密成和尚の読む講話

第4回

瞑想を習慣にしてみよう

2021.10.16更新

晴れない日々に

 コロナの影響で人前で話すような機会がずっとなかったのですが、久しぶりに大阪の名刹・太融寺で、四国遍路についてのお話をしてきました。太融寺のご住職は、僕が19歳、20歳の時、高野山での僧侶修業で指導をしてくださった指導僧のおひとりでもありました。
 僕にとってこのコロナの日々は、元々「遊びに行きたい、人と会いたい」という気持ちが、ものすごく強いわけではないので、「息苦しいけれど、そこまであまり心は変わらない」という気持ちがありました。でも気づくことのできない無意識で、どこか「やられて」いたのか、身体がボディブローのように晴れない日々が続くのを感じることも多くなっていったのです。もちろん四国遍路の住職という仕事の面では、とても大きな影響を受けています。
 ですから、修行の指導してくださったお坊さんのおられる太融寺でのお話の会は、どこか自分でも何かリスタートの「きっかけ」にしたいな、と思っていました。

 その後の同じ月に臨済宗・円覚寺派の管長猊下、横田南嶺老師とも有難い縁を頂き、クラブハウス(オンラインの音声メディア)において公開でお話しする機会がありました。横田老師は、何人ものお坊さんや信仰者の方々から、卓越した人格と修行の体現をお聞きすることが多い方です。その対話の準備をする中で、ふと僕は1週間、一切の本を読むのをやめてみることにしました。なぜそうしたくなったのか、自分でもよくわかりませんが、物心ついてから常にかたわらにいてくれた「本」という存在といったん距離を取ることで、言葉や時間の感覚をリフレッシュしたくなったのかもしれません。
 縁は続くもので、その数日後には、中村明珍さんの紹介で高野山・青巖寺(せんがんじ)のご住職が長く続けられているラジオ収録でお話しする機会があり、お話しする前後から、自然と僕がお堂で過ごす(拝む)時間が長くなりました。
 人と人が出会う、ということが、なにかのはじまりになることもあるのでしょう。僕にとって、この「晴れない」日々に、いくつかのお寺でお坊さんとお話しできたことを自分にとってのいいきっかけにしたいと思っています。

瞑想をやってみよう

 今回は、少し瞑想をやってみましょう。意識的に心と体を「静か」にして、なにもせずにただ待つような時間を過ごすことの大切さは、増しているような気がしています。といっても、本格的な瞑想というよりも、ほんの導入のような体験が、この場にふさわしいと思います。普段、坐禅や瞑想に親しんでいる人ではなく、「そんなことまったく考えたこともなかった!」というような、ごく一般的な皆さんを想定してやることにしましょう。

 まず大切だと僕が思うことは、学校などで教え込まれる事の多い「ちゃんとする」「ピシッとする」→「だから疲れる」という固定観念から解放されることです。僕もそうなのですが、耳の奥に「姿勢を正しなさい!」という先生や大人の怒鳴り声が記憶されていて、「ちゃんとすると苦しい」という思い込みが多くの人にあると思います。仏教瞑想にも同じような印象を持っている人も多いのではないでしょうか。

 しかし、今から簡単にお伝えする内容は、すべて「そうした方が体が楽」だからやることだと僕は思っています。そのコンセプトをまずは頭で理解して、身体に憶えてもらうことで、「ちゃんとやる。苦しんでやる」から「より楽なリラックスする方向にシフトする」ことに向かっているんだ、という気持ちを持って頂きたいなと思います。ですから、まずは「仏教瞑想!」という堅い思い込みから離れて、その場でリラックスして肩をゆるめてピョンピョン何度か軽くジャンプしてきみたり、肩や腰をぐるぐる回したりすることからはじめましょう。

座る

 まず「座る」という大きな問題がありますが、今日はどのような座り方でもかまいません。椅子に座っても、あぐらをかいても、正座でもかまいません。

211016-1.jpg211016-2.jpg

 真言宗のお坊さんである僕は、半跏坐(はんかざ)という左の太もものうえに右足首を乗せる座り方をしますが、慣れないと痛いかもしれません。

211016-3.jpg211016-4.jpg

 正座や半跏坐だと楽に背中を立てられるので、瞑想に適した座り方ですが、痛くてはリラックスできないので、まずは無理のない座り方で試してみてください。座布団をお尻に敷いた方が腰が立ちやすくて楽な方は、座布団を使ってみてください。
 そして、手はおへその前あたり(肩に力が入らない自然な場所)で左手の上に右手を乗せて(これも宗派によって違います)、親指同士を付けて丸を作る「法界定印(ほうかいじょういん)」の印を結んでみてください。

