密成和尚の読む講話

第1回

四無量心からはじめよう

2020.11.21更新

栄福寺の紅葉.jpg

愛媛今治市、栄福寺の坊さん、密成と申します。

 みなさん、こんにちは。愛媛の今治市、山あいの玉川町という場所にある栄福寺というお寺で住職をしている白川密成と申します。
 今から、みなさんに仏教と生活の話というか、法話というか、とにかく話をすることになったのですが、どんなお話になるのか、これを書いている僕もじつはまったく検討がつきません。
 第一、情けないことにみなさんの前で、口を開こうとしている坊さんの僕は、わりと情けない存在です。人を恨むこともありますし、自分に対する悪口も気になります。運動不足でめまいがすることもあります。
 本当であれば、「ああ、あんな尊いお坊さんのように生きたい」という人が、こういう場所に立つことが、いいように思うのですが、残念ながら僕はそのような人間ではありません。
 しかし、今回なんとなく思い描いていることは、仏教の「基本的なテーマ(用語)」になっていることを、少しずつ実際の生活を意識しながらお話ししていこうと思います。
 それは道徳的に聞こえたり、お説教のような感じで、正直に言うと、僕ももっと若い頃は、積極的には興味が持てませんでした。それには、「口ではうまいことを言っても、結局、実行できないとなぁ」というような「あきらめ」のような気分もあったかもしれません。

頭をぶつけるところまでチャレンジしてみたい

 でも今、そういった仏教の「基本的なテーマ(用語)」にもう一度生活の中で向かい合ってみたいと思うようになりました。なぜでしょうか? 加齢でしょうか。自分でもよくわかりません。
 ただ浮かんでくる言葉は、「それが結局"無理"だったとしても、頭をぶつけるところまでは、チャレンジしてみたいな・・・。ひひひ」という思いです(最後のひひひは照れ笑いです)。
 できれば、この連載の読者である皆さんと一緒に、頭をぶつけてみようというのが、僕の気持ちです。もしかしたら僕が駄目でも、読者の方の中で、なにかしらのヒントを得る方もいるかもしれません。
 また仏教の哲学的な思想と、道徳的にも聞こえる「基本的なテーマ」は、離れているものではなくて、分かちがたく結びついている、という気持ちも感じるようになっています。

 例えば、こんな話から始めてみましょう。
 仏教における「四無量心」(しむりょうしん)です。これは人々を覚りに導く四つの無量(計り知れないほど多い)の心とか、四つの広大な心、四つの利他の心など色々な表現がなされます。具体的に言うとそれは、

「慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しゃ)」

の四つからなります。「じ・ひ・き・しゃ」と語呂がいいので、言いやすいし、憶えやすいですね。でも行動に起こすのはなかなか難しいです。その内容もみていきましょう。

①「慈」は人間を含んだ命あるものに楽(真のよろこび)を与えること。
②「悲」は相手の苦しみを除くこと。
③「喜」は、人のよろこび(楽があること)を自分も喜ぶこと。つまりねたまないようにする。嫉妬心を除く。
④「捨」は、対象に対しても区別せず、うらみを捨てること。平静に落ち着いていること。単に好き嫌いによって差別しない。

 この四無量心ひとつとっても、様々な解釈がありますが、僕はこのように受け止めています。仏教の教えを心に保とうとする人の「心のホームポジション」のようなものでしょうか。あるいは目指す灯台のような存在。
 また「慈」にある「真のよろこびってなに?」という突っ込みもあると思いますが、それもまた難しいところです。なにせ仏教的な意味での「真のよろこび」ですから、例えば「人を出し抜いた喜び」のようなものではないでしょう。

途中の道もたくさんある

 このように挙げてみて、あらためて思うのは、まさに「言うはやすし行うは難し」です。でも、僕はみなさんと「頭をぶつけ」失敗したとしても、このような生き方を前述の通りひとつの「灯台」のようにして、生活してみたいと思いました。
 この四つを完璧に生きられる方は、わずかにおられるとは思いますが、僕を含めた多くの人にとっては、パーフェクトに満点をとるようには生きられないでしょう。
 しかし、仏教のめざす生き方には、「途中の道」もたくさんあると思っています。「このように生きたい」と思いながらも、ついつい違う心が顔を出しても、四無量心のような気持ちを持とうと、少しでも意識して生きることで、今までと違う風景や人との関わり、自分の時間、心の喜び、平静さというのが、ひろがる可能性があると思っています。

