野生のしっそう

第2回

『野生のしっそう』の外側にあったこと (1)

2023.11.16更新

2023年11月17日(金)に、文化人類学者の猪瀬浩平さんによる著書『野生のしっそう』が、書店先行発売日を迎えます。2021年6月から、ミシマガジンで連載してきたものに加筆修正を加え、このたび一冊の本になりました。装丁は脇田あすかさん、装画・挿画は岡田喜之さんに手がけていただき、本の手触りも含めてぜひ手にとっていただきたい渾身の作品です。

さて、私が猪瀬さんにはじめてお会いしたのは、とある方の、とある賞の受賞式の後ひらかれた食事会の席でのことでした。それまで、猪瀬さんが書かれたものをいくつか読んだことがあり、どんな人なんだろうと気になっていました。しかし猪瀬さんはその時よりずっと前から、ミシマ社のことを知ってくださっていたようで・・・どういう経緯で連載がはじまったのか、このタイトルはどんなふうに決まったのか、この本をめぐる、縁のつながりの一端を、猪瀬さんご本人に寄稿いただきました。ぜひ、明日発売の本とあわせてお読みください。

(編集チーム・ノザキ)

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ミシマ社とわたし

 『野生のしっそう』の外側には、ミシマ社とわたしをめぐる物語があります。

 わたしがミシマ社を知ったのは、この本でも出てくる、2012年に開催した日本ボランティア学会北浦和大会の準備のなかでのことです。大会の分科会のゲストに呼ぶ高村直喜さんと、アサダワタルさんとの打ち合わせを恵比寿で行いました。高村さんは、ミシマ社に立ち寄ったあとでした。高村さんは、自分が宿主をしている「ホトリニテ」というゲストハウスに、ミシマ社の本を置くための交渉にいっていたそうです。彼は、ミシマ社がいかにいい本を出すのかを私に語りました。わたしがミシマ社のことを知った瞬間です。

 その年の秋に秋葉原のアーツ千代田3331で開かれた甲州発行物産展に、高村さんも企画者の一人として参加していました。物産展では企画者一人一人にとって大切な本の展示があり、高村さんはそこに益田ミリさんの『はやくはやくって言いわないで』を展示していました。展示された本は販売もされていて、私はその本を買いました。わたしにとって最初のミシマ社の一冊です。

 その後、しばらくの間、ミシマ社代表三島邦弘さんのツイッターをフォローしながらも、特に接点はありませんでした。

 ミシマ社との距離が近づくのは、2017年に松村圭一郎さんが『うしろめたさの人類学』をミシマ社から出したことによります。当時、わたしは松村さんが編者をする『文化人類学の思考法』(世界思想社)に寄稿することになっていました。京都大学人文科学研究所で開かれた研究会は、院生時代の厳しいゼミを思い出させる雰囲気で、あまり構想が練れていなかったわたしは、戦々恐々とした時間を過ごしました。終わった後の懇親会も、この日関東に帰る予定があったため、あまり長いこといられず、ひとまず軽く飲み、そしてもともと知っている人類学者や、初めて会った人類学者たちとおずおずと語って、終電に間に合うようにそそくさと辞去しました。

 その頃、わたしの勤める大学がある横浜戸塚の善了寺の住職が、『うしろめたさの人類学』を読み、絶賛し、松村さんをお寺に読んでトークセッションをやりたいと言いました。わたしはその企画の仲介役になり、そして松村さんがそのオファーを快諾すると、住職から対談相手に指名されました。お寺でのトークセッションは愉快な時間で、わたしは松村さんを相手に、好き勝手しゃべりました(住職からは、「もっと松村先生に喋らせて」という指示書を渡されたりもしました)。懇親会も盛り上がり、そしてその日、松村さんもわたしもお寺に泊めてもらいました。布団を敷いてくれたのは、お寺が経営するデイサービスの一室で、確かマッサージ用のソファーに布団を敷いて横になりました。松村さんからは、『文化人類学の思考法』を編集するにあたって、『うしろめたさの人類学』があり、そこで人に言葉をとどけることをめぐっていかに三島さんから学んだのかという話を聞きました。ソファーとソファーのそれなりの距離の間でなされたピロートークは長々と続き、松村さんが「そろそろ寝ようよ」といって、話は終わりました。

 ミシマ社がどういう哲学をもった出版社なのかに初めて触れた瞬間です。

連載がはしりはじめるまで

 やがて、わたしは2015年に最初の単著『むらと原発』(農山漁村文化協会)を出版し、その本によって藤原辰史さんと知り合いました。藤原さんは、ドイツにおける原子力施設反対運動について研究している青木聡子さんとともに、日本ドイツ学会で企画するシンポジウムのパネラーに、私を呼んでくれました。わたしはそのときの発表で、ドイツ語は「クラインガルデン」しか使いませんでした。わたしは現在の四万十町になる、窪川町の反原発運動がどのように終結したのかを語りました。打ち上げは三次会まで盛り上がり、途中から友人の彫刻家の前川紘士さんがやっていた別の飲み会と合流し、彼の先輩がやっている謎の店(ほぼ民家にしか見えず、誰が店の人なのかも本当にわからないくらいみんな酔っぱらっていて、そしてテーブルに残ったものをまずつまみとして出された)で飲み続けました。しこたま呑み、重度の二日酔いのまま、翌日はまた京大人文研によばれて、発表しました。そこで発表したのは、わたしの2冊目の単著であり、『野生のしっそう』の姉妹本ともいえる『分解者たち』(生活書院)のプロットタイプでした。わたしはひたすらにしゃべり、そして呼んでくれた藤原さんや、石井美保さん、研究会のレギュラーメンバーだった松村さんや、松嶋健さんらと意気投合したように感じました。

