第5回
「私の仕事場でエストニア語を話す人、いないのよ」――エリナと言語について話す
2026.03.09更新
すこし話は戻る。
2023年8月21日、私は成田からエストニアへ向かった。ヘルシンキで乗り換え、タリン行きの飛行機で隣り合わせたのはエストニア人のダンサーだった。彼女の祖母は、私と同じ陶芸家で、そんな偶然から、なんとなく会話が弾んだ。
ナルヴァはエストニアの町だけれど、ほとんどの住民がロシア語を話す。しかし彼女は、政府がナルヴァを改革しようとしていること、学校教育がロシア語からエストニア語へ切り替わること、いまエストニア語で教えられる教師を探していることを話してくれた。ウクライナとロシアのボルシチはまったく違うこと。これからはキノコとベリーの季節であること。海辺の美しさや、ダチャで育てた野菜を保存食にする習慣のこと。
振り返ると、あの会話は、どこか予言のようだった。
私は海岸を歩き、緑色の粘土を見つけ、バルト海がしょっぱくないことを知った。森でキノコを採り、ボルシチを教えてくれる人にも出会った。
エストニアが旧ソ連から完全に独立を回復したのは1991年8月20日。
私がナルヴァに到着したのは記念日の翌日、8月21日だった。1989年、エストニア、ラトヴィア、リトアニアの人々は国境を越えて手をつなぎ、歌いながら独立を求めた。武器ではなく、声。それは「歌う革命」と呼ばれ、いまも独立記念日には音楽を伴う行事が行われている。
レジデンスでの暮らしに少し慣れた8月24日、私は文化ホールと同じ建物にある「エストニア語の家」を訪ねた。エストニア語を学ぶ人のための施設だ。そこで、たまたま出会ったナルヴァの政府機関で働く女性が私の話を聞いてくれた。今回は番外編として、キッチンではないけれど、彼女と交わした印象深い会話を紹介する。

撮影:花坊
[以下発言者]
本原=著者、エ=エリナ(仮名)
エ:私の仕事場でエストニア語を話す人、いないのよ。
日曜にはお城のそばで「エストニア語の家」が主催する「歌うピクニック」っていうイベントがあったの。本物のエストニア語を、実際に耳にする機会をつくるのに、こういう催しは大事。でもナルヴァでは、日常のなかでエストニア語を耳にする機会はまだ多くないのよ。
私はエストニア語を話せるけど、ふだんはロシア語でクライアントや同僚と話してる。エストニア語を練習する時間を見つけなきゃね。
本原:飛行機で隣り合わせた人が、学校ではエストニア語だけで教えることになったと聞いたけど、それはナルヴァだけ? それとも国全体?
エ:国全体よ。完全にエストニア語へ切り替えようとしているところ。大きなチャレンジよ。エストニア語で教えられる教師が足りない。子どもたちも準備ができていない。親がエストニア語を話せなくて、家ではロシア語しか話さない家庭が多いから。
難しいけど、新しい制度に向かって進んでいるところ。
本原:あぁ、だから彼女、ナルヴァでエストニア語の先生を探してるって言ってたのね。
エ:そう。去年から本格的に動いてる。ロシアとウクライナの状況もあって、先生の需要がすごく高いの。エストニアの家のコースも、今までにないくらい人気。地元の人も、新しく来た人も、みんな学びたい。いま、とてもホットな話題よ。
本原:この街には3%しかエストニア人がいないと聞いたけど、タリンは?
エ:タリンは30%くらいかな。他の地域もだいたいそんな感じ。でもナルヴァ周辺、シッラマエやコフトラ=ヤルヴェ、キビオリはまた違う。
本原:ここに住む人たちは、この変化をどう思ってるの?
エ:変化への反応は人それぞれ。簡単に受け入れられる?っていうと、複雑よ。教育の質が下がるのではと不安に思う人もいる。
子どもが先生の言っていることを理解できないんじゃないかって不安もある。化学、物理、数学を、外国語(エストニア語)でどう説明するのか。
私自身も、大学に入ったときは本当に大変だった。エストニア語の教師になろうとして、授業は全部エストニア語。すごくストレスで、もう無理かもって思った。話せるようにならないって。でも、なんとか乗り越えたの。学んで、練習して、続けて。ある時点で、ふっと楽になる瞬間が来る。大変だけど、同時にわくわくもするよ。
本原:エストニア語を学ぶのに、いちばん難しかったことは?
エ:ストレスね。知らない国に行って、何が起きているのかわからない感じ。ちょっと危険な場所にいるみたいに思える。理解できないから。いま彼女は何を言ったの? 私に何をさせたいの?って。
本原:音が、まったく意味を持たないんだね?
エ:単語は知っているのに、意味がつながらないこともある。
本原:単語はわかっても、文章にならないの、わかる!
