第5回
すれ違う、こすれ合う。 ――『野生のしっそう』刊行から1年少し後に思う事
2025.02.05更新
2023年11月17日(金)に、文化人類学者の猪瀬浩平さんによる著書『野生のしっそう』をミシマ社より刊行しました。発売直後からかなりの反響があった本作品。今もなお、たくさんの方に読まれています。
このたび、2025年2月9日(日)に、NHKのドキュメンタリー番組「こころの時代」で、猪瀬さんの取り組みに密着した映像が放送されることになりました。番組のタイトルは「すれ違う こすれ合う」。この言葉に込められた想いや、猪瀬さんが今考えていること、『野生のしっそう』の先について、ご本人に寄稿いただきました。
(ミシマガ編集部)
『野生のしっそう ーー障害、兄、そして人類学とともに』猪瀬浩平(ミシマ社)
NHKの「こころの時代」のディレクターである、Uさんからメールをいただいたのは2024年の10月。最初にUさんと会ったのは、わたしが活動する見沼田んぼ農園の芝生広場だった。彼女は農園から少し離れたバス停で降りて、見沼田んぼの中をずいぶんと歩いてやってきた。そこで農園を案内し、そしてそこにいた私の家族や農園の仲間と一緒に作業をした。その後、わたしの勤務する大学のボランティアセンターや、近くの喫茶店で取材を受けて、これまで自分がどんな風に生きて、どんなことを考えていたのかを話した。振り返ってみると、わたしがこんなに集中して人に話を聞かれたことはない。わたしは誰かの話を聞くことの方が多くあり、聞かれることはあまりない。やがてカメラマンのTさんや、音声のEさんも加わって撮影が始まった。そういう風にわたしが何を考えているのかを聴かれる立場になって、気づいたことがある。
文化人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ(以下、VDC)が、『食人の形而上学』(洛北出版)という本のなかで、人類学者のみが人類学をしているという視点を批判する。彼は他者を人類学するのではなく、他者が人類学していると考えることによって、自分自身の世界観を揺さぶる。それによって、(子どもの時や、病になった時に日々出会っているような)自分の知らない自分のイメージに、自らを立ち戻らせる。そうすることによって、他者の表象が不可能だとして諦めてしまうだけの議論を批判する。そんなふうにわたしは、VDCの議論を理解する。
人類学者としてどう考えているのかを、Uさんが聞き出そうとしてくれていること、TさんやEさんがカメラやマイクによってそれを記録してくれようとしていること、それはわたしが『野生のしっそう』という本を書き進めるなかで、兄に対してしていたことと同じかもしれない。そうであるならば『野生のしっそう』は、人類学者であるわたしが兄という他者を描いたのではなく、人類学をしているものとしての兄を描こうとした本なのかもしれない。そんなことに気付く。わたしが兄を見つめるだけでなく、兄はわたしを兄の仕方で見つめ、理解する。
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わたしの兄が叫ぶ。それを多くの人は「奇声」と呼ぶ。ある場所から走り、いなくなる。それを多くの人は「失踪」や「徘徊」と呼ぶ。兄がどういうときに叫ぶのか、叫びながら彼が何を思っているのか、兄はなぜいなくなり、どのように経路をたどって移動しているのか、わたしには分からない。でもすべてが分からないわけではない。何かが分かるときもある。しかしその分かったことを過剰に意味づけると、兄はそこからさらにいなくなる。本の中で、わたしはそのことを書いた。
相手の意思が分からないということは、知的障害があり、自閉症がある兄と、知的障害がなく、自閉症でないとされる私という兄弟特有の関係ではない。障害があろうがなかろうか、兄弟であろうがなかろうが、誰・何との関係であっても同じことが言える。わたしは母のことも、父のことも、妹のことも、妻のことも、子どもたちのこと、友や仲間のこと、同僚のこともその人が思っていることのすべてを理解することはできない。しかし、わたしたちは共にあることができる。共にあることで、今ある世界に与えられた「家族」や「兄弟」、「障害者」や「個人」といった属性を超えることができる。それは「あらゆる分割線を複雑な曲線に捻じ曲げる。輪郭をなくすのではなく、それを折り曲げて稠密にし、虹色に輝かせ、回折させる」というVDCの言葉に通じる。
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2025年1月25日に開かれた立命館大学先端総合学術研究院のシンポジウムで、近藤武夫さんと小川さやかさん、そして院生たちや参加者たちと議論する場をいただく。これまでどんなことをしてきたのかというお題をいただいていたので、この20年書いていたことや、考えていたことでレジメを作ったのだが、近藤さんの就労を広げるための「超短時間労働」をめぐる取り組みからの刺激もあり、それを受けた話をして用意した話につなげていくと(この言葉で、地元埼玉県の障害者団体で取り組まれてきていた「職場参加」という取り組みにも、後押しになるように思い)、与えられた20分の時間はあっというまになくなり。その後、参加者と引き続き議論し、そして帰ってからも小川さんの書いたものを読み直す。
