学ぶとは何か 数学と歴史学の対話

第13回

「サークル」について(藤原辰史)

2022.05.08更新

歴史学者の藤原辰史さんと数学者の伊原康隆さんによる、往復書簡の連載です。伊原さんから藤原さんへの前回の便りはこちらから。

藤原辰史>>>伊原康隆


 いただいたお手紙、今回もとても読み応えありました。Well, Live and Learn.という共同研究者の言葉がリフレイン中。伊原さんの翻訳をめぐる考察に触れて、私の中にまたぐるぐると想念が渦巻きます。日本の大学の管理者たちは、「グローバル」に活躍する人材というものを育てることを目標にしているそうです。しかし、彼らは外国語を「武器」としてしかとらえられない。伊原さんのいうように、外国語を学ぶことは、その文化的背景や、日本語にはない言葉のニュアンスなどを学んでいくことで、日本語を外から批判的に眺める力を持ち、おのれの表現を磨いていく、ということであるのに、どうやら大学のトップの方々は外国語を学ぶことは日本語を学び直す、というところまで考えが及ばないのは残念としかいいようがありません。

 わたしの指導教員だった池田浩士さんの研究対象は、ファシズム文化から日本の大衆小説までとても幅広いのですが、その中でもドイツ文学はかなり重要な位置を占めていて、大学ではドイツ語の講義も持っていました。言葉にとても厳しい人です。私は三回生まで第二外国語が中国語でしたが、四回生のとき私もふくめて研究室の院生でドイツ語を学びたい人が増えたため、池田さんは、ドイツ語の教科書を自分で作成した上に、学習会を毎週開催してくださいました。その場で、ドイツ語の辞書を引くときには、見出しの訳語から適切なものを「選ぶ」のではなく、その単語について書いてあることを発音記号も含めて全部読み込んだ上で、その言葉がどのような意味を持つのかを総体としてとらえ、その上で訳語を検討しなければならない、とくりかえしおっしゃっていました。電子辞書を使う学生には、つい意味だけを選んで翻訳しようとする人もいますが、それでは十分ではありません。掲載されている例文やあまり使わなくなった意味合いや語源なども読むことで、理解はより深まるからです。

 今回も反省モードですが、私はあの質の高い学習会をほぼ全て出席したにもかかわらず、現在ドイツ語能力も日本語能力も納得できる状態ではありません。まだ修行中です。博士論文を書籍化したときは、翻訳に引きずられ、不定冠詞のついた名詞を定冠詞のついた名詞のように訳してしまって、意味が大きく変わってしまったというミスを専門家に指摘され、長く落ち込んだこともあります。これだけ時間をかけてじっくり考えることの重要性を教えられたのに、私のせっかちな性格は頑固で、なかなか直りません。ついスピードに乗って論文を書いていると、事象を図式的に理解し、駆け足で説明しようとする。また、あまり環境のせいにしたくありませんが、私が院生のころは博士号を早く取得することが当然と思われるようになり、それにともない、できるだけ早く論文を書くことが求められる空気が強くなりました。いまの文系の院生はもっと大変です。できるだけ効率良く論文を書く能力が求められ、道草をしている時間がますます減っています。これでは、学問は先細りしてしまいますね。

 そんな時代だからこそ、伊原さんのいう「でも何か変」と言える勇気とゆとりが指導側にも学生にも欠かせません。最近、スローリーティングがもたらす創造力を感じます。雰囲気に飲み込まれて、思考停止になるのはまさにファシズムの心理ですから、あえてそのような心がけをするぞと言い聞かせています。

 「でも何か変」という伊原さんの言葉を読んで、思い出したことがあります。京都市は、放置自転車の撤去があまりにも厳しく、撤去されると保管料3500円を奪われます。にもかかわらず、市内に自転車を止める場所は少なくて、30分以上経つと有料になるところも多いので、自転車に乗っているメリットが失われます。京都市はマイカーの制限をし、S D Gsに貢献しようとするのですが、矛盾しているとしか言いようがありません。無料で止められる場所を確保するのが、公的なサービスを納税者に再配分する市の役割なのに、どうして市民にばかり負担を求めるのか理解できません。私が「変」と感じたのは、しかし、そのことばかりではありません。伊原さんもお聞きになったことがあるでしょうが、自転車の撤去のミニトラックがやって来るとき、路上で呼びかける録音された声に毎回いら立ちを覚えます。放置自転車を「京都市において撤去します」という曖昧な言葉。「において」というのは英語のatに近く、場所や時間や観点を示す便利な言葉です。あまりにも曖昧なので私は使わないようしています。しかも、「京都市において撤去します」だと、京都市の責任をぼかしているように感じてなりません。はっきりと「京都市が撤去します」か「京都市によって撤去されます」か「京都市が委託する作業員が撤去します」などと言えばよいのですが、責任が曖昧にされて、毎回、気になってしようがありません。それと、自転車の駐輪環境が劣悪なままで、自転車の放置は景観を汚し歩行者の安全を奪います、と主張する京都市の無責任さが重なって見えるのです。

 さらにいえば、伊原さんの話を読みながら、丸山眞男がいう日本の「無責任体制」を現在にいたるまで支えてきた言語的な基盤についても考えました。そもそも、日本語を使っている間、主語が省略されやすく、「誰が?」という問いが奪われやすいことはしばしば指摘されるとおりでしょう。それだけではありません。財政がピンチです、緊急事態です、有事です、文書が見当たりません、というように、誰かがその原因であったはずのことを、あたかも「天災」かのように扱う言葉は豊かです。そのような法律になっています、そのような決まりになっています、こういう状況ですから動かしようがありません、というような「状況」が主語となって、伊原さんのいう、小さな「動き」がそこから排除されてしまいます。

