象が不可能だとして諦めてしまうだけの議論を批判する。そんなふうにわたしは、VDCの議論を理解する。

 人類学者としてどう考えているのかを、ウラベさんが聞き出していること、タケウチさんや、エンドウさんがカメラやマイクによってそれを記録していること、それはわたしが『野生のしっそう』という本を書き進めるなかで、兄に対してしていたことと同じかもしれない。そうであるならば『野生のしっそう』は、人類学者であるわたしが兄という他者を描いたのではなく、人類学をしているものとしての兄を描こうとした本なのかもしれない。そんなことに気付く。わたしが兄を見つめるだけでなく、兄はわたしを兄の仕方で見つめ、理解する。

 わたしの兄が叫ぶ。それを多くの人は「奇声」と呼ぶ。ある場所から走り、いなくなる。それを多くの人は「失踪」や「徘徊」と呼ぶ。兄がどういうときに叫ぶのか、叫びながら彼が何を思っているのか、兄はなぜいなくなり、どのように経路をたどって移動しているのか、わたしには分からない。でもすべてが分からないわけではない。何かが分かるときもある。しかしその分かったことを過剰に意味づけると、兄はそこからさらにいなくなる。本の中で、わたしはそのことを書いた。

 相手の意思が分からないということは、知的障害があり、自閉症がある兄と、知的障害がなく、自閉症でないとされる私という兄弟特有の関係ではない。障害があろうがなかろうか、兄弟であろうがなかろうが、誰・何との関係であっても同じことが言える。わたしは母のことも、父のことも、妹のことも、妻のことも、子どもたちのこと、友や仲間のこと、同僚のことも、その人が思っていることのすべてを理解することはできない。しかし、わたしたちは共にあることができる。共にあることで、今ある世界に与えられた「家族」や「兄弟」、「障害者」や「個人」といった属性を超えることができる。それは「あらゆる分割線を複雑な曲線に捻じ曲げる。輪郭をなくすのではなく、それを折り曲げて稠密にし、虹色に輝かせ、回折させる」というVDCの言葉に通じる。

3、わたしのいない共同作業から

 番組のクライマックスは、2024年11月23日に開かれた福祉農園の収穫祭だった。

 収穫祭の当日は本当にたくさんの人たちがあつまり、一緒に里芋掘りをし、みんなで食べる食事の準備をし、一年間の活動を語り、そして歌った。前年の2023年は雨でほとんど人があつまらず、2022年はコロナの影響で限定的な開催だった。しかし、この日は晴天でたくさんの人が来た。朝鮮学校の人たちの協力で七輪での焼肉もやった。

 この風景がうまれる一つのきっかけは、同じ年の8月の出来事だ。

 毎年の8月、福祉農園では関係者による共同作業が行われる。この年も障害者団体の人々や、ロータリークラブ、朝鮮学校の人びとが参加した。東京で開かれた結婚式に参加した足で懐かしい顔を見せた人もいれば、本当にひさしぶりに宮城からやってきた人もいた。『野生のしっそう』のイベントに参加して、顔を出してくれた人もいる。

 そんな集まりに、私は高熱を出して欠席した。そんな風に夏の共同作業を休んだのは、2022年に共同作業の前身になるキャンプをはじめてから、初めてのことだった。30人以上の人がやってきて、炎天下に草を刈り、汗をかき、そしてカレーを食べる。若い頃に出会った人たちも着実に中年になっている。寝転びながらSNSに仲間があげる写真をぼんやりと眺めた。そこに写されたものや、写らなかったものから、今何をやっているのかを想像した。そして、参加できなかったくせに、いろいろな人を誘い、巻き込んでいた自分のちぐはぐさを思った。人は意味をもとめてさまざまなことをしてしまうが、非意味的に体調を壊し、そしていつの間にか死んでしまう。それは、自分が老いたり、死んだりすることを認めるためのレッスンのようであり、自分が死んだ後もこの行事が続いていることへの期待でもあるように思った。

