密成和尚の読む講話

第3回

生活の中の三力偈

2021.09.18更新

問答(Q&A)という智慧

 こんにちは。お久しぶりの「ミッセイ和尚の読む講話」です。

 もう4〜5年前程前になるでしょうか。密教の教えを説いてくださる高野山の師から勧められて高野山の「勧学会」(かんがくえ)という伝統行事に参加したことがあります。1カ月を超えて高野山に滞在することになるのですが、その行事の中で行われていたことの、主なひとつは「問答」(もんどう)でした。つまりQ&Aですね。仏教についてのある質問をして、それに答える。また質問する、答える、また質問する・・・。

画像①「問答<Q & A>」.jpg

 現代では、その問答は、大昔の議論が紙で残っているので、それを墨で書写して、自分で綴じて儀式に持ち込んで、言わば台本通りの議論をする形にはなっているのですが、「仏教の教えも不変のように見えて、"疑問をもって、答える、議論する"という繰り返しがあったのだな」と心に残っています。
 そして面白いなと思ったのが、この問答には、ちゃんと勝ち負けがあって、負けた側はきっぱりとそれを認めるんです。こういった仏教における「問答」の風景は、かなり形は違えどチベット仏教などにもあります。

 話が、仏教から離れて僕たちの生活の中であっても、「問い」を探す、持つということが、とても大事な時があると感じることがあります。
 今、この場には、どのような「問い」があるのだろうか。「わからない」でも、「わからない」と表明し疑問という好奇心を持つ。それを発する。問答の中で深めてゆく。
 その根元にあることは、「感じる」ということなのでしょうか。自分の素の心や感情の動きをスイッチオフしないで、感じる。「気持ちいいな」もあるし、「あれは嫌いだ」もあってもいいはずです。

<私>という主語

 昼ご飯を食べている時、何気なくテレビをみていると、あるトピックに対して、新聞の論調や週刊誌の引用を、わざわざ大写しにして繰り返し写し続け、「様々な意見があるようですが、どうなのでしょうか」と結ばれることが結構あることに気づきます。僕は気楽な視聴者なので、「ずっと新聞や雑誌の文字を写し続けるぐらいならば、自分たちのメディアとしての意見を言えばいいのに」と野次馬のようなひとり言を言ったりします。
 でも、それは普段の生活に目を移せば、自分も同じようなことを結構やっているんですよね。「**はこう言ってたね。**はこうだった。僕は必ずしもそうは思わないのだけど、どうなんだろうね?」
 そんな言葉を自分自身が持つことも少なくありません。言葉や考えから「自分」という主語を抜けば、人の感情を強く刺激したり、炎上することを避けられるという思いの癖が、あらゆる人や組織の中に広がっている気がします。
 でも僕は、その逆側にある「自分にまみれた言葉」というものにも、感覚的な苦手意識があります。「**は間違っている。私の**という考え方が正解だ。以上」考えてみると、こういう態度や言葉も同時に世の中にはあふれています。こうもなりたくない自分がいます。
 ずいぶん曖昧な言い方ですが、僕にとっては、「間違っているかも知れないけれど、僕はこう思うな。だからそうすることにするよ」という雰囲気や「あの事だけど、僕が間違っていたね」と多くの人が口にしやすいような気分が、人々や社会のなかにもっとあるといいなと思いますし、自分はそういう言葉や雰囲気を持っていたいと思っています。
 
 仏教は、たしかに「自我は幻のようなもの」「独善的ではいけない」「とにかく他者のために」という思想や行動規範を時に持っていますが、同時に、「たったひとりの<私>がどのような行動をするか」をとても大事にする側面も持っています。だからこそ「自分を主語にした意見を表明しながら、負け(誤り)を認める」という問答という文化も残ってきたのでしょう。

画像②「間違っている」.jpg

声が生まれる時

 この数年、人が感じるストレスに対して仏教の瞑想法や呼吸法を基にした技法が、お坊さんや信仰者の人たち以外にも、世界的にもずいぶん注目されている、という話を耳にすることが多いです。例えば、海外の病院や刑務所で瞑想実践がされている、というような実例も増えて来ているようで、効果があることも多いようです。もちろん特に思い当たるストレスがなくても、なんとなく居心地よくて日々の習慣に瞑想を取り入れている人も多いようでしょう。
 この連載の中でも、その瞑想技法の一端をご紹介してみたいと思っていますが、まずは空海のこのような言葉を読んでみましょう。空海の代表的な著作のひとつである『声字実相義』からの引用ですので、その思想面から読むことが多かったですが、シンプルに瞑想や呼吸のことを考えてみても、すっと心と体に飛び込んでくる言葉です。よろしければ、じっくりゆっく読んでみてください。

「内外(ないげ)の風気(ふうけ)纔(わず)かに発(おこ)って
 必ず響くを名づけて声(しょう)と曰う。
 響(こう)は必ず声に由る。
 声は則ち響の本(ほん)なり。
 声発って虚(むな)しからず」(弘法大師 空海『声字実相義』)

【現代語訳】
「自分の吐く息、吸う息と外界の風気とが
 接触する気配が少しでも起こると、必ず<響き>を伴う。
 それを<声>という。
 響きは必ず「声」によって起こる。
 だから「声」は響きの本(ほん)となるものである。
 ひとたび声が起こると、それは無駄になることがない」