211016-5.jpg

 肩に力が入ってしまう人は、膝の上に手の平を上に向けてそっと置く方法を試してもいいでしょう。
211016-6.jpg

 これから参考にするのは、『阿字観用口決(あじかんようじんくけつ)』という空海から実慧(じちえ)というお弟子さんに伝えられたという伝統説の残る書物です。まずは眼の状態です。

①「眼は開かず、閉じざるなり。開けば散動し、閉じれば眠沈(みんちん)す。唯(た)だ細く見て瞬きせず。而(しこう)して、両方の瞳をもって鼻柱(びちゅう)を守るべし」

【現代語訳】
(眼は開かない状態とし、そしてなおかつ、閉じない状態に置くのである。眼を開ければ心が散乱して、色々なところへと眼が移り動き、そして、多くのものを見ることとなる。逆に眼を閉じれば心が沈み眠たくなる。それ故に細く見て、瞬きしないで、両方の瞳をもって鼻の端を見るのである)

 これがよく修行でいわれる「半眼(はんがん)」という状態です。普段の生活の中で眼の状態を意識的にコントロールすることはあまりないかもしれませんが、眼を開きすぎると、色々な物を追いかけてしまうし、逆に閉じてしまうと眠くなる。だから「半分あけている」ような状態に楽にしてみてください。無理にこういった状態にするというよりも、眼の力を抜くと自然に薄目になるような感覚です。顔の筋肉が少しゆるんだでしょうか。
 そして、眼が動き回るのを防ぐために、鼻の先をぼんやりとみるような視線を作ってください。気持ち視線を落とすような感覚になると思います。凝視するのではなく、あくまでリラックスです。
 「瞬きをしない」という記述もありますね。チベットの修行などでは実際にとても大事なこととして伝えられるのを聞いたことがありますが、僕は眼が痛そうなので、やったことがありません(日本の修行でも伝えられたことが僕はありません)。

211016-7.jpg

②「舌を顎(あぎと)に付ければ、息、自ずから静まるなり」
【現代語訳】
(舌を上あごに付ければ。息が調(ととの)えられて静まるのである)

 この「舌の置き方」にも経典によっていくつかの種類があるのですが、ここでは、舌を上あごにつけるように指示があります。こうすることによって、物理的に鼻呼吸になるということもあります。この舌の置き方によって、呼吸を整えます。眼の時もそうでしたが、普段舌がどこにあるかなんて、考えなかった人が多いと思います。どうしても違和感がある場合は、舌を上にも下にも付けない方法や特にコントロールしない方法なども試してみてください。この色々と「試す」という感覚も大事です。

姿勢


③「腰は反らず、伏せず。直(なお)くして脈の道を助くべし。血脈(けちみゃく)の道、差(たが)えば、病起り、又、心狂乱す」
【現代語訳】
(腰は反らさず、うつむかずに真っ直ぐな姿勢で坐すのであり、その坐することにより血の脈の道を妨げることなく流れるように助けるのである。血の脈の道がそろわずに差し障りがあれば、病が起こり、また心が狂い乱れて常態を失ってしまうのである)

 ここが姿勢の箇所でとても大事です。すっとまっすぐに立てるイメージではあるものの、定規のようにはまっすぐ立てず、あくまで楽に自然にすっと立ててみてください。なぜなら実際の身体も定規のように直線にはなっていないからです(そうですよね?)。むしろ本来の体の微妙なカーブに体を戻すような感覚で、なおかつすっとまっすぐ自然に立てます。
 この文章にあるように、姿勢を良くしようと気合いを入れすぎて反ってしまったり、うつむいて猫背になると血流が悪くなるので、駄目だと書かれています。

211016-8.jpg211016-9.jpg

 つまりまっすぐ自然に立てるのも、きちんと血が流れるように、心身が楽であるために、すっと立てています。何度も言いますが、「ちゃんとする」ために体を強制的に「行儀よく」しているわけではありません。体をとても自然な状態にして、リラックスして、本来のパフォーマンスを発揮できるように最大限サポートをしているのです。

211016-10.jpg

 かなり要約ではあるものの、この3つは心身を落ち着ける瞑想の中でも大切な要点です。僕の属する真言宗では、「阿字観」という「ア」という文字を使う瞑想をよく行いますが、今日はもっとシンプルにこの状態から、「ただ鼻から出入りする呼吸を感じ続ける」瞑想を行います。平安後期の真言僧、覚鑁(かくばん)は『阿字観』において、

「息の出入を観ずる事、幾程の功が有りと思召(おぼしめ)し候か」
【現代語訳】
(吐く息、吸う息を観じるならば、どのくらいの功徳があるとお思いでしょうか)

