学ぶとは何か 数学と歴史学の対話

第6回

無心で「本物」に向き合う(伊原康隆)

2022.01.20更新

歴史学者の藤原辰史さんと数学者の伊原康隆さんによる、往復書簡の連載です。藤原さんから伊原さんへの前回の便りはこちらから。

伊原康隆>>>藤原辰史


 年明けのバトン確かにお受けしました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 今回の私の話の順序ですが、以前からの積み残しが前半、ご質問へのお返事が後半となります。やや長い正月増大号? です。

 その前に、私側の中期構想にも少しだけ触れておきましょう。学習における「習」と「探」の話には能力の問題もからんできます。「探の選択」は「能力の偏向」と切り離せません。そしてそれらを掘り下げて考えるため、「習」と「探」に加えて「能」の三つを「むしろ三者関係」と考えることに私は興味をもっています。いいかえると学習に限らず日常生活で何かを判断する際に常に問題になる次の三方向の圧力(や吸引力)のバランス:

 「しなくてはならない」「したい」「できるできない」。

そのうちの「したい」が強そうなイタリアの言語文化も参考になりそうです。この話は次回以降に、とウズウズしております。加えて数学よりの話もいずれオズオズと。これが中期的構想。

 さて、今日の前半は「記憶力の種類の偏向と理系への選択」の話から始めたいと思います。まず「二通りの記憶力について」。

 私はバラバラなものの単純暗記はもともとかなり苦手でした。先天的なのかトランプの神経衰弱での幼少時でのトラウマによってそういうものへの集中を阻害する神経経路ができてしまったのかは定かでありません。そしてこれ自体は、やはり不利なことです。それが他の補充能力の強化を呼び込み、しかもそちらの能力の方が「より役立つ」分野を見つけてそちらに進まない限り。ところが記憶力がよいと感心されたこともしばしばあり、その度に心外! と憤慨? していたようです。一体どういうことでしょうか。私個人の問題と思えばここで取り上げたりいたしませんが、わりに一般性のある問題ではないかと考えています。「ある少年の話」と思ってお付き合い下さい。

 たとえば「雑然と散らかった部屋を見せられて『何がどこにあるかをできるだけ沢山憶えてみろ』といわれた場合に(いやいやでも)沢山憶え得る能力」と「美しく調和がとれた部屋を見てその配置の美しさに印象づけられたために、どこに何があったかを自然に憶えていた」のとは、全く異なる能力ではないかと思うのです。前者は純粋な「機械的記憶力」、後者は、その人の審美感覚が憶えたいと自然に願ったこと「だから」憶えているという、「無意識領域の願いの強さ」の問題なのでしょう。前者は受け身ですが何でも来い、後者は自主的選択的にしか働きません。もしそれを「記憶が良い」といわれたら「憶えちゃったことだけを憶えているのですが......」としか答えられません。一方の欠点を補うために他方が発達することは大いにあり得ても、両者は根本的に違うと思います。この二つの混同のため、その少年の知的能力への学校での評価にも両極端があったとか。

 多くの理系科目の対象は、合理性とそれに基づく調和美をそなえた構造体でしょう。それに音楽を加えた諸科目では、それをなるべく普遍性のあるものに感じとれるように(系統的に)深めてゆくのが「勉強」でしょうか。ですからまず自分の審美感覚を信じ「この構造はよくみれば素敵な美しさを持っている筈だから自分の目でもっと直視してみよう」とさえ思えば、ばらばらな記憶力頼りよりもずっと楽に長く印象付けて記憶にも残るのではないかと思っています。全部でなくても多くの場合に、です。私の体験では急ぐ気持ちが一番の敵でした。そもそも「早く済ませたい」は楽しくないことへの対応。選んだ「探」の勉強なら楽しいはずで、楽しいことにはゆっくり時間をかければよいというだけの話ともいえるでしょう。

 余談として、他所に書いたことですが、かつて東京大学で数学科での講義をしていた頃(1980年代)の話。学期末試験の一つの問題にヒントとして

  手折らずに観ればやさしい梅の花

と書き添えたことがありました。そのこころは「あわててすぐ手を動かそうとせずに対象をじっくり観て背後にどういう構造があるかを見抜ければやさしく解けますよ」。このヒントは学生たちにもいたく気に入られたようで続く五月の学園祭でもテーマの一つに。答案では期待どおりに解いた学生が二人、そして白紙答案にピシャリと見事な返句