 2019年に上梓した『分解者たち』における「分解」概念は藤原辰史さんに与えられたものです。やがて藤原さんは、『現代思想』の連載をベースに『分解の哲学』(青土社)を出版し、そしてサントリー学芸賞を受賞します。編集者の村上瑠梨子さんが、そのお祝いの飲み会に私もさそってくれました。

 東京駅の八重洲口を出て少し歩いたところにある居酒屋で、お祝い会がはじまったのは確か20時を過ぎていました。会場を探していると新井卓さんがおり、ほかに知り合いがいるのかわからなかったのでそのまま近くに座りました。すると私の席の前に社会学者の石岡丈昇さんがいました。石岡さんのことは同じく社会理論動態研究所の所員である中田英樹さんから聞いていたこともあり、それをきっかけに話し始めました。やがて編集者や、写真家など様々な人々が押し寄せてきて、そして藤原さんもやってきて宴の花が咲きました。藤原さんが、最初に「この集まりが、発酵と分解の場になり、また新たなものを生み出していくとうれしい」と語りました。その後、一人ひとり自己紹介の時間になり、わたしはひとまずこの日晩飯を家族と食べてきてしまったので、つまみがあまり食べられなくて申し訳ないという話をしました(他に何をしゃべったのか記憶にはありません)。

 宴会がおわり、わたしが帰ろうとしたときに名刺を渡してくれたのが、ミシマ社の野崎敬乃さんでした。翌日、野崎さんはメールをくれました。思えば、それが『野生のしっそう』の一つのはじまりでした。

 翌年、コロナの予感が高まる中で、野崎さんは埼玉に来て打合せをしたいというオファーをくれました。しかし、コロナの感染拡大でミシマ社でも出張をなるべくやめるという方針になり、結局、埼玉まで来るのは中止になりました。しかしその後、ミシマ社が刊行している雑誌『ちゃぶ台』の原稿執筆のオファーをいただき、ZOOMで打ち合わせをしました。やがて対面での研究会が復活していくと、わたしは大阪千里の国立民族学博物館に行くようになり、その前後に前川さんと京都の「村屋」で飲むようになりました。そこに野崎さんも参加するようになり、いつしかミシマガジン(以下、ミシマガ)で連載をするという話になりました。

 以上が、野生のしっそうが連載として始まるまでの経緯の一端です。

兄のしっそうをきっかけに

 『野生のしっそう』において主題となるエピソードである、兄の2021年3月のしっそうは、コロナ禍を生きるわたしにとって、とても印象深い出来事でした。わたしには、兄のその行為が何事か本質的なことを表しているように感じました。それについて、自分のFacebookで書こうとしましたが、一日の記事で終わるようには思えませんでした。家族や、親しい人たちと、そのことの意味を語りました。

 ミシマガをめぐって野崎さんと打ち合わせをする際、わたしは兄のこのしっそうの話をし、野崎さんは、迂回しながら延々と語るわたしの話を、画面の向こうで深く共感して聞いてくれました。

 タイトルは、仕事帰り、駅から自宅に帰る途中におりてきました。

 しっそうをテーマにする。しかしそれは、飼いならされた聖火リレーとは違う。飼いならされていないなら、野生だろう。野生なら、『野生の思考』だろう。思考でなくて、しっそう。兄がたぶんしっそうしたであろう道の一部を、逆向きに歩きながら、わたしがこの本のタイトルを手に入れた瞬間です。そうやって手に入れた言葉を、翌日、わたしがセンター長をしているボランティアセンターの研修のはじまり、アイスブレイキングの自己紹介のときに話しました。

 そうやって、だいたい一カ月に一回、ミシマ社に原稿を送る日々が始まりました。一カ月に一回というペースは、わたしにとっても、この物語にとっても、適当なペースで、わたしは日々、ミシマガに何を書くのかを考えながら日々を暮らしました。暮らしの中でさまざまなアイデアが生まれるだけでなく、物語に書くべき様々なエピソードや本、音楽、ドラマとの出会いがあり、人や思い出との再会がありました。

 そして、以前どこかに書いていたものが、この物語の一部としてよみがえることもありました。たとえばヤギさんについての記述は、ヤギさんが亡くなった直後に書いたものです。その文章は書いたけれども、どこにも宛先のないもので、長い間私のパソコンのなかにあるだけで、本当に少しの人にしか共有されていないものでした。

 この物語で語りなおされるなかで、わたしの書いた文章はより深い網細工を明らかにすることができました。

***

・・・猪瀬浩平さんの『野生のしっそう』、ぜひ書店でお手に取っていただけたらうれしいです。後編では、本を執筆しながら猪瀬さんが考えていたことについてお届けします。(つづく)

猪瀬 浩平

猪瀬 浩平
(いのせ・こうへい)

1978年埼玉県生まれ。明治学院大学教養教育センター教員。1999年の開園以来、見沼田んぼ福祉農園の活動に巻き込まれ、様々な役割を背負いながら今に至る。著書に、『むらと原発ーー窪川原発計画をもみ消した四万十の人びと』(農山漁村文化協会)、『分解者たち――見沼田んぼのほとりを生きる』(生活書院)、『ボランティアってなんだっけ?』(岩波書店)など。

写真:森田友希

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