 責任の話との関係で、最後に円の話をさせてください。お金の円ではなく、円形の円です。最近、坂上香監督の『プリズン・サークル』という映画を鑑賞し、同名の本も読みました。映画は、ブレイディみかこさんとオンラインで対談したときに強く勧められていたものです。窃盗、強盗、性犯罪、殺人まで、いろいろな罪を背負った人間が、島根県浜田市の男子刑務所「島根あさひ社会復帰促進センター」でなされている更生プログラムを追ったドキュメンタリーなのですが、激しく心を揺さぶられました。

 ここは官民混合型の刑務所で、Therapeutic Communityと呼ばれる実践がなされています。「回復共同体」と訳されますが、この実践中は受刑者(この施設では訓練生と呼ばれます)たちは番号で呼ばれず、名前で呼ばれます。ときに笑いも起きます。日本はとりわけ、厳罰主義の意識が強く、刑務所での人の扱い方が人道的でなく、国際社会からも批判されており、「島根あさひ」も必ずしもそのような状況から自由であるわけではありませんが、しかし、他の刑務所と比べると比較的自由度があります。映画では、円を描くように座り、自分が家族に虐待されたり、学校でいじめられたり、それを教師に無視されたり、父親や上級生にタバコを手に押し付けられたりした過去を少しずつ、他の参加者や支援員からの質問を受け、ときに涙を流しながら語り始める。あるいは、自分が罪を犯すに至った過程から逃げてきた訓練生たちが、少しずつその過程を辿り直すことで、初めて自分の罪の重さにおののき、ゆっくりと向き合い始める、というものです。

 遺族のいつまでたっても癒えない気持ちを考えれば、このような映画を公開することに違和感を覚える人もいるかもしれません。しかし、この映画が凄まじいのは、ほんの一歩足を違う方向に向けたなら、あるいは、自分の苦しいときに友だちや家族が一言声をかけてくれていなかったら、私もこの刑務所に、このサークルに入っていたかもしれない、という、かなりリアルな感覚を嫌というほど覚えるところです。

 私がこの映画で重要だと思ったのは、訓練生たちが「サークル」、つまり円を作って語り始めることです(もちろん、一対一でペアを作って話すことや、3人で三角形を作って話すこともあります)。「まどかであること」もまた、数学と人文学の対話で重要なものかと思いました。たとえば、12人が円を囲めば、1人につき視線は残りの11人に向ける余地があります。他方で、小学校のような前を向くだけの教室では、児童は前に座っている子の背中か、あとは先生の視線と一対一勝負になり、視線の角度がずれると注意さえされます。『プリズン・サークル』を観て、私は、伊原さんと往復書簡をしているからかもしれませんが、円形の持つ不思議な効果を感じました。

 円の中で、言葉が次第に本音になっていく。言葉が出なくなることもある。言葉が重くなる。言葉に責任が伴うようになる。アイスブレイクと責任が同時にやってくる。中心に人はいません。ただ円周に沿って人がいるだけ。

 「仕立て屋のサーカス」という舞台パフォーマンスを主宰している曽我大穂さんが私の講義を見にきたときにも、「藤原さんもっと学生たちの間に入ったらいいのに」「藤原さんを見るふりをして、他の生徒の顔や窓の外の風景を見られるのに」と指摘されてハッとしました。曽我さんは、観客にぐるっと囲まれた円形状の舞台で仕立て屋のハサミやミシンの音が鳴りひびくなか、いろんな楽器を演奏する、世界を駆け巡るアーティストです。私もこの前、仕立て屋のサーカスのパフォーマンスの一つとして京都や東京で食のゼミを40分間やりましたが、円形だと観客の目線が私を媒介にして無数に輻輳したり、散らばったりするので、私の口から放たれる言葉が、一言一言重くなり、どこか共同作業のように感じました。

 円と線。ぜひ、伊原さんに円という図形について、なんでもいいので語っていただきたい、と密かに思っています。すぐにとはいいません。気が向いた時にでもお願いします。

(伊原さんから藤原さんへのお返事は、毎月20日に公開予定です。)

藤原辰史/伊原康隆

藤原辰史/伊原康隆
(ふじはら・たつし/いはら・やすたか)

藤原辰史(ふじはら・たつし)
1976年生まれ。京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史、食の思想史。2006年『ナチス・ドイツの有機農業』で日本ドイツ学会奨励賞、2013年『ナチスのキッチン』で河合隼雄学芸賞、2019年日本学術振興会賞、同年『給食の歴史』で辻静雄食文化賞、『分解の哲学』でサントリー学芸賞を受賞。『カブラの冬』『稲の大東亜共栄圏』『食べること考えること』『トラクターの世界史』『食べるとはどういうことか』『農の原理の史的研究』ほか著書多数。

伊原康隆(いはら・やすたか)
1938年東京生まれ。理学博士。東京大学名誉教授。京都大学名誉教授。1998年日本学士院賞。東京大学数物系大学院修士課程修了後、勤務先の東京大学理学部(1990年まで)と京都大学数理解析研究所(2002年まで)を本拠地に、欧米の諸大学を主な中期滞在先に、数学(おもに整数論)の研究と教育に携わってきた。著書に『志学数学――研究の諸段階 発表の工夫』(丸善出版)、『とまどった生徒にゆとりのあった先生方――遊び心から本当の勉強へ』(三省堂書店/創英社)など。最新刊は『文化の土壌に自立の根』(三省堂書店/創英社)。

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