密成和尚の読む講話

第6回

ヒントとして"途中の五戒"

2021.12.18更新

やめてみることの創造性

 最近、僕が四国遍路八十八ヶ所のお寺の住職ということもあり、遍路のことを紹介する雑誌の取材がありました。
「なぜ住職さんご自身も、四国遍路を最近になって歩いたのですか?」

 自分でも明確な理由を心に決めてというよりは、自然に心が動いた、といったほうが正確ではあると思うのですが、あえて言葉にすると、どんなことなのだろう? と考えるきっかけになりました。
「"すべてが上手くいかない"という程ではないにせよ、正直に言うとなにか大切なことがうまく回っていないな、という感覚があって、どこか"流れを変えないと"という気持ちが少しあったような気もします。ちょっとお坊さんらしくないかも知れないけれど」
 ふと出てきた言葉は、そんな気持ちでした。みなさんも、人生や生活の中で、そんな感触があるのではないでしょうか。「"流れ"のようなものを、変えた方がいい気がする」そんな雰囲気を感じることが。

 仏教の基本的な教えに耳を傾けていると、「なにかをやめること」が多くあります。怒り、欲望、食事についてのルール・・・。こういった教えを耳にすると、「色々なことをやめる、というのは楽しくなさそうだな」と感じる人も多いと思います。何を隠そう僕もそう思う事も今までありました。
 でも最近、色々な場面でよく気づくことが、

「なにかをやめることによって、"はじまる"ことはずいぶん多いな」

ということなんです。

 何かを「はじめる」ということで、人生のペースのようなものを回復する人も多いでしょう。でも「やめる」ということを、つぶさに観察していると、そこから生まれ、始まることが、ずいぶんあります。
 先ほどあげた僕の取り組んだ四国遍路にしても、「働くことや、車や電車に乗ること、効率や合理性を一時停止する」など、色々な面で「やめる」機能を内包しています。
 ぜひ1度、じっくりと「やめてみること」の創造性について頭を巡らせてみてください。例えば、僕はおそらく半年ぐらい「ジュース」という飲み物を飲んでいません。お湯かお茶しか口にしない生活を試してみると、意外と「ジュース」の必要性を感じなくなり、なんとなく続いています(運動時のスポーツドリンクは何度か口にしました)。
 これは体調が思わしくなかった対策のひとつとして、はじめてみたことですが、先入観で「できない」と思っていることは、じつは意外と「できる」こともあります。またいつかジュースを飲むとは思うのですが。
 なにか楽しくリラックスして生きるために「やめてみたいこと」は思いつきましたか。「やめる」と多くの場合、その分、時間が生まれますので、それも何かがはじまる理由のひとつでしょうね。そしてなにかを「する」ということが、ある意味で自由を侵す側面を持つとして、「やらない」ことには、どこか「もっと自由でいいよ」と自分の心に声をかけるようなことでもあります。

今日のテーマは仏教の「五戒」です

 今日は、仏教を信仰する僧侶以外も含めた人達が、保つべき一般的な戒である「五戒(ごかい)」について、みていこうと思います。たぶんこういった基本的な教えは、僕たちの想像以上に、日本人の持っている心にも強く染み込んでいると思います。
 五戒は、次のような5つです。

① 不殺生(ふせっしょう)
② 不偸盗(ふちゅうとう)
③ 不邪淫(ふじゃいん)
④ 不妄語(ふもうご)
⑤ 不飲酒(ふおんじゅ)

です。ここでも、やはり「不」という「やらない」動きがみられますね。ここで「めんどくさいな」とやる気を失わないでくださいね。合い言葉は、「やめてみることの創造性」です。では、内容を見ていきましょう(解説は、色々と見解があるので、ほんの一例と理解してください)。

五戒

① 不殺生=生き物を殺さない。
② 不偸盗=盗みをしない。
③ 不邪淫=男女の道をみださない。性をみださない。
④ 不妄語=嘘をつかない。
⑤ 不飲酒=酒を飲まない。
(※僕の修行している密教の五戒は一部、わずか相違点がありますが、ここでは通仏教的な五戒を挙げます)

211218-1.jpg

 うん、そうですよね、なかなか難しいですね。でも、こういったオーソドックスな教えを「まぁそれが理想かも知れないけれど」と理想論としてスルーするのは、ちょっと勿体ないかな、という気がします。
 もちろん皆さん全員が、守ろうと決意する必要はありませんが、「少しでも幸せになりたいから、こういったことに気をつけて生活を送りたい」という人もある一定数いるものだと思います。
 宗教の「よき側面」のひとつは、「時間がつみあがっていること」で、個人的で社会的な試行錯誤を経てきていることだと思います。何千年という歴史の中で、「気持ちを落ち着けて生きたい」という人達が、注意すべき徳目の5つとして「殺し」「盗み」「性関係」「嘘」「酒」があるというところは、普段は僕もあえてじっくりと考えることは少なかったですが、もう少し時間をかけて感じてみたいところです。

