密成和尚の読む講話

第8回

三種の菩提心

2022.02.19更新

お寺にお金を贈る時

 お寺には色々な形で、「お金」や「物」を寄進される人がおられます。最近では、栄福寺をお参りした時に、「綺麗な光が射して、ぴんときた」という理由で、家族の供養のためにお寺に百万円の寄進をしてくださった人がおられました。これはとても稀なことですが、人が何かを「贈る」現場に日々、身を置いているということは、独特の感覚を受ける事が多いです。
 数年前には、こんなことがありました。あるお年寄りが、「私は30年間、毎月1回、栄福寺さんをお参りさせて頂いています。そのお礼に、少しですが、お布施させて頂きます」とお寺に寄進をしてくださいました。僕は、その時「毎月続けたことが、30年間続いたのだなぁ」だとか、その時に「私が、よく頑張ったな」という気持ちよりも、「ありがとうございます」という思いだったのだな・・・と、やはりとても印象的な「心」を受けとった思いでした。
 そういえば、「借金が帰ってきたので、その全額を寄進します」という人もおられました。

 

家族関係が重すぎる人

 昨年、栄福寺でともに暮らしてきた祖母が亡くなりました。コロナの影響で、盛大な葬儀ではなく、人数をできる限り制限して、家族を中心にした葬儀になりました。その時に、難しい判断を迫られた喪主の僕に気を使って、ということもあるのでしょうけれど、何人かの人から「小さなお葬式が温かくて、よかった」と伝えられたことが印象に残っています。どこか本音だとも感じています。

 葬儀を終えて、しばらく経ち、なんとなくですが、現代の「家族関係」について、ふと考えることが、何度かありました。
 「私と家族」の関係が、希薄になる苦しさもありますが、濃くなりすぎて重くなっている人も多いな、という印象を持っています。もう少し時代をさかのぼると、その「私と家族」という関係性の中に、地域の人や、家族さえもよくわからない正体不明の人、気が遠くなるぐらい遠い親戚、などが混在していて、「家族」が、今よりも軽やかなものであったのかもしれません。それは、まさに一昔前の葬式の参列者達の姿でした。
 しかし、単純に「昔はよかった」とは思いません。そこには、想像以上の難しさや、時には冷酷さもあったでしょう。だから、そこに戻りたいという気持ちにもなれないのです。

 ただ100パーセントの理想はないにしても、「私と家族」という関係を、ある種の健全さをもって揺り動かしたり、薄めたり、濃くしたりする働きを、お寺やお坊さんは、少しは担うことができるかもしれないし、担ってきたのだろうなと思います。
 そういう風景は少なくなってきましたが、若くして住職になった頃、法事の後の食事の席で、親戚一同の会食に唯一、同席しているのが、お坊さんである自分の役割でした。ずっとこれが苦手でした。
 普段、お寺と付き合いのない遠方の親戚は、「この和尚、なんでいるんだろう」と思っていたでしょう。また家族だけで本当は、相続の話がしたかったかもしれません。でもそこに「坊さん」という"無関係者"がいたことの意味を、今になって、「結構大事なことなのかもな」と思い出しています。

三種類の菩提心

 今日は、『菩提心論』という仏教の論書から、「三種の菩提心」のお話をします。
 研究ではありませんから、この『菩提心論』で説かれている「三種類の菩提心」が、今に生きる僕たちにとって、どのようなヒントがあるのか、実際の生活に活かせないかな。という視点で、お話しできればと思っています。

 この『菩提心論』は、空海が何度も引用して、極めて重要視した論書ですから、それより以前の僧であるインド僧の龍猛(りゅうみょう)の著作で、不空(ふくう)という僧が、漢文に訳したと真言宗では、伝統的に考えられています(様々な説があります)。

 その『菩提心論』の中に、このような一節があります。

 「既に是の如くの心を發(おこ)し已って、須(すべから)く菩提心の行相(ぎょうそう)を知るべし。其の行相といっぱ三門をもって分別す」

                               『菩提心論』

【現代語訳】「すでに、このように心を発したのならば、その菩提心の<心のはたらき>を知るべきだ。その<心のはたらき>は、三つの種類で区別できる」

 菩提心とは、よく書物等では「覚りを求める心」と書かれていますが、僕自身は密教の師から、「覚りそのもの」であると繰り返し伝えられました。その菩提心に三種の心があるというのです。それは、どのようなものでしょうか。
 僕は、その「三種の総合性」が、禅宗において坐禅があるように、浄土門において念仏があるように、「密教」において、根本の教えのひとつであると思っています。

「諸佛、菩薩、昔、因地(いんぢ)に在(いま)して是の心を發し已って、勝義(しょうぎ)・行願(ぎょうがん)・三摩地(さんまじ)を戒とす。乃(いま)し成佛に至るまで時として暫くも忘るること無し」

                              『菩提心論』

【現代語訳】「諸仏・菩薩は昔、修行の出発点にあって、この心を発こして勝義、行願、三摩地をもって戒とした。そして、その心を成仏するまで、片時も忘れることはなかった」