ハイブリッドでずんずん進む

 こういった「心の目標」を日々保つためには、なにかいい方法はあるのでしょうか? あるといいですよね。
 しかし残念ながら、そのような便利な方法は、なかなかないようです。ある人が、言っていた言葉で、なぜかずっと心に残っている言葉があります。それは、「自分を棚にあげないようにするには、自分を棚にあげないようにするしかない」という言葉です。なかなか特効薬のような、いい方法はないということでしょうか。残念ながら、納得せざるを得ません。
 しかしそのようなことを前提として、また仏教思想の多くが、「自身の心の修養に対して安易に見返りを求めない」ことを注意深く指摘していることを心に留めながら思うことは、「そのような心持ちで、生きられた方が気持ちがよかったし、楽しかった」という積み重ねにあるのかな、と思うことがあります。
 まだ懸念はあるでしょう。いくらでもあると思いますが、例えば「④捨」にある「好き嫌いによって差別しない」というのも、最近話題にあがることの多い、いわゆる「発達障害」的な傾向や人一倍繊細な感受性を持つというHSP(Highly Sensitive Person)といった傾向は、むしろ「個人的な好き嫌いを否定せずに、自分の好きなものを見つけ、それを実行することが、すこぶる大切」ということが、多くの専門家から指摘されていて、専門家でない僕も納得するところですし、それはそういった「傾向」で困っていない人にとっても、ある程度普遍的な話であろうというのが、僕の考えです。
 こういう話の展開になるといささか話がややこしくなる(シンプル性を欠く)のですが、あえて言うと、こういうことは多くの場面で「二者択一」ではないと思うのです。つまり「好き嫌いを大切に生きる」ということと、「基本的に好き嫌いによって差別しない」という生き方は、多くの場合、ハイブリッドでずんずんと生きざるを得ないというのが、多くの現実だと思うのです。
 例えば、密教には大切にされる五色(ごしき、所説ありますが、白・赤・黄色・青・黒など)という五つの特徴的な色があるのですが、その中に含まれる「黄色」は、なぜ大事かというと、「他の色を混ぜると光が増し、しかも自分の色を失わない」という特徴があるからと言われます。少し理想論が過ぎるかもしれませんが、四無量心によって様々な生命、他者を受け入れながら、「自分の色を見失わない」という性格は、「二者択一」の思考の多い現代の中で、ちょっぴり新鮮な視座があるように思います。
 ちょっと脇道の説明が長くなりましたが、僕自身今までよりも日々、この「四無量心」を意識しながら生活し、仕事をしてみたいと思っています。
 「いい方法はない」と言いましたが、無理やり(!)アイデアをひねり出すと、例えば四無量心をテーマにしたノート(フォルダ)を1冊おろして「四無量心日記」をつけているとか(見つかると仏教マニアの烙印を押されるかも知れませんが)、SNSで四無量心というハッシュタグでその功徳をつぶやくとか(変人だと思われるでしょうか)、すごく安直なアイデアしか思いつかなかったので、なにかいいアイデアがあれば、自分で考えてやってみてください。僕は、先ほど書いた四無量心の意味合いをポストカードにして、毎日眺めて日記を書いてみようと思います。そして朝夕のお勤めでも、それを唱えてみます。
 意外と「喜」にある、基本的に人の幸せを喜ぶということや、「捨」のうらみを捨て平静でいる、なんてことは、ついつい正反対の心持ちでいることもありますので、「人生の心の注意点」として、いいなぁ、とあらためて思いました。
 お坊さんが、「四無量心っていいぁ」というのも、少し当たり前すぎて、変な話ですが・・・。