 でも人によってはハードルが上がりすぎて、「無理です!」という人も少なくないと思いますので(ハイボールが好物の人もいるでしょう)、その「途中段階」としての五戒も試しに考えてみました。ですから「仏教の五戒」とは言いにくいですが、「そういったことに注意して生きる」目標として据えてみることは、有意義なことだと思います。

ヒントとして"途中の五戒"の一例

①「途中の不殺生」=人間を含めた生き物の身心をむやみに傷つけないようにする。
②「途中の不偸盗」=人が大事にしているものを、みだりに邪魔しない。
③「途中の不邪淫」=性の持つ「大切さ」を当たり前に感じながら、時に暴走する、ある種のこわさを冷静に認識する。
④「途中の不妄語」=素直な言葉を大切にする。
⑤「途中の不飲酒」=お酒を飲む人は健康や自分を失うほどの大酒を飲まない。十分で静かなお酒の楽しみを知る。

 こんな風に僕は試しに考えてみました。一見、本当に当たり前の「道徳的な」目標でもありながら、「リラックスして落ち着いた生活」に近づくために、1度、大きな基本に返って、自分の今までの生活、これからの生活を見てみてください。
 「傷つけないように」「邪魔しないように」「性の取り扱い」「素直な言葉」「静けさの心地よさを知る」。意外なきっかけのようなものが、あなたの人生にとってもあるかもしれません。
 僕は、こういった「生活上の徳目」のようなものを、その人が発しているラジオ電波のように感じることがあります。具体的な行動を喚起しているものでありながら、そういったことコンセプトを心に保っていることで、早い話が、そういった「良き物事」が、起こりやすくなる、チューニングがあってくる。

コントロールとアウト・オブ・コントロール

 今まで書いてきたような「具体的な目標」を設定することが、なにか「強引に心を抑えつけてコントロール」するようなイメージがあって、あまり好きになれない、という方もおられると思います。
 そこで空海が、創作論のようなことを書いている手紙の一節をみていきましょう。空海は、ある書を依頼された返信の中で、書についてこんな言葉を残しています。

「君臣風化の道 上下の画に含み 夫婦義貞の行 陰陽の点に蔵(おさ)めたり」(弘法大師 空海『性霊集」三 )

【現代語訳】上下に流れる線の画筆に君臣の秩序が含まれ、陰陽の点に夫婦の在り方が収められている

 こういった箇所で空海は、書のような創作には、規則や秩序、ルールがあるのだと書いています。
 しかし同時に同じ手紙の中で、「字の形に気を配るのだけをよしとするではなくて、ただ心を遊ばせ、山などの自然を思い浮かべながら字を書いた(現代語訳)」ということも書いています。つまり理性によってコントロールする力と、心を完全に自由にしてただ動き回るアウト・オブ・コントロール状態、どちらとも大切にしています。

211218-2.jpg

 これは創作を離れて、生活の中でもそういった面があると僕は思います。「五戒」のような注意点を意識して生きるのは、たしかに一見、不自由に感じます。しかし「心を遊ばせる」ことを大切に生きるためには、一方である種の「型」、気分よく生きるための「注意点」を大切にしなければならない。日々、そういうラジオ電波のようなものを発する。そんな風に僕は、仏教にある基本的な思想を受けとっています。
 この「程よいコントロール」の世界と「程よいアウト・オブ・コントロール」の"あんばい"を意識していたいものです。むしろ、「その両方があっていいんだ」という事、自体に少し救われるような気分にもなります。
 その「コントロール側」のヒントとして、「傷つけないように」「邪魔しないように」「気持ちよさ、の取り扱い」「素直な言葉」「静けさの心地よさを知る」を皆さんに今日は紹介させて頂きました。

今月の1冊

211218-3.jpg

思想としての近代仏教』(末木文美士、中央公論新社、2017年)
出張で訪れた香川県の丸亀で、大好きな猪熊弦一郎現代美術館を訪れました。美術館は次回の企画展準備のため閉館していましたが、併設の公立図書館は開いており、そこで宗教書の棚を見ていると何冊か欲しくなった本があり、その内の1冊です(帰って注文しました)。日本の仏教を知ろうとする時に、どうしても宗派を興した空海、最澄、親鸞などの「祖師」に目が向くのですが、やはり時代として近い「近代」にも様々な取り組み、実践のチャレンジがあったはずで、そのことにもよく興味が湧きます。

白川密成

白川密成
(しらかわ・みっせい)

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん。――57番札所24歳住職7転8起の日々。」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。2010年、『ボクは坊さん。』(ミシマ社)を出版。2015年10月映画化。他の著書に『坊さん、父になる。』『坊さん、ぼーっとする。』(ミシマ社)、『空海さんに聞いてみよう。』(徳間文庫カレッジ)がある。

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

ページトップへ