第4回
歯磨きの夜
2025.10.28更新
「変な人にはついていけ」というタイトルにしたからには、絶対はずせなくなった人物が、チャットモンチーのえっちゃんこと橋本絵莉子さんだ。リアルについていったからね。
共に走ったと言うのが正しいが、彼女と出会っていなければ私は東京には行かず、ミュージシャンになることもなく、地元愛媛の小学校の先生をしていただろう。
いや、教員採用率の最も過酷な時代だったので(一度は受けて落ちている)、何年も受けて挫折していたかもしれない。私よりよほど優秀だった多くの友人たちが落ち続けて諦めていく姿を散々見てきたから。もしかしたら、比較的受かりやすかった東京で教師をしていたかもしれない。そうして、文化祭でドラムを叩いたり、たまに下北の高架下でこっそりと詩の朗読をしていたかもしれない。などと、自分が歩まなかったもう一つの道を妄想してみたりすることもあるが、別の自分も生き生きと楽しそうに、今をやっている。
絶対にこの道しかなかったという劇的なことは思わない。あの日の空が綺麗だったから、あの日の音が脳天に突き刺さったから、あの日手袋を落としたから......そういった些細な偶然の重なりで道はできているんじゃないか。
きっかけはそのくらいのものでも、そこから先、続けていくというのが長くて険しい。教採を受け続けて10年目に受かった友人の笑顔を忘れないし、諦めて結婚し母になった清々しい友人の顔も忘れない。願った先の道へたどり着ける人はどのくらいいるかは分からないけど、どの道を行っても笑っている人は笑っている。
天性のものは必ずあるらしいけど、いろんな人に、少しずつ影響されて今の自分が作られていることは言うまでもない。初めて実家を離れて過ごした数年(私の場合は大学時代)は特に大きかった。多くの人もそうであるように。
えっちゃんとは、大学の軽音部の練習室の前で初めて会った。わりとミニなスカートにサイズに合わない大きなスニーカーをはいて、ギターを背負っていた。えっちゃんは、おばあちゃんの編んでくれたピンク地にでかでかと音符の刺繍が入ったセーターをださいとか言わず「かわいいだろ?」と着る系の人だった。私も、祖母が編んでくれたマフラーをいつもしていたから、この子とは話ができると思った。
えっちゃんが、『いっぴき』(ちくま文庫)の解説にも書いてくれていたが、初めて会った日、練習室の前で私はパジャマだったようだ。徳島の小さな島に大学があったので、ほぼ治外法権。東京で大学生をしていた人と話をしたら、同じ日本の大学なの?と、疑われることばかりだった。娯楽施設が島にないので、夏は授業の後、毎日水着で集合しすぐそこの海に泳ぎに行っていた。釣った魚をみんなで食べた。1学年100人しかいないので、学校の日本庭園でよく100人飲み会をした。鳴門競艇がすぐ近くにあったのもスリリングな点である。
船は夜8時で終わるので先輩の送別会などは、国語科のときは数学科が、理科のときは社会科がなどと連携を組み、車をもっている人が送迎をした(橋があるのだ。お代は缶ジュースの値段と決まっている)。もう20年前の話で今はどうかは知らないが、当時は大きな家族のような集団だった。
そんなわけで、えっちゃんが言うには、その日私はパジャマだったのだ。家にいる感覚のまま来てしまったのかもしれない。しかも101匹わんちゃんの犬がどーんとついたやつだそうだ。母が買ってくれたあれだな。どちらかというと私の方が変な人だったのかもしれない。
彼女は、軽音部の中でいうと二番目くらいにまともな人だった。えっちゃんは学外からうちの大学の軽音部に入っていた。4年間を目一杯はじけて就職するという考えの人がほとんどのなかで、高校で学生を卒業しすでにコンビニで働いていたので、社会性があった。
「私はサンクス大学を卒業した」という、いつぞやの彼女の言葉はあまりに名言だ。まともでありつつも、どこか簡単には近寄れないハードさをもっていた。かわいらしいのに、狂気をはらんでいる雰囲気、みんなが気になる存在だった。