  やさしさに手動きもせず梅の花

が一人。「やさしさ」の三つの意味(優、易、易の反語)の重なりを、一緒にそれとなく楽しめたのはお互い日本人だから! 皆、今どうしてるかな。

さて、ご質問の中心「(伊原さんの)本物の定義は何か?」 まずはお答えです:

  実体験を通して深く感じとるもの、
  鼓舞する力を持つもの、
  無条件に「敬」の気持ちを抱かせるもの。

 少々補いましょう。まず対象は「作品」です。人物ではありません。 人名を冠する場合は「作者の幾多の作品と直に接して感じること」です。

 無条件に「敬」の気持ちを抱かせるもの、とも述べました。「かりに同時代で同じ専門分野の作品であっても無条件に」を含んでいるわけです。しかしその場合、人間ですから競争意識に邪魔されるかもしれません。それを超えて出来るようになるには、よりハードルが低い(競争意識が生じる余地が少ない)場合にまず本物を実感して、「ああ、本物というものがあるんだ」という普遍的な感覚が心に刻み込まれることが肝心なのではないでしょうか。私がかなりの重点を「古典、できれば専門外」に置いている所以です。

 ここ迄は個人への影響の話でしたが、いわゆる古典(クラシック)は、それが広まり時代を経て受け継がれてきたものですね。大抵の場合、まず狭いネック(認められない時代)に阻まれているようです。メンデルの遺伝の法則は、発表からなんと34年も経ってから他の人に再発見されたのでした。モーツルトの作品ですら(誰にでも分かる)即興演奏の素晴らしさを伴っていたからこそ、作曲家としての卓越した力がのちに認められるまで持ちこたえられたのでしょう。あえなく消えてしまったものの方がずっと多いのではないでしょうか。本人が、というより世界にとって運がよければ、著名人の誰かがそれを「本物」と気付き(シューマンがショパンやブラームスの才能を宣伝したように)強い力で発信し、その噴出力と同調圧力の波によって広まるのでしょう。あのシューマンがそういうのなら、ひいては、多勢がそういうから、とりあえず自分も体験してみよう。

 私は、特に若いうちにこういう同調圧力の影響を受けるのはよいことだと思っています。これがないと新しいことはなかなか始まらないでしょう。そして、本物は体験してこそ分かるのであり、皆がすごいという古典作品からの方が本物に出会える可能性がはるかに高いからです。そこから先は個人との相性の問題で、真にその人と合っていれば何らかの新鮮な切り口を自分でも見つけられ、その自分なりの表現もできるでしょう。

「本物」という根源的な言葉が「社会的、客観的評価の基準用語の一つ」としても使われているとは気付いていませんでした。上記は無論それよりも源流の話です。では更にさかのぼって作品そのものの特質としての本物の特徴は? となるともっと難しいですね。そもそも無限の深さを持つ敬の対象を、知っている言葉で「ああだこうだ」といえませんから。ただ、私の感じているわずかな場合に共通すると思うのは、見事に統一された構造が裏にあり、それが凝縮された感動を呼ぶ力を与えているもの。たとえば音楽では、聴き終わったとき完璧に打ちのめされ、しばしの沈黙の時間を経てから我に返ることがあります。これらの作品中には、大きな変化も微妙な揺らぎもあり、それらが作者のたぐい稀な集中力によって一つの作品に纏められているのだ、という印象です。藤原さんも厭われる作者の押し付けがましさではなく、作品そのものの迫力でしょう。

 お手紙を拝見して、どうやら本物、偽物といった言葉を安易に振りかざす評論家たちによってこの言葉がかなり汚されているらしい、だから藤原さんにとっては使いたくない言葉の一つになってしまっているらしい、とやっと気付きました。