 三種類の「覚りの心」が、出てきましたね。以下のようなものです。

・行願の菩提心
・勝義の菩提心
・三摩地の菩提心

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 まずは簡単に、仏教的な教えの意味をお話ししましょう。
 「行願の菩提心」は、他者のために、あらゆる命のために、慈悲の心を持つことだと、様々な解釈がある中で僕は受け止めています。繰り返し、仏法が発していることです。
 「勝義の菩提心」は、すべての存在が、それだけでは存在し得ないし、そもそも私たちが普段、感じているような実体を持たないという「空(くう)」の教えを心から実感することです。
 そして「三摩地の菩提心」は、瞑想によって自身も仏であると気づくことです。

 この三つのようにコンビネーションで、総合的な教えを提示するところにも密教の特徴があります。ですから、今までも何度も複合的な教えが登場しましたよね。

 しかし正直、これだけをみても、「修行者には、そういう教えがあるのですね」という感覚で、みなさんの実生活には、関連が薄いように感じられるかもしれません。ただあらためてじっくり考えてみると、お坊さんではなくても、この「三種の菩提心」のような智慧は、僕たちの普通の生活の中でも、ヒントにすることができるのだと思っています。

 例えば、最初の「行願の菩提心」は、現代の生活の中で、<他者や共同体、あらゆる命のためにも心を起こし、行動する。そこにある気づきも大切にする>などと受け止めることもできるでしょう。ちょっと敷居が高い、と感じられる人は、「"基本的に人には親切にしよう"ぐらいにマインドを初期設定していたほうが、自分も気楽だよね」といったところからはじめてみましょう。

 次の「勝義の菩提心」は、<あらゆる存在が、個別的な"それ"だけでは存在していないことを、論理的な知識、智慧としても実感する>といった意味を汲み取ることも可能でしょう。なんだか小難しいと感じる人は、「"オレ"って、枠組みって、本当に有効なの?」という哲学的命題を、いつも胸に転がしてみてください(余計、小難しいでしょうか)。

 「三摩地の菩提心」は、瞑想に普段、親しみのない人であっても、<様々な方法で、自分を含めたあらゆる命が、自然と融け合った存在であることを実感し落ち着く>という意味合いで受けとれば、必ずしも仏教の修行者に限定したお話ではないことだと思っています。

 あくまで、僕の個人的な展開方法でありますが、少しまとめてみましょう。

「現代生活における三種の菩提心(試論)」

・行願の菩提心
<他者や共同体、あらゆる命のためにも行動する。そこにある気づきも大切にする>
→【カジュアルな出発点】基本的に、人には親切にする。

・勝義の菩提心
<あらゆる存在が、個別的な"それ"だけでは存在していないことを、論理的な知識、智慧としても実感する>
→【カジュアルな出発点】"オレ"という枠を疑う。

・三摩地の菩提心
<様々な方法で、自分を含めたあらゆる命が、自然と融け合った存在であることを実感し落ち着く>
→【カジュアルな出発点】上記ふたつが、その気づきに有効。

 このようにしてみました。もし気に入ったら、みなさんの生活の中で取り入れて、実践してみてください。

聖なる感覚と結び直す

 なぜ三種の菩提心のような教えがあるのでしょうか? ふと素朴に考えたことがありました。もちろん「覚りのために必要だから」という言い方も、できるでしょうけれど、もう少し実感に即して、感じてみたくなりました。

 その時、ふと頭に浮かんだ言葉が、真言(しんごん)です。みなさんは、真言をご存じですか。阿弥陀如来だったら、「オンアミリタ・テイゼイ・カラウン」であったり、お地蔵さんは、「オン・カカカビ・サンマエイソワカ」というように、インドのサンスクリット語で、密教のお坊さんは、たびたび呪文のような言葉を発します。日本の密教教団の名前はまさに、僕も所属している「真言宗」という名前です。
 この真言(マントラ)は、バラモン教などでも用いられ、インドの伝統宗教の中では主に神々を称賛するための言葉でした。密教でも、そのような性格を持っていますが、「仏とあらゆる命を、結び付ける」というさらに大切な性格を担っています。

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 この三種の菩提心にしても、私たちが生きるうえで、あるいは死んでいくうえで、大切な「聖性」と"結び直す"ために、先人達が残した智慧なのだと僕は思っています。つまり聖性とは、思わぬ近い場所にあるはずのものなのです。

 最後に、もっともよく知られているとも言える空海の言葉を挙げてみましょう。

「それ仏法、遙かにあらず心中にして、すなわち近し。真如、外(ほか)にあらず、身を棄てて何(いづく)んか求めん」

                       弘法大師空海『般若心経秘鍵』

【現代語訳】「仏の教えは、遙かかなたにあるものではない。われわれの心の中にあって、まことに近いものである。真理は、我々の外部にあるものではないから、この身体を捨ててどこにそれを求め得よう」

 空海は、繰り返し仏の教えは、どこか遠くにあるのではなく、この心の中にあるのだと説きます。だから、この身体を離れるものではないと述べます。
 今日の、菩提心の話をきっかけに、まずはその心を、そっと覗き込んでみてください。そして私たちの行動や心のあり方に、「三種の菩提心」を意識してみてください。
 キーワードは、・行願 ・勝義 ・三摩地です。

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白川密成

白川密成
(しらかわ・みっせい)

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん。――57番札所24歳住職7転8起の日々。」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。2010年、『ボクは坊さん。』(ミシマ社)を出版。2015年10月映画化。他の著書に『坊さん、父になる。』『坊さん、ぼーっとする。』(ミシマ社)、『空海さんに聞いてみよう。』(徳間文庫カレッジ)がある。

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