「じゃあこういう風にやってみよう」という【第三の智慧】

 現在のところコロナウイルスの勢いは、弱まることがなく、僕たちの社会や個人も「今までと同じ」というわけには、いかないようです。
 そのような中で、多くの方がメディアでも提言を行っていますが、個人的には、人類学者の山極寿一さんの「共感」に対する論考や生物学者・福岡伸一さんの「ウイルスは私達、高等生物の遺伝子が外に出たもの」という指摘に心が動かされました。
 また故・河合隼雄さんの講演CDを聞き返していると、「人と人との関係は<戦い>ではなく、<対決>でなければならない」と話されていたのも、今の時代の中で、示唆深いものを感じました。河合先生によると、<戦い>は「勝った、負けた」の世界だけど、<対決>というものは、「じゃあこういう風にやってみよう」という【第三の智慧】が、出るものだということです。それをヒントに考えると、今、聞く機会の多い「コロナウイルスに打ち勝つ」というよりは、私達が内包しているウイルスと【第三の智慧】を模索する。そういったほうが感覚的には、しっくり来ますし、現実的とも感じます。
 また僕自身は、新聞社の依頼によって、広く世に広まったウイルス対策の密閉、密集、密接の「三密(さんみつ)」を避けるという、三密という言葉が、僕達の奉じる密教の伝統的で根本的な言葉であることを紹介しました。密教の三密は身体、言葉、心である「身口意(しんくい)」のことです。場面によって、偏りがちの身体、言葉、心をまんべんなく用いることで、少しでも「なごむ」動きが社会に増えないか、という提言をしました。

社会は個人の積み重ね

 そのような中で「個人」と「社会」というものが、密接に繋がっているという当たり前の事実にあらためて気づかされました。
 「僕は個人としてこう生きるから、ほっといてくれ」と口で言うことは可能でも、その「個人としての生き方」の積み重ねが「社会」を作っているということです。「四無量心」のような思想には、仏教という範疇を超えて、「人間が社会の中で、なかなか楽しく、そこそこの生き甲斐を持って生き抜く」ためのシンプルな智慧がゆたかに含まれていることを、あらためて想像したのです。
 「四無量心」は自分を抑えつけることではありません。むしろ自分を解放する方向性をもったものであることを、一緒に想像してみようと思います。

 あまりわざとらしくなるのも、よくないですが、最後に少しまとめて、ワークショップのようにみなさんにもチャレンジしてほしいなと思っています。

今回の仏教ワークショップ

①「慈」は人間を含んだ命あるものに楽(真のよろこび)を与えること。
②「悲」は相手の苦しみを除くこと。
③「喜」は、人のよろこび(楽があること)を自分も喜ぶこと。つまりねたまないようにする。嫉妬心を除く。
④「捨」は、対象に対しても区別せず、うらみを捨てること。平静に落ち着いていること。単に好き嫌いによって差別しない。

 この四つの四無量心(しむりょうしん)を、自分なりのオリジナル解釈でも、どんな方法でもいいので、できる範囲で実行してみよう。

 具体的な行動にならなくても、そう心に留めながら生活するだけでも、少しずつチャレンジしてみましょう。
 心の変化、感触についても少し観察してみましょう。
 怒ったり、平静さを失っても、あわてずそのことを感じてみましょう。

密成坊の方法
 上に書いた「四無量心」の意味合いをポストカードにして、毎日眺めて、それをテーマにした日記を書いてみようと思います。そして朝夕のお勤めでも、そのポストカードの言葉を唱えてみます。

四無量心(手書き).jpg

 方法は、みなさんそれぞれですが、同じようにされることも歓迎です。
 それでは、次回、またお会いしましょう。

※この連載は、ミシマ社のMSLive!での「密成和尚の土曜講話ーサタデーミッセイーを基にして書かれています。
 語り言葉でも聞いてみたい、質問してみたい、連載では出てこない話も聞きたいという方は、ぜひご参加ください。呼吸法や瞑想も毎回、最後にやっています。

密成和尚の土曜講話ーーサタデー・ミッセイーー 11月

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11月28日(土)AM10:00〜11:15(MSLive!オンライン配信)

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白川密成

白川密成
(しらかわ・みっせい)

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん。――57番札所24歳住職7転8起の日々。」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。2010年、『ボクは坊さん。』(ミシマ社)を出版。2015年10月映画化。他の著書に『坊さん、父になる。』『坊さん、ぼーっとする。』(ミシマ社)、『空海さんに聞いてみよう。』(徳間文庫カレッジ)がある。

編集部からのお知らせ

「密成和尚の土曜講話ーーサタデー・ミッセイーー・10月」アーカイブ動画を配信中です

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「お寺で手を合わせる時は、願い事をするばかりではなく、誓いを立ててみましょう」という「誓願(せいがん)」について、また日常の中で意識したい「六波羅蜜(ろくはらみつ)」についてのお話などを、密成さんがわかりやすくお話してくださった10月の講話のアーカイブ動画を12/13(日)までの期間限定で配信中です!

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