チャットモンチーがプロを目指しているらしいという噂は部内では有名だった。1学年下のあっこちゃんこと福岡晃子さんが大学1年の春(高校卒業時に)にチャットモンチーに加入したという経緯も、風の噂で聞いていた。
破天荒な人ばかりのいる軽音部の中で、二人はかなりまともだった。地に足がついていた。今日の向こう側を見ていたからだ。練習室のホワイトボードの予約表には「チャットモンチー」の文字がいつも入っていて、しばらくして「四星球」もそこに入り、どんどんと彼女らと同学年に新しい良いバンドが育っていく気風が高まっていった。呼応しあっているんだなと思った。予約表はいつもパンパンで、もちろんドラムは一台しかないので、個人練とか絶対に取れず、夜中に取って寝袋で仮眠しながらやっていた。
あっこちゃんは、出会ったとき金髪を三つ編みにしていて、輝いていた。明るく、でも繊細で、男女ともに慕われ、あっという間に部内の人気者だった。バーベキューになれば女子トイレで延々とキャベツを洗っている系の私は、2年になってもなかなか軽音部の華やかな雰囲気に馴染めず、でもバンドは組んでいたし、音楽が好きだし、破天荒な先輩たちの後を追いかけていた。そんな私を慕ってくれたのが、あっこちゃんだった。びっくりした。この子ならどこでだってやっていけるだろうに、かなり地味エリアの私を慕ってくれるというのか。と思った。
そうして、あっこちゃんからチケットを買ってチャットモンチーのライブを見に行くようになった。ステージの二人は、ひりひりしまくっている。耳鳴りがするほどパンクだった。
一度ステージをおりると、私のもとに「くみこさーん」と走り寄る子犬のようなあっこちゃんなのだった。えっちゃんはかなりシャイだった。
私が2年のとき、部内のキャンプにえっちゃんも来ることになり、くじ引きで、私と同じ部屋になった。えっちゃんが唯一頼りにしているあっこちゃんと別部屋になり、部屋にいるときはずっと私についてきた。
夜、歯磨きに行くときに「くみこさん、どこに行くんですか?」と。「歯磨き」「私も行きます」。歯をいっしょに磨く。これはけっこう距離が縮まるらしい。
何を喋ったわけでなく、虫がいっぱい集まってくる蛍光灯の下で並んで歯を磨いた。
いろんな経緯があって、書ききれないのではしょりますけれど、私はチャットモンチーに大学3年でサポートメンバーで加入し、4年で正式メンバーになる。一緒に教員を目指していた友人たちからは「血迷っている。目を覚ませ」と散々叱られ、あんだけ破天荒に素っ裸でギター引いてた軽音部の人らからも止められた。そうか、みんなあんなふりして、本当はまともだったんだ。と思った。
高校時代から音楽でやっていこうとギターとメンバーを背負って歩いてきたえっちゃんという人に、ついていってみようと思った当時の自分の気持ちは、空が綺麗で、音が脳天に突き刺さり、手袋を落としたからという、それくらい、無計画でタイミングとトキメキの問題だったように思う。
偶然は必然で、「私」ではなく「私達」と呼ぶ人生がスタートした。
あっこちゃんのワゴンRを交代で運転しながら、徳島から、神戸、大阪、京都、名古屋へとツアーをした時代を今も思い出す。コンビニで顔と手だけ洗って車内で寝た夜もあった。そのときに、コンビニで洗顔料の値段を吟味している私の後ろ姿を見てえっちゃんは「この人の人生を巻き込んだのだから、絶対に売れないといけないと気合をいれた」というような話をのちの雑誌のインタビューで語っていた。心底かっこいいと思ったし、20代前半でそこまでのことを考えていたのかと思うと、私よりも随分先を走っていたのだ。
そのとき私はそこまでのことを考えてなかった。しんどかったけど、しんどかったからこそ、ステージの上で演奏できる30分がなにより至福だった。砂漠の末にたどりついたオアシスのようだった。次のライブハウス目指して走る長い道のりには、意味があるんだなと思うようになった。
「私達」から「私」になり13年になる。ようやってきたなと思う。キャンプ場でえっちゃんと無言で歯磨きをして、そこから地続きで今がある。あの日、私のあとをずっとついてきたえっちゃんに、ついていった先の今がある。