 この時の作業に参加したロータリークラブのタマキさんは、福祉農園に関わる団体間の交流をもっと深めようと考えた。そして交流を深めるのに一番いいと考え、再び様々な関係者が集まる11月の収穫祭での焼肉の実施を提案した。七輪を囲んで肉を焼き、食べる焼肉で様々な交流が生まれるのは、朝鮮学校が農園に参加して以来に生まれた福祉農園の風景だ。収穫祭の定番は米と豚汁だけだが、この年は七輪の焼肉が加わった。

 収穫祭の日は晴天になり、農園に関わる多くの人たちが集まった。

4、収穫祭が終わり、映像が生まれる

 収穫祭は無事に終わった。昔はばっちり進行表を作ったが、今回は参加人数判断もおおざっぱ、役割分担はおおよそにしめしたうえで、しかし当日になったらそれぞれの判断で考えて行動していた。この日はウラベさんらNHKクルーの撮影もはいった。でもなんとか成り立った。

 人数的なものを把握していない中で、今年は様々な人がやってきた。例年の人もおり、久しぶりの人もおり、はじめての人もおり。必ずしも平坦に整えられたわけでもなく、雑草も生え、土がむき出しになって凸凹もある芝生広場で、すれ違い、交わった――凸凹があることによって農園にやってくる人びとに生まれる構えこそが、重要なのではないかということを農園にきた建築士の人に教えられたことがある。今日はじめて出会った人同士が、また農園で会おうといって別れる瞬間があった。その出会いのすべてを理解したわけではない。ただわたしがしったことといえば、奄美大島をルーツにする老人と青年の出会いがあった。また、ひと月前に農園にはじめてやってきた人が両親もつれて農園にやってきて、拙著『分解者たち』を読んで考えたことを伝えてくれた。病院から退院してきた人がおり、同世代のわたしの父とひさしぶりに再会していた。父は農園代表として、「地域で共に」と言いながら、今一人で暮らしていることの孤独を最後の最後の挨拶で語っていた(その言葉を受けて、正月には彼の家で新年会をやることになった)。一方、長女は朝、農園に着くと誰に言われるのでもなく、一年前に農園にやってきた人に教えられて覚えた、薪割を始めていた。県の事業である福祉農園を担当する職員の人もやってきて、帰り際、多様な人があつまり、交わる福祉農園の意味を改めて感じたと感想を語ってくれた。そうやって、行政との協働ということを改めて感じる瞬間があった。

 その一日を、ウラベさんたちはカメラに収めてくれた。もちろんそのすべてが描かれたわけではない。わたしが撮影してほしかった場面――農園の専属ミュージシャンでもあるやまちゃんが、『野生のしっそう』のためにつくったオリジナルソング「きょうだい」を歌う瞬間があった――で撮影クルーはみな焼肉を食べていた。番組では、その映らなかったことを含めて余白となっていたように思う。たくさんの登場人物が凸凹の芝生広場や農園の中にひしめき合い、踊るようにうたうように、作業し、食べ、交わり、交わらないなかで、同じように踊るようにカメラマンや音声スタッフ、ディレクターは動き回った。

 そうやって撮影され、編集された映像が、能登半島で暮らすイノイケさんに届いた。




参考文献

猪瀬浩平2020「すれ違う、こすれ合う。かけがえのなさと切なさ。――『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』を書いた先に」『福音と世界』75(2))30-35

猪瀬 浩平

猪瀬 浩平
(いのせ・こうへい)

1978年埼玉県生まれ。明治学院大学教養教育センター教授。専門は文化人類学、ボランティア学。1999年の開園以来、見沼田んぼ福祉農園の活動に巻き込まれ、様々な役割を背負いながら今に至る。著書に、『野生のしっそう――障害、兄、そして人類学とともに』(ミシマ社)、『むらと原発――窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』(農山漁村文化協会)、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)、『ボランティアってなんだっけ?』(岩波ブックレット)などがある。

写真:森田友希

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