 空海がとても広い意味で「声」「響」という言葉を用いていることがわかります。

 また実際の瞑想において、技法によっては「呼吸に気づいている」とか「ただ呼吸に意識を向けて」という表現される方法があります。それは時に、感覚的につかみにくいものですが、この空海の言葉にじっくりふれていると、自分の吐く息と吸う息によって外の世界に少しでも触れるとそこには響きがあり、声が起こるということを想像することで、今までよりも、すんなりと呼吸を感じられる助けになると思います。そしてその呼吸ひとつひとつが決してこの世界にとって無駄になっていません。
 普段、瞑想をする習慣がなく特に興味を持っていなかった方も、よろしければこの言葉にふれながら、私達の呼吸が、世界を吸い込み、また世界に出会い続けていることをしばらく感じてみてください。

生活の中の三力偈

 次にお話ししたいのが、密教の僧侶が、修法をする中で何度もお唱えするある言葉なんです。そこには、ある「力」について書かれていて、僕はその言葉が、みなさんの生活にとってもヒントになるんじゃないかな、と感じます。

画像③「三力偈」の写真.jpg

 それは、このような3種類の「力」についての言葉です。

①(我)功徳力(くどくりき)
②如来加持力(にょらいかじりき)
③法界力(ほうかいりき)

 自分の頭の中でなにかを考えるときに、「自分の力」なのかとか、誰か「他者の力」なのかなど、頭の中でぐるぐると考えることがあります。密教では、その力について修行の中でこのようにお唱えすることは、とても大切なことだと考えています。
 この3つの力とは、どのような意味合いがあるのでしょうか。できる限り皆さんの生活に寄り添う表現を考えてみるとこのようになりそうです。

「生活の中での三力」

①(我)功徳力=「自分自身の(修行の)力」
②如来加持力=「聖なる力」
※思わず手を合わせるような、心がしんとする聖なる力
③法界力=「場所や自然の力」
※それらとの繋がりの回復

 人が困った時、新しい場所へ向かいたい時、なにかホッとすることができない時、自然と奮い立たせようとするのは①の「自分自身の力」ではないでしょうか。僕もそうですし、それができないと無性に落ち込んだりします。
 しかしそのような時、なかなかピンと来ない方も多いかもしれませんが、仏さまでなかったとしても、自分にとっての「聖なる存在」「場所や自然の力」の力を感じて、戦うよりも、もとからあるはずの、そんな力に気づいて、そっと支えてもらうような気分で、寄り添うような気持ちに同調していくこともご提案したいと思います。
 僕の感じ方ですと、②「如来加持力」は個別に持つ命ではなく、あらゆるものが「共通に持つ命」のほうに寄り添う。③「法界力」は、自分が自然物であることも思い出す、といった感覚でも自然と感じられることがあるように思っています。
 なかなか実際の行動にうつすことが思い浮かばない方も多いと思います。でもシンプルに普段は足を伸ばさない近所の神社やお寺をいくつか廻ってみたり、海辺や滝でいつもより長時間過ごしてみたり、丁寧な手仕事をじっくり感じてみたり、ご自身の方法をいくつか生活の中に馴染ませてみてください。自分にとっての「聖なるもの」というのは、じっくり考えてみると、もっと意外な場所にひそんでいるような気もします。

画像④「三力の説明」.jpg

 小学1年の娘が「スイーツ屋さん」になりたいというので、「どんなスイーツ屋さんがいいの?」と聞くと、「全部タダで、車で来れないスイーツ屋さん」と言っていました。「ふーん、そうなんだぁ」と不思議な気持ちで聞いていました。全部無料で車も停められないとなかなか商売になりそうにないですよね。
 でもよく考えてみると、そのお金と車は、子供である娘が「まだ持っていないもの」だと思ったんです。つまり色々な物が自由に買えたり、遠くに移動できる交通手段。「大人は持っているけれど、自分は持っていないもの」に対して、娘は時々「大人がうらやましい」と言っていました。だから子供でも大人と同じスタートラインで楽しめる「全部タダで、車で来ることのできないスイーツ屋さん」が作りたい、というのが彼女の今の気持ちなのかもしれません。
 この「三力」の思想が生まれた頃、既にお金はあったでしょうし、車はなくても馬車などの移動手段はあったでしょう。でも今と比べると圧倒的に「不便」な時代であったと思います。インターネットの天気予報も電気もトヨタ・プリウスもなかった。
 そのような中で、今の僕たちがうまく感じられない、「聖なる力」や「場所や自然の力」が、もっと当たり前にリアルに感じられたのではないでしょうか。
 今から、その昔の世界に戻りたいとは思いませんし、戻ることもできないでしょう。でも今の時代をもう少し気分良く、手ざわりをもって生きていくために、今、少し失われすぎている「如来加持力」―聖なる力―「法界力」―場所や自然の力―を少しでも回復したいです。あるいは、それを「感じる」私達の心身自体を育んでいく。それは何というか、結構楽しそうですよね。
 そして色々な存在や智慧にそのヒントがありそうですが、僕の関わっている仏教や密教にもいい感じのヒントがありそうです。

白川密成

白川密成
(しらかわ・みっせい)

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん。――57番札所24歳住職7転8起の日々。」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。2010年、『ボクは坊さん。』(ミシマ社)を出版。2015年10月映画化。他の著書に『坊さん、父になる。』『坊さん、ぼーっとする。』(ミシマ社)、『空海さんに聞いてみよう。』(徳間文庫カレッジ)がある。

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