学ぶとは何か 数学と歴史学の対話

第3回

孤学と縁学(藤原辰史)

2021.12.08更新

歴史学者の藤原辰史さんと数学者の伊原康隆さんによる、往復書簡の連載です。伊原さんから藤原さんへの前回の便りはこちらから。

藤原辰史>>>伊原康隆


 学びには「習得すること」と「探索すること」があるという伊原さんの整理は、学びとは何かを考えていく私たちの冒険に大変役立ちますね。

 現在の教育も「詰め込み教育」の反省を始めており、それこそ「探究科」という専門科が進学校にできるくらい、未成年の「探」の重要性はますます増しているように思います。最近、高校で講演をさせていただくことが増えたのですが、そこではつい「高校までの学びは問題を解くこと。大学からの学びは問題を立てること」と言ってしまいます。私が高校生だった頃のイメージを引きずっているのでしょう。しかし、実のところ、現在の高校生は論文を書いたり、調査をしたりするチャンスが結構あるようです。また、当然、大学入学後も、問題を「解く」ことは重要な学びのひとつでしょう。ただ、依然として、私が通っていたような、進学校ではない高校では、「習」の比重は大きくならざるをえず、地域によってはその「習」を、放課後に先生や地域のボランティアが必死に支えている、というのも日本の「学び」の風景にほかなりません。

 伊原さんと異なって、私は、高校までは受験勉強に適した機械的暗記が得意でした。脳みそを筋肉のように考えていたんだと思います。当然、無感動に覚えていますから、大学に入って忘れるのも早かったですね。このようなやり方がおかしいことは受験勉強をやりながら理解していましたが、やめることができませんでした。

 そんな現状を踏まえたときに、伊原さんが、授業がつまらなければ、授業そのものではなく、授業に出ているクラスメイトに興味を持つというのはどうだろう、と提案していることに驚きました。非常にユニークな視点だと思います。

 前任校で卒業論文の指導をしていたとき、驚いたことがありました。学生は卒論ゼミの開始時間には来ず、ギリギリまで自分の論文の準備をし、自分の時間が始まる頃にやってきて教員の指導を受けた後、すぐに帰ってしまう。一緒に卒論を書く仲間が何をしているかにはほとんど関心を持ちません。私はこれでは大学の意味がないと危機感を抱き、できるだけ他の学生のも聞いてね、と伝えました。しかし、やっぱり、自分の論文を仕上げることばかりに気が取られることが多い。

 他人が何について書こうとしているかに関心を持ち、意見を言ったり、アドバイスをしたり、悩みを聞いたりすることは、自分が卒論を仕上げるよりも重要なプロセスだと私は思っています。人文科学では(自然科学や社会科学もそうだと思いますが)、概念一個、名詞一個、動詞一個の選択をいい加減にしてしまうと論文の質が落ちてしまいますので、かえって自分の論文が他人の発表での言葉遣いに影響を受ける機会があればあるほどいいと思います。相手へのコメントや批判をしつつ、自分にブーメランのようにそれらが戻ってくるという感覚も重要です。そのような相互作用は、実は他人が気になって仕方がない小学校のときにはむしろ自然にあったことだと思います。とりわけ人文社会科学は、基本的に共同的なものだと私は思っているところがあります。これを仮に、拙著のタイトルを援用して、「縁学」と名付けましょう。また、小中高のようにオフィシャルな場所で集団的に学ぶことを「公学」と言ってみたいと思います。大学は縁学と公学のあいだくらいかもしれません。

 他方で、以前伊原さんの数学ノートを拝見したときにも思ったのですが、学びは基本的に孤独であり、誰にも邪魔されない自分の自由な心の動きでもありますよね。私も、コーヒーを飲みながら静かに本を読んで、物思いにふける時間というのは(最近急速に減りつつありますが)かけがえのない自由な時間です。それはとくに「探」に欠かせない。これを仮に「孤学」と呼んでみましょう。

 しかし、孤学に没頭する怖さは、社会との関係が切り離されてしまうこと。どんなに優れた発見や学説でも、学問が社会に悪影響を与えることがイメージしきれない。アインシュタインはその悲劇(もちろん、彼は後に平和運動に関わるわけですが)のひとつのあらわれかもしれません。我々の仲間が伊原さんに驚くのは、孤独にひたりつづける数学という学問の担い手なのに、社会や政治や文化の「探」も決してやめない、そのバランスです。

 ただ、政府機関や報道機関を気にしすぎる学問というのも考えものですよね。あまりにも社会の空気を読むことに熱心で、既成概念を打ち破るような自由さがなくなってしまう。最近の学問では、とくにこの傾向のほうが問題なのかもしれません。

 私本人に限ってみても、孤学と縁学の衝突は日常茶飯事であります。所属している人文科学研究所は「共同研究」を看板にしておりますが、一冊の研究報告書を作成するさいに、班員の個性と班の共同性をどう折り合わせるのか、毎回悩みます。また、孤学の海に入り込んでいくと、本当にこの方法で問題ないだろうかと不安に襲われます。

 いずれにしても、公学と孤学と縁学がそれぞれ引き合う磁場のはざまで、それらを結びつけながら、自分なりの学びを探っていくということなのでしょう。ただ、私が考えてみたかったのは、その中で、伊原さんのおっしゃられた、「学ぶ他人に関心を持つ学び」という縁学の可能性でした。

 公的教育、つまり公学の中でいかに縁学の可能性を広げられるか、そして、各々の孤学を最大限自由に羽ばたかせることができるかが、学びの豊かさにつながっていくと考えています。

(伊原さんから藤原さんへのお返事は、毎月20日に公開予定です。)

藤原辰史/伊原康隆

藤原辰史/伊原康隆
(ふじはら・たつし/いはら・やすたか)

藤原辰史(ふじはら・たつし)
1976年生まれ。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食の思想史。2006年『ナチス・ドイツの有機農業』で日本ドイツ学会奨励賞、2013年『ナチスのキッチン』で河合隼雄学芸賞、2019年日本学術振興会賞、同年『給食の歴史』で辻静雄食文化賞、『分解の哲学』でサントリー学芸賞を受賞。『カブラの冬』『稲の大東亜共栄圏』『食べること考えること』『トラクターの世界史』『食べるとはどういうことか』『農の原理の史的研究』ほか著書多数。

伊原康隆(いはら・やすたか)
1938年東京生まれ。理学博士。東京大学名誉教授。京都大学名誉教授。1998年日本学士院賞。東京大学数物系大学院修士課程修了後、勤務先の東京大学理学部(1990年まで)と京都大学数理解析研究所(2002年まで)を本拠地に、欧米の諸大学を主な中期滞在先に、数学(おもに整数論)の研究と教育に携わってきた。著書に『志学数学――研究の諸段階 発表の工夫』(丸善出版)、『とまどった生徒にゆとりのあった先生方――遊び心から本当の勉強へ』(三省堂書店/創英社)など。最新刊は『文化の土壌に自立の根』(三省堂書店/創英社)。

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