 しかし、この言葉を、本来の限られた意味でしっかりと感じ取り、本物と偽物の区別に大勢が敏感になる必要が現在ほど高まっている時期はかってなかった、という気すらいたします。それで本物という言葉を正面に出しているのです。もし安易な使用に耳を汚されたら、芸術区域に足を運び、本物と言われている文化遺産に直に接してみませんか? そんな汚れをきれいさっぱり流してくれる力、これも本物の力のうちと改めて痛感されるかもしれませんーー私は、何度もそうやって自分を取り戻せてきたと思っております。無心の子供に帰れ、鼓舞されると本質的でないことはどうでも良いと思える、真横より上空が見える、そして自分を取り戻せる。本物は文化の土壌を作り、そこに根を張る種子の自立をこのように助けてくれるのだ、と思うのです。

 くれぐれも、ある基本用語が「汚されているからもう使うまい」ではなく、それを使おうとしている私と白紙に戻ってお付き合いいただければ幸いです。

 藤原さんのテーマご選択の系列と新鮮な切り口のご提案には、専門外ながらいつも感銘を受けております。人文科学は(数学ほど)深いところで芸術と密着した分野ではないのかもしれませんが、人間としては同じ。趣味の分野の本物から力を得ることもある(これがその社会の文化度!)でしょうから、他分野の本物にもっと接してみてほしいな。藤原さんは社会での実地体験は私よりはるかに豊富でおられます。では文化芸術方面での実地体験の蓄積と咀嚼度についての私は? というと、大したものではないとはいえ、長期間生きてきたお陰でご想像の域を超えているのかな、そんな気がしてきました。

 そして根源的なこと「大学は客観的評価ばかり気にせず、より深い実地体験をしてそれを生かせる人物を大切にせよ」という考えは共有していると信じております。

藤原辰史/伊原康隆

藤原辰史/伊原康隆
(ふじはら・たつし/いはら・やすたか)

藤原辰史(ふじはら・たつし)
1976年生まれ。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食の思想史。2006年『ナチス・ドイツの有機農業』で日本ドイツ学会奨励賞、2013年『ナチスのキッチン』で河合隼雄学芸賞、2019年日本学術振興会賞、同年『給食の歴史』で辻静雄食文化賞、『分解の哲学』でサントリー学芸賞を受賞。『カブラの冬』『稲の大東亜共栄圏』『食べること考えること』『トラクターの世界史』『食べるとはどういうことか』『農の原理の史的研究』ほか著書多数。

伊原康隆(いはら・やすたか)
1938年東京生まれ。理学博士。東京大学名誉教授。京都大学名誉教授。1998年日本学士院賞。東京大学数物系大学院修士課程修了後、勤務先の東京大学理学部(1990年まで)と京都大学数理解析研究所(2002年まで)を本拠地に、欧米の諸大学を主な中期滞在先に、数学(おもに整数論)の研究と教育に携わってきた。著書に『志学数学――研究の諸段階 発表の工夫』(丸善出版)、『とまどった生徒にゆとりのあった先生方――遊び心から本当の勉強へ』(三省堂書店/創英社)など。最新刊は『文化の土壌に自立の根』(三省堂書店/創英社)。

編集部からのお知らせ

2021年12月に伊原康隆先生が新たに本を上梓されました。数学の分野にとどまらず、音楽・芸術分野にも造詣の深い伊原先生による、大変刺激的な一冊です。本連載のなかで話題にあがっている「本物」や「わからない」をめぐる議論、そして今回の本文中にある「本物は文化の土壌を作り、そこに根を張る種子の自立をこのように助けてくれるのだ」という伊原先生の言葉について、より深めていきたいという方、ぜひ連載と合わせてお手にとってみてください。

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『文化の土壌に自立の根ーー音楽×知性、数学×感性など越境自在な根の動きを追う』

すぐれた芸術・文化が育ててくれるのは
関連性を自らイメージして楽しめる力
フォーカス・イメージの嵐の中、いま大切なことは――

音楽と数学に文学と生物学。世界的数学者がこれらを縦横無尽に学んで、個々の楽しさと共通性を伝える知的冒険の書。その根っこには何があるのか。「わかったつもり」で終わってしまう教育と学問に警鐘を鳴らす。
(京都大学人文科学研究所 藤原 辰史)

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