エ:ずっと緊張してると、学べない。リラックスしていないと。状況が大事。安心できると、理解できる。
本原:タリンの大学へ行ったの?
エ:ううん、ナルヴァ。
エ & 本原:爆笑。
エ:それも挑戦のひとつ。大学の外はロシア語、大学の中はエストニア語。でも学生同士はロシア語。私はこの地域出身で、車で50分の町から来たけど、そこはもう少しエストニア語の環境だった。
本原:それでもここを選んだのね。
エ:うん。自分の町よりは大きいけど、大きすぎない。うるさすぎない。挑戦になるなんて思ってなかった。でもやり遂げた。言語を使わなきゃいけなかったから。話す相手がいないときは、自分にエストニア語で話しかけてた。練習しなきゃって。
だから学生の気持ちがわかる。難しいけど、できるって私は知ってる。言葉を話せるって面白い。ほら、あなたが英語を話せるから、こうして話せる。言葉がなくても笑えるけど、理解できるのはやっぱりいい。
筆者が滞在したNarva Art Residencyで行われた、アーティストのTanja Muravskajaによるワークショップ。キリル文字(ロシア語)とラテン文字(エストニア語)の断片を組み合わせながら、新しい架空の言葉を作り、その意味を考えるという試み。撮影:Dmitri Fedotkin / Station Narva
本原:誰か私たちをキッチンに招待してくれるエストニア人がいたら、教えてね。
エ:うーん、私の知ってる人はみんなロシア語を話すの。この地域はもともとソ連の一部だった。でも独立した。8歳の時、朝起きたらエストニアになってた。同じ場所なのに国が変わったの。1991年ね。
本原:そんなに昔じゃないよね。
エ:わたしはロシア系の家庭で育った。エストニアが独立した日に、とつぜんそれまで当たり前だった世界が消えたの。だから今も覚えている人は多い。エストニア国籍もロシア国籍も取らない人もいて、この町では珍しくないのだけど、彼らは"グレー・パスポート"を持ってる。どこの市民でもないけれど、エストニアに住む権利はある。ロシアにも簡単に行けるんだ。正式にはエイリアン・パスポートっていうの。
本原:ロシアへはいつでも行けるのね。
エ:私はエストニアのパスポート保持者だから、ロシアに行くにはビザを買わないといけない。独立したこの国の市民だから。ソ連で生まれたのにね。
本原:8月20日が独立記念日だよね?
エ:本当の独立記念日は1918年2月24日。1991年8月20日は"再独立の日"。彼らは一度独立を宣言したけど長く続かなかったから、どちらも大事な日。・・・今、"彼らは"って言っちゃったけど、私はこの国の一部なのに、ときどき自分を切り離して話してしまう。
本原:独立記念日は祝う?
エ:今年は職場で何かあった。でも私はあまり国家的なお祝いには興味がない。私は、家族だけのささやかな時間のほうが好き。私にとって大事なのは国家じゃなくて、人と人。分断しようとするのは好きじゃない。行きたいなら、行けばいい。
本原:昨日さ、27歳の女性に会ったの。言語が好きで、母語はロシア語だけど、エストニア語もフィンランド語も英語も話せる。おもしろかったのは、ロシア語とエストニア語で人格が変わるって言ってたこと。そういうこと、ある?
エ:考えたことなかった。私はどの言語を話していたかより、その人と何を話していたかのほうが大事。

撮影:筆者
言葉は奪えない。
その人の頭の中で思考している言葉を、誰も止めることはできない。
よそ者としてここに立ちながら、私はかつて日本が朝鮮の人々に日本語を強いたことを思い出した。母語を奪われることがどれほど人の尊厳を傷つけるか、こんな遠い場所でようやく実感するなんて。
独立後、エストニアはエストニア語を唯一の公用語と定めた。ナルヴァのようにロシア語話者が多い地域では、街のサインも通りの名前もエストニア語だけれど、日常生活の多くはロシア語で営まれている。もちろん、エストニア語を学ぶための講座はある。けれども、学んだ言葉を実際に使う場は驚くほど少ない。
多くの人にとって、確実に身につけるにはプライベートレッスンに通うのが現実的なよう。でも、働きながら家族を支えている世代や、高齢になってから新しい言語に向き合う人にとって、その時間も費用も簡単に捻出できるものではない。
同じ街で生まれ育ちながら、市民権を持つ人と、持たない人がともに暮らしている。
私はその話を聞きながら、言語が国境になる瞬間を想像していた。
一方で、こんな話も聞いた。
ナルヴァで、ロシア語を母語とする子どもたちにエストニア語で数学を教えている教師と会った。
「授業の内容を理解できるのか、親たちは心配している。でも、実際はそれほど問題じゃないんだ」
彼が大切にしているのは、言語よりも先に、どうやって子どもたちに数学そのものに興味を持ってもらうか、ということ。その関心さえあれば、言葉の壁は意外とすんなり越えていけるのだという。