ここ最近書いた自分のいくつかの文章は「ちぐはぐさ」という言葉がキーワードになっており、今度出した学会発表のタイトルも「ちぐはぐなつながり」とした。そして2月9日放送予定のEテレの『こころの時代』では、以前わたしがある雑誌原稿のタイトルにつかった、「すれ違う こすれ合う」をタイトルにしていただいた。2023年に発表した『野生のしっそう』(ミシマ社)では、ネットワークという言葉よりも、メッシュワークという言葉を頼りに書いており、『野生のしっそう』の装丁はまさに布地に兄が針で毛糸を通すデザインになっている(ように見える)。
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『野生のしっそう』という本は、わたしが生まれた家族というものがギリギリ存在していたその最後の瞬間を描いた。そして、「すれ違う、こすれ合う」というのは、家族や友人、組織や結社、共同体のようなものが生まれてしまうギリギリ手前、そしてそれぞれの個がバラバラになってしまうギリギリ手前のところをいい表す。
そのことをもって、デヴィッド・グレーバーの言う「基盤的コミュニズム(各人はその能力に応じて貢献し、その必要に応じて与えられる原理)」という言葉を深掘りできるのではないかというのが、シンポジウムの後から考えていることである。『負債と信用の人類学』(以文社)のなかで、小川さやかさんをはじめとする執筆者が議論しているが、基盤的コミュニズムの世界も暴力がこびりついている。基盤的コミュニズムを大事にするべき、つくるべきといった命令や規範になるとおかしくなる。そして基盤的コミュニズムのようなものを煩わしく感じて、孤独に生きることを選ぶ人もいる。基盤的コミュニズムと関わって生きていくことの創造性ばかりに目を向けると、そういうものと縁を持たずに生きる人は創造性がないとされて、存在を否定されることにもつながる。「すれ違う、こすれ合う」というのは、さらにいえば「しっそう」するというのは、そういう基盤的コミュニズムというものに近づきながら、そこに一体化せず、ギリギリのところで個であるという、そういう身振りなのかもしれない。
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振り返ってみると、修士課程に入ったころに自分は実践共同体論/状況的学習論をやっており、ルーティンが機能しなくなる不確実な状況の中で人はどうするのかということを考えていた。気づけば福祉農園という活動の現場で盗難事件や原発事故などが起こり、コロナウイルスに翻弄されたりした。そして農園(というか当時の「農園ボランティア」の理念型)も、徒弟制的なイメージで組織の再生産をしていた状況から、もっと(ポジティブな意味でも)ちぐはぐなものになりつつある。気づけば農園にずっとボランティアとして通っているNさんが、ラブレター作家として新宿のイベントを主宰することになり、そしてわが友チシマ君は、今年の夏のNPO有志による旅行の下見のため、勝手に相棒をみつけてつくばにでかけて、彼女たちを道連れにした旅行の企画を着々と始めている。
『野生のしっそう』のなかで、次のように書いた。
わたしたちは経験を共有しているのではない。そんなことはたぶんできない。そうではなく、互いの身体を束の間に共用している。まなざしの交錯とは、他者のまなざしを束の間に共用することである。同じように兄の叫びやはしりに揺さぶられることは、他者の叫びやはしりを束の間に共用することである。共用しながら、こすれながら、摩耗しながら、わたしたちは他者の断片を身にまとい、変転していく。そして変転する、切ない存在であるわたしたちが、世界を形成する。(239頁)
この言葉が出てきたときに腑に落ちたことが多くあるのだが、さらにもっと先があることをいま思う。
わたしや兄が人類学をしているように、Nさんもチシマ君も人類学をしている。それぞれが描く線はちぐはぐだが、しかしそれぞれにからまってメッシュワークをつくる。輪郭をなくすのではない。それを折り曲げて稠密にし、余白を虹色に輝かせ、回折させる。強いリーダーによる、あるいはプラットフォームによって強烈につなげられた「民意」による、圧倒的な力技で多くのことを瞬時に変えられてしまうこの時代、何事も簡単には決められない、決めさせないそういうところから立ち上がっていくすれ違いとこすれ合いを「自治」と呼べないか――そんなことを考える。
編集部からのお知らせ
猪瀬浩平さんが NHK「こころの時代」にご出演!
すれ違う こすれ合う
初回放送日:2025年2月9日
「わからない他者」とどう生きるか?文化人類学者の猪瀬浩平さんが、埼玉県の農園で知的障害のある兄や多様な背景をもつ人々と「こすれ合い」気づいた希望。語り・岡山天音
文化人類学者の猪瀬浩平さんにとって知的障害がある兄・良太さんは、自分の価値観を揺さぶり、見つめ直させ視野を広げてくれる存在だ。兄と共に20年以上通い続けるのがさいたま市緑区の「見沼田んぼ福祉農園」。猪瀬さんはここで、自分と兄だけではない多様な背景をもつ人々が交わり生み出すものの可能性を感じてきた。人と人が、すれ違うだけではなく、時に心をざわつかせるような摩擦を生みながらも触れ合うことの大切さとは。(番組HPより)