と記しています。

つまり

④ただ鼻で呼吸を感じる。

ということになります。これだけです。
 やってみると結構難しいですが、他のことを考えてしまっても、特にそれで自分を責めたり、後悔することなく、すっと鼻の呼吸に意識を戻して楽に呼吸してください。その中で、自然とおへその少し下にある「丹田(たんでん)」という場所の感覚も感じられるとより良いでしょう。

 まずはこれだけでもいいのですが、僕は、瞑想の時間を半分に分けて、前半では意識的に吐く息を少し長くして(口で吐いても構いません)、丹田へ鼻で吸い込む呼吸法をした後、残りの半分で「ただ鼻で呼吸を感じる」瞑想をすることも多いです。
 時間に決まりはありませんが、まずは1日10分(5分+5分)からでもはじめて、もっと長くしたくなれば、時間をのばしてみてください。もちろん10分同じ瞑想をしてもかまいませんし、もっと短い時間でも、1日何度かやってもOKです。

 そしてできればお勧めなのが、1週間、1カ月と期間を決めて出来る限り「毎日」やってみてください。「いつもと違うこと」をやることは、容易いことではなく、どこかめんどくさいものです。しかし続けてみることで、見えてくる「楽さ」があれば、やることが楽しくなってくる人も多いです。という僕も、ついつい続かないこともあるので、今日から皆さんと1ヶ月毎日続けることにします。もちろん体調が悪い時は無理をしないでくださいね。
 それから、個人的にお勧めなのは、①瞑想とともに②体を動かす ③掃除(整理整頓) の習慣を大切にすることです。現代の生活では、「動かない」ことも大きな心身のダメージになっていることも多いと感じます。ですので、瞑想と共に少し体を動かした方がいいように経験的に感じるようになりました。それから瞑想をしていても、やはり少しでも「片付いている」空間のほうが心が落ち着くことは言うまでもありません。僕も得意分野ではありませんが、1日5分だけでも、机の上や身の回りを整理したり、掃除したりすることは、習慣にすると良い影響を感じます。それが瞑想をする場所とは、違う場所でも構いませんよ。

 そして今まで教育やしつけの中で押しつけられることの多かった「きちんとやる」ということが、じつは元をたどれば「体が楽になる」方法の模索だと知れば、日常生活の様々な動きや考えも変わってくるでしょう。えらそうに言っている僕もついつい子供には、「ちゃんとやりなさい!」と叫んでしまうことがあります。この負の連鎖をみなさんでスローダウンしたいものです(遠い目)。

 その上で、空海がその著作である『即身成仏義』の中で、<身体>ボディーというものに対して、どのような認識を持っていたか見てみましょう。

「身と者、我身・仏身・衆生身、是を身と名づく」(弘法大師 空海『即身成仏義』)
【現代語訳】
(つまり<即身>の<身>とは、わが身と、仏の身と、人間をはじめあらゆる生き物の身、これらを身と名づける)

 空海にとっての身体は、「自分の身体」だけではありません。そこには「仏の身体」と「あらゆる生き物の身体」も含まれています。今日、紹介した瞑想は、ほんの導入の極めてシンプルなものではありますが、この場所に、なにもせずに坐り、眼をゆるめ、姿勢を楽に立て、呼吸を整え、呼吸を感じることで、「わが身」が仏のボディーとあらゆる生き物のボディーに結ばれていく、あるいは結ばれていることに気づく、そんなことに深く繋がっていると感じています。もちろん、ただ「ああちょっと楽だな」と観じることができても最高にいい感じだと思いますよ。
 先ほどは紹介できませんでしたが、部屋は「暗くも明るくもない」状態がいいとされますので、ほのかな灯りなども使うといいでしょう。色々、指示をあげていくとやっぱりお寺のお堂は、瞑想に向いているんですよね。お話ししながら、僕の住む栄福寺でも皆さんで、瞑想をするような機会を作れたら良いな、と思いました。

 では、みなさん、ぜひ毎日の生活に「瞑想」を取り入れてみてください。

※『阿字観用口決』『阿字観』の現代語訳は『密教瞑想入門―阿字観の原典を読むー』(北尾隆心、大法輪閣)を引用。

白川密成

白川密成
(しらかわ・みっせい)

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん。――57番札所24歳住職7転8起の日々。」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。2010年、『ボクは坊さん。』(ミシマ社)を出版。2015年10月映画化。他の著書に『坊さん、父になる。』『坊さん、ぼーっとする。』(ミシマ社)、『空海さんに聞いてみよう。』(徳間文庫カレッジ)がある。

おすすめの記事

編集部が厳選した、今オススメの記事をご紹介!!